山岳民族の子供たち
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タイの山地民(山岳民族)の現状

リス族の子どもたち
リス族の子どもたち

タイという国は便宜的に北部、東北部、中部、そして南部という4つのパートに分けられていますが、山地民と呼ばれる人々は、チェンマイ県、チェンラーイ県、パヤオ県、ナーン県、メーホンソン県、プレー県、カンペンペット県、ターク県など主に北部全域と中部のミャンマー国境近くの山地帯に住んでいます。タイ族系の人々とは文化も言語も異なり、独自の民族衣装をもっています。タイ国内にはカレン族、アカ族、リス族、モン族、ラフ族、ミエン族、ラワ族、パローン族、カムー族など十数の民族、約100万人が居住しているといわれ、現在も人口は増加の傾向にあります。

ラワ族の種まき
ラワ族の種蒔き

中にはラワ族などのように、タイ王朝が築かれる前から住んでいたといわれる先住民族もいますが、多くは19世紀から20世紀にかけて中国やミャンマー、ラオスなどから国境を越えて少しずつ徐々に流入、移住してきました。そしてその多くがつい最近まで焼畑農耕を営み、米や穀物、野菜などの栽培、それに畜産によって自給自足に近い生活を送ってきました。

5年から10年という長いローテーション・サイクルで土地を使用するため、集落は頻繁に移動し、住居には竹や草、木材のみを使った簡素でエコロジカルな住生活を営んでいました。山地民の人々はかつて、タイ政府の治安の及ばない国境地帯に住み、また平地での水田耕作を好むタイ族の人たちがあまり居住しない山地に住んでいたため、タイ政府や周辺の住民たちとの大きな摩擦や問題は発生しませんでした。

モン族の焼き畑
モン族の焼き畑

ところが、ここ半世紀の間に事情は大きく変化しました。山地民の人々の現金収入源のひとつであったヘロインの原料となる違法なケシ栽培、そして麻薬をめぐるさまざまな民族組織の暗躍、周辺諸国の共産化にともなう、タイ政府の国境地帯の警備強化、タイの経済成長にともなう国境地帯の土地や森林資源の開発という観点からも、ラオスやミャンマーから流入を続ける山地民の人々の動向はタイ政府にとっても無視できない存在になったのです。

モン族の焼き畑
ラフ族の集落

タイ政府は山地民をタイ国民として認め、IDカードを取得させる方向で、1969年より山地民の住民登録と戸籍調査を開始し、定住政策を推進しました。そして1975年より山地民への国籍付与を開始しました。一方で、自然環境保護の観点から1985年に森林伐採と焼畑を全面的に禁止し、山地民の人たちは新たな土地の開墾が実質的に不可能な状態になりました。

農地は狭められ、山の痩せた斜面の限られた耕作地の連続的な使用を強いられるため、土地は疲弊し、農薬や肥料に頼らざるを得なくなり、またタイの作物の相場の乱高下などに翻弄され、彼らの農業は困難に直面します。農業での生計に希望を失った人々は賃金労働者として都市に流れますが、職探しは容易ではなく、また学歴がなく、タイ語が話せないことが雇用の障壁になったり、差別や不当な条件での労働を強いられることになりました。

女性の多くも売春などの労働者として都市に流れ、おりしも1990年代初頭から深刻になってきたAIDSの蔓延の時期と重なり、若者を中心に多くの人々が十分な知識や認識のないままに感染していくという悲劇が生まれました。また家計が行き詰まって困窮した人々がヘロイン、覚せい剤などの麻薬の売買に手を染め、さらに自らも麻薬中毒になっていくというケースも激増していったのが、1990年代から2000年代初頭にかけての状況でした。

ケシの花
阿片やヘロインの原料となるケシの花畑

また真面目に働く人は貧困にあえぎ、非合法な麻薬に手を染めた人だけが富裕化していくというアンフェアな社会のありかたのなかで、本来正直で公正を尊ぶ山の人々の道徳・倫理観をも喪失させていった時代です。伝統的な信仰のものとで、儀礼を行いながら村人が協力することによってなりたっていた村の共同体も崩壊の兆しをみせています。

1980年代までは、山地民の人々の住む山地帯には小学校さえもない村が多く、現在の40代以上の人々の多くは小学校さえ出ていなません。村を出て街の学校に子どもを寄宿させ、学校に通わせられるのはほんのひとにぎりの富裕層だけでした。村に学校がある場合でも、町から派遣されたタイ人教師は文化や言語の違いから、授業を放棄してしまうケースも数多く見られました。結局多くの子どもたち小学校卒業程度の学力も身につかないまま、出稼ぎなどのため社会に出ていかざるを得ないという状況が続きました。

リス族の少女
リス族の少女

タイでは1974年に6-3-3-4制がスタートし、小学校6年までの義務教育化が実施されました。以来政府によって山地の村の多くにも小学校が建設されはじめ、1999年には中学校3年までの義務教育化が施行されましたが、それでも山地における小学校の卒業率、中学への進学率は低迷したままでした。1985年当時チェンラーイ県全体の中学進学率は29.7%だったのが1991年では57.7%にまで上昇しましたが、山地民に限定すれば中学進学率は20%程度だったと思います。

チェンマイ県やチェンラーイ県の一部の地域では、NGOによる山地民の支援そのものは比較的古くからおこなわれており、特に欧米のキリスト教団タイによる奨学金支援は1950年代から行われていました。さくら寮の子どもたちが通っているサハサートスクサー・スクールはすでに創立54年になりますから、すでに半世紀前から山地民への教育支援活動が行われていたことになります。

タイ政府のほうでも国境地帯において1959年に国境警備警察による学校を開校し、1963年よりタイ北部各県に山地民開発福祉センターを設置し、その管轄による無償の全寮制の学校なども開設されましたが、その恩恵にあずかる子どもはほんのひとにぎすぎず、大半の支援がキリスト教会などの海外のNGOによるものでした。必然的に山岳地帯におけるキリスト教への改宗は加速度的に進み、その背景としてこのような全寮制の学校の存在が一定の役割を担っている部分があります。

アニミズムやシャーマニズムなど伝統宗教の信仰が強い村の中では、キリスト教に改宗させるということは非常に困難で、子どもたちを幼い頃からその堅固な共同体から切り離して生活させることはキリスト教を布教する側にとっても好都合なことでした。こうした子どもたちの教育支援とキリスト教の普及の抱き合わせのプロジェクトの功罪については、またほかの機会に触れたいと思います。

山地民の集落

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