リス族の子供達

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さくら寮日記 2004年

子供たち

  2004年09月24日   「レンタルビデオ」

  2004年10月05日   「タイのウルトラマン」

  2004年10月24日   「タイのエリマキトカゲ」

  2004年11月24日   「少数民族の祭典」

  2004年12月05日   「友好スポーツ大会」

  2004年12月18日   「クリスマス会」

 



2004年9月24日   「レンタルビデオ」


さくらプロジェクトの若いスタッフ、カンポンから聞いたのだが、タイのある機関の調査によれば、ここ10年間、タイ人1人あたりが1日に読んだ活字の量は、平均6、5行だそうである。もちろん、新聞や雑誌、漫画、広告などを含めての話で、いわゆる「書物」に限れば、たぶん1日1行半ぐらいになるのではなかろうか。

 それほど、タイの人は本を読まない。本が売れないから出版界も書店も活性化しないし、活字産業はますます先細る一方である。特に古典、外国文学はまず読まない。翻訳物の出版点数も少ない。まあ、活字離れの問題は日本もタイのことを言えるような状況ではないが、確かにさくら寮の子供たちを見ていても、本当に情けなくなるほど本を読まない。

 さくら寮の図書係の女性(24歳・短大卒)でさえ学校の教科書以外の本を読んだのはこれまでの人生で7冊ぐらいかなあ、と言っていたので、他の寮生たちの現状は推して知るべし。現役の大学院生(修士課程)のカンポンにしたところが、学校の教材と新聞以外読んでいる姿を見たことがない。

子供たちは、新聞のテレビ小説欄はまじめに読んでいるが、これは平日から週末にかけてテレビで放送される連続ドラマの要約で、さくら寮では金曜日と土曜日しかテレビを見せないので、新聞でストーリーを把握しておかないと、クラスの友人との話題についていけないのだという。

しかし、タイのゴールデンタイムにおけるテレビドラマのチープな内容とそのワンパターンぶりといったら、こんなことでタイの未来を背負う子供たちの情操教育は大丈夫なのだろうか、と人の国のことながら心配になるほどだ。

 ならば、AV戦略。まずは、文字ではなく映像から。タイのメロドラマばかりではなく、心の洗われるような映画を見せて、寮の子供たちに豊かで温かい心を培ってもらおう、というわけで、先日日本に帰国したおり、シネマ・プロジェクターを買ってきた。

最近のシネマ・プロジェクターは、液晶タイプのものでもかなり進化を遂げ、10万円代の普及機種でも、ある程度部屋を暗くすればごくふつうの白壁にも300インチの映像をかなりクリヤーに映し出すことができる。自宅を映画館のようにできるなど、私の若いころのことを思えば夢のような話である。

 で、いよいよ寮内に「さくらナイトシアター」のオープンである。

 本を読まない子供たちに、世界映画の名作をとことん見せてやろう! 意気込んでチェンラーイのビデオレンタル・ショップに駆け込んだものの、私はしばし茫然と立ち尽くした。タイのレンタル・ビデオ事情はここ数年の間にまったく様変わりしていたのだ。テープメディアは姿を消し、ほとんどがVCDとDVDに変わっている。

いや、私だってDVDプレーヤの1つや2つは持っているから、それは別に問題ではない。悲しむべきは、ソフトの質が明らかに最近の「売れ筋」のものに限定されてしまっているということだ。売れ筋の本しか置かない昨今の日本の書店と同じだ。少数派の声が完全に切り捨てられている。チェンラーイに進出した「TSUTAYA」では、日本映画コーナーもあったが、並んでいたのは、「バトル・ロワイアル」「バトル・ロワイアルⅡ」およびいくつかのホラー映画のみだった。うーむ! この品揃えはいったい・・・・・・。

 そもそも私が熱心に映画館に通っていた1980年代半ばまでの映画などはほとんどおいていない。

 以前利用していたビデオレンタル・ショップ(ただし、客を最初から万引きと疑ってかかっているレジの中国人オーナーの婆さんの陰険なまなざしには閉口させられた)の棚には、あまたの娯楽作品の中に混じって、「おっ」と叫びたくなるような、あるいは思わずにんまりとしたくなるような往年の名作、問題作、マニア受けする作品が並んでいた。

しかし、そのショップも「TSUTAYA」などに押されて、今年になってつぶれてしまった。晩年はほとんど客が入っていなかったあのさびれたビデオレンタル・ショップの、あの貴重なビデオ・テープ群は、もう廃棄されてしまったのだろうか。もったいない。あのとき、迷わずにレンタルしてコピーしておけば! 

 まあ、昔のことはともかく、いざ探してみると、安心して子供に見せられるような作品は昨今のビデオレンタル・ショップにはあまりおいていないものだ。

 違法と知りつつ、海賊版に頼る、という手もある。

 数年前、メーサイの向こう側、ミャンマーのタチレクで「A.I.」の海賊版VCDを買ってきて子供たちに見せたことがあった。

 メーサイやタチレクで売られている海外モノの作品の多くが違法コピーもしくは海賊版で、封切り直後の新作など、ひどい場合には、中国あたりの映画館のスクリーンからホームビデオカメラで直接撮影した映像がVCD化されて出まわっていることがある。

 この「A.I.」がまさにそれで、これがまた想像を絶するようなズサンな撮影。たぶん臨時雇いの素人がカメラを渡されて映画館で隠し撮りをしたものだろう。スクリーンの画質だから画像が暗いのは当然として、観客の品のない笑い声が入っていたり、咳払い、鼻を噛む音、バリバリとお菓子を食べている音が聞こえてきたり、トイレにたった客が前を横切ったりするために突然画面が真っ暗になったりする。カメラワークもお粗末で、ピンぼけになったり、素人のビデオ撮影みたいに意味もなく突然ズームイン、アウトを繰り返したりしている(するか、普通)。

   きわめつけは、たぶん、睡眠時無呼吸症候群気味の撮影者が途中で居眠りに突入したのだろう、カメラの向きが徐々にさがっていって、約10分間、スクリーンのトリミングが上半分ぐらい完全に切れてしまっていた。で、やっと目覚めたのか、また正常に戻っていたりする。「失敗したらもう1度撮れよな」と突っ込みを入れたくなるようないい加減な作品が市場に堂々と出回っているのである。

 かと思えば、なかなか涙ぐましい海賊版もある。先日、子供たちに見せようと、だまされて買ってきたのが、中国版アニメの「ターザン」。スーパーのバーゲンで1枚29バーツで売っていた。てっきり本物のディズニー映画の「ターザン」の違法コピーによる海賊盤かと思ったら、なんと、中国の地下スタジオで製作されたと思われる、タイトルだけ「ターザン」の完全オリジナル作品だった! ほとんど素人が描いたとしか思えないものすごく稚拙な原画キャラクター、そしてデッサンが完全にくるった手抜きだらけの背景、パートのおばさんたちが徹夜で仕上げたとおぼしき、ぎこちない動きをするセル画・・・・・・。

 ストーリーこそ盗作だが、一から全部描き直して自力でアニメ作品にしてしまっているという、健気なというか、トマソン的な(?)努力と情熱に脱帽した。どうせ著作権侵害の汚名をきせられるのなら、オリジナルを丸ごとコピーするほうがずっと楽して儲かるのに、この律儀な態度はいったいなんなのか? それにここまでやるだけの情熱と労力と人材があるのなら、いっそのことオリジナル作品で勝負すれば、と思うのだが、やはりタイトルが「ターザン」だからだまされて買う人がいるのだろう。私みたいに。しかし、そもそもこれ、ビジネスとして、成り立っているのだろうか? 他人事ながら心配である。

 この力作アニメが中国人の作品ではなくて、タイ人による製作だとしたら、私はタイ人をちょっとだけ見直すのだが。


2004年10月5日   「タイのウルトラマン」



子供たち
さくらエコホームの子どもたち

  さくらプロジェクトの関係者であるHさん(私とほぼ同年代)は、大の映画ファンで、その渉猟の対象は洋の東西を問わず、また大作、駄作、名作、問題作を問わず、小津安二郎、ジャン・リュック・ゴダールから第三世界の入手さえ難しいマニアックな作品まで幅広く収集している。そのHさんから「ハヌマンと7人のウルトラマン」(ソムポート・センドゥアンチャーイ監督・1974年)というタイ映画のDVD化されたものを何とか手に入れてほしいという指令が私のもとに入った。

 Hさんのためなら、草の根をかきわけても探さねばならない。

 まず、チェンラーイのレンタルビデオショップを探してまわったが、そんなものはどこにもおいてない。れっきとした円谷プロ製作のものはあるのだが、タイ製のウルトラマンなんて・・・・・・。タイ人の店員さんからも鼻で笑われた。なにしろこれ、30年も前の作品らしい。古典など見向きもしないタイの人がそんなものを見たいと思うわけがない。そもそもそんな古い作品、DVD化などされているのだろうか。

 インターネットのタイ語の検索サイトで、タイトル名を頼りにいろいろ検索をかけたのだが、案の定、まったくヒットしなかった。日本語の検索サイトで検索したら、ソムポート・センドアンチャイ氏と円谷プロの著作権をめぐる裁判記録にいきあたり、ソムポート氏の作品を制作している会社がチャイヨー・フィルム・カンパニー・リミテッドであることはつきとめた。電話番号を調べてスタッフのカンポンに電話してもらうと、この作品はDVDとVCDが販売されており、バンコクの大手DVDショップなどには置いてあるはずだとの返事。そこでバンコクで俳優業をやっているカンポンの弟さんに頼んで、バンコクのショップをいろいろあたってもらったのである。苦労はしたがなんとか入手できたようで、EMSで郵送してくれた。

 さっそく、カンポンと一緒に観た。あまりのキッチュさ、低俗さ、支離滅裂さに、ふたりで腹を抱えてげらげら笑ってしまった。
「ハヌマンと7人のウルトラマン」は英語のタイトルは 「HANUMAN vs 7 ULTRAMANS」になっており、ウルトラマンとハヌマンが一戦交えるのかと思いきや、ウルトラマンとハヌマンは仲良くタッグを組んで怪獣達と闘うのだ。ちなみにウルトラマンはタイ語では「ヨード・マヌット」(超人間)という。

ストーリーはいたって単純で、遺跡から仏像を盗み出そうとしていた泥棒を追いかけたために、泥棒たちに射殺されてしまった少年を、ウルトラの母が救い、巨大なハヌマンに変身させる。ハヌマンとはインドの叙事詩「ラーマーヤナ」に出てくるラーマ王の部下である白猿神であるが、映画の中でウルトラマンと並ぶと、まるでタイ版「大魔神」という感じである。

 さて、このハヌマンが科学捜査隊(モドキ)の基地の地下から唐突に現われた怪獣たち4頭と格闘をはじめるのだが、多勢に無勢で苦戦しているところに、ウルトラ6兄弟が宇宙から加勢にやってくる。ウルトラ・ファミリーは総勢6人(タイトルは「7人のウルトラマン」になっているが、これは留守番をしていたウルトラの母の含めた人数らしい)でハヌマンを含めると7人になるので、完全に数的優位にたち、最後に1匹残った怪獣などは、ウルトラ兄弟達によってたかって袋叩きにされる。ほとんど中学生のいじめの現場を見ているような雰囲気で、妙に怪獣に同情したりする。

 科学捜査隊のハヤタ隊員風のコスチュームの2人の青年も出てくるが、この2人の狂言回しは、タイ風のボケと突っ込みのドタバタギャグを演じるだけで、ウルトラマンに変身したりしない。科学捜査隊のコスチュームとヘルメットは、ハヤタ隊員というよりも、日本テレビの「元祖ドッキリカメラ」の野呂圭介という感じだ。

 フィルムライクな古典的特撮テクニック、「2001年宇宙の旅」の最後のあたりを見ているようなサイケデリックな画面、ま、1970年代初頭の特撮タイ映画と考えれば、かなり健闘しているとはいえる。映画評論家の四方田犬彦によれば、監督のソムポート・センドアンチャイは、黒澤明が『天国と地獄』を撮っていた時、砧撮影所に留学していたそうで、撮影所では、円谷プロが『キングコング対ゴジラ』を撮っていたとのこと。ソムポート氏は『ウルトラ6兄弟VS怪獣軍団』の脚本にも参加しており、日本を去るときは、「タイ映画のためにがんばれ」と黒澤明から色紙ももらったそうである。そんなソムポート監督、そのころは大の日本びいきだったのだと思うが、その後、円谷プロとの著作権契約問題でこじれ、裁判沙汰にもなった。

 ビデオを見ていて、私とカンポンが共通して指摘した事実があった。映画の中でハヌマンとウルトラ兄弟はともに怪獣と戦っているのだが、よーく見ると、ほとんど休みなく、無駄口一つ叩かず、律儀に闘っているのはウルトラ兄弟達だけで、ハヌマンのほうはといえば、ときどき気まぐれに戦闘に参加するのだが、たいていは猿のように踊ったり(猿の化身だから当然だが)、手を叩いて声援を送ったりしているだけである。ようするにほとんどさぼっているわけだ。

「なんかこれ、タイ人と日本人の気質を表わしているような気がしないでも・・・・・・」 とカンポン。

子供たち

「よく言えば勤勉、悪くいえば、遊び心がないっていうかなあ。ウルトラマンは、ワーカホリック日本人の象徴ってわけか」
 私たちの観察を裏付けるように、Hさんからメールが届いた。「日本の雑誌でこの映画を評した四方田犬彦は、タイのハヌマンを舞踏のような遊戯と見、日本出身(?)ウルトラマンたちを、どこまでも集団的規律を崩さず、すばやい動作で能率的に怪獣を退治する者だと考えています」。

 さらにその四方田犬彦によれば、ソムポート監督の最新作では、ウルトラマンが地上の人間を救うために下生してきた仏陀の化身であったという秘密がついに語られるそうだ。うーむ、見たいような、見たくないような。


2004年10月24日   「タイのエリマキトカゲ」



エリマキトカゲ
 タイのエリマキトカゲ

前回はタイ製のウルトラマンの話をした。

ウルトラマンのDVDを探す過程で、同じソムポート・センドアンチャーイ監督による特撮作品「キンカー・ガイヤシット」(エリマキトカゲの大冒険)という映画のCVD化されたものも手に入ったので、ついでに見た。これがまた、「ハヌマンと7人のウルトラマン」に輪をかけた馬鹿馬鹿しさで、腹をかかえて笑ってしまった。

この映画、なぜかタイ人気ロックバンド、カラバオの大ヒット曲「メイド・イン・タイランド」(1984年)という歌をバックに、エリマキトカゲがローラースケートをはいてバンコクの高速道路を疾走するという、ほとんど意味不明の冗長なシーンから始まる。

ウルトラマン・ファミリーがある日突然、アダムスキー型のUFOに乗ってバンコクの暁の寺上空に現われる。このウルトラ一族は悪党で、暁の寺(ワット・アルンなのだが、映画の中では「ワット・チェン」になっていた)の地下に眠る秘宝を強奪にきたのだ。秘宝番のエリマキトカゲだが、のんきに居眠りなどをしていて、まんまと秘宝をウルトラ一族に奪われてしまう。それを知った寺のヤク(寺を守っている鬼神)は秘宝を取り戻すために空を飛んで追いかけていく。ヤクが三段跳びの最初の「ホップ」のような姿勢で飛んでいる姿は、まるでタイの伝統影絵「ナグ・タルン」のように静止したままである。

ドジでのろまなエリマキトカゲはその後、寺を出てバンコクのクローン(運河)沿いをさまようのだが、そこでエリマキトカゲの密猟にきていた男達に追いかけられたり、獰猛な人食いワニと格闘したりしてドタバタ劇を演じる。このあたりはタイ伝統のナグ・タロック(コメディ映画)の典型的パターンである。ワニは最初のシーンでこそ、バンコクのワニ園あたりでレンタルしてきた本物を使った実写なのだが、たぶん撮影途中で本物は危なすぎて手におえないとわかったのだろう、以降は、できの悪いちゃちな張りぼてが使用されている。でも、水中セックスしていた豊満な乳房を持った全裸の女がワニに食い殺されるシーンなどはちょっと子どもには見せられないようなエログロで、変にリアルで生々しい。

一方、天上ではヤクがウルトラ・ファミリーと壮絶な戦いを繰り広げているのだが、このシーンはほんの数分しかなくて、ほとんどはエリマキトカゲと人間、エリマキトカゲと人食いワニとの地上戦に終始する。「ハヌマンと7人のウルトラマン」に比べると、製作予算はかなり縮小されているようで、特撮よりも実写の割合のほうが多くなる。ロケもアユタヤの遺跡とかクワイ川鉄橋付近とか、近場ですませている。しかもここではウルトラ・ファミリーは単なる脇役になりさがってしまっている。

 「キンカー・ガイヤシット」は日本でエリマキトカゲがブームになった1984年か1985年頃(カラバオの「メイド・イン・タイランド」が挿入歌になっているので少なくとも1984年以降であることは確か)に製作されたと思われるこの映画だが、ひとつ気になることがある。

エリマキトカゲ

 「ハヌマンと7人のウルトラマン」は1974年の作品で、タイではちょうど学生などの知識層を中心にした反日、排日運動がピークを迎えていた時期だ。1973年の10月6日には「血の日曜日事件」、それから翌年1月9日には田中首相訪タイ反対デモ、日本製品ボイコット運動などがおこっている。しかし、映画の中ではハヌマンとウルトラマンは手に手を取って闘っており、怪獣をやっつけたあと、ハヌマンがウルトラマンたちと握手をして日本語で「ありがとう」などと言っている。

 ところが、反日運動も下火になったはずの1980年代に作られた「キンカー・ガイヤシット」になると、ウルトラ・ファミリーは、タイの財宝を強奪する悪党に変貌しているのだ。かつて悪玉だった怪獣が善玉になるというパターンは日本にもあるけど、その逆ってのはあんまり聞いたことがない。ウルトラマンが日本の象徴だとすれば、「日本人=悪役」ってことか。このあたり、ソムポート・センドゥアンチャーイ監督の対日感情は10年たって微妙に変化を遂げているのだろうか。著作権問題はこの頃からこじれ始めていたのだろうか? 

映画の主題歌的地位を占めているカラバオの「メイド・イン・タイランド」は、当時タイで氾濫していた日本製品や似非日本製品に対する皮肉の意味がこめられた、プロテストソングである。この歌が主題歌になっていること自体、象徴的である。

さて、この映画に登場するような、いわゆるエリマキトカゲというのは、実はタイにはいない。生息地はニューギニアやオーストラリアである。まあ、バンコクのチャトチャック(ウィークエンドマーケット)では売られているらしいが、あそこは何でもありだから。おそらく、ソムポート監督がエリマキトカゲをキャラクターとして選んだのは、当時の日本のエリマキトカゲ・ブームをあてこんでのものだったと思われる。もしかして日本での公開も考えていたのか? 

タイにも、エリマキトカゲのように二本足でユーモラスな走り方をするトカゲ類はいて、「キンカー」と総称されている。さくら寮の周辺にもけっこういて、木の幹などにへばりついている。とさかのようなトゲトゲがあり、イグアナの甥っ子みたいな姿をしている。保護色が得意で、ブロンズ像のように青くなったり、枯れ木のように茶色くなったりする。近くで見るとけっこう不気味である。

不気味であるといえば、家の屋根裏などに住み着いているオオイエヤモリ(いわゆるトゥッケー)もまた奇怪な形相をしている。大きいものは40センチ~50センチにもなり、出会い頭に手をのばしたて、がぶりと噛み付かれた人もいるそうだ。昼間は屋根裏などに隠れていて、夜になると、蚊や小昆虫などの獲物を求めて行動する。

タイではトゥッケーが一度に7回続けて鳴くといいことがあると信じられており、私もよくトゥッケーが鳴き出すとその回数を数えていたが、これまで7回なくトゥッケーに出会ったことがなかった。いつだってせいぜい5、6回どまりだった。
ところが今年になってわがさくら寮に住み着いたトゥッケーは威勢がよく、7回、8回と立て続けに鳴き、ちょっと休んでまたすぐに3、4回鳴くというつわものだ。ただし、7回鳴いた日でも、わが身にいいことはひとつもない。

最近その姿をついに写真に撮ることができたので、紹介する。体長は約25センチ。人間でいったら青年期ぐらいだろうか。まだまだ大きくなりそうである。

エリマキトカゲ

アカ族女性
アカ族の寮生たち


2004年11月24日   「少数民族の祭典」


少数民族の祭典

11月19日(金)から22日(月)までの4日間にわたり、チェンライのラジャパッド・ユニバーシティ(もとチェンライ教育大学。現在は総合大学になっている)キャンパス内において、第1回メコン川流域少数民族文化フェスティバル(The first festival of ethnic culture on greater maekhong sub region and indigenous knowledge fair)が開催された。タイ北部各地の山岳少数民族はもちろんのこと、中国、ラオス、ミャンマーなどからも少数民族の人たち数千人を招き、その文化・芸能の紹介を通して民族間の相互理解と交流を深める大規模なイベントだ。

 ラジャパッド・チェンライが主催したこのイベント、今年が初めての開催で、私が知る限り、少なくともチェンライで行われる少数民族関連の催しとしては過去最高の規模でなかったかと思う

 さくらプロジェクトの寮にもラフ族、アカ族、モン族、リス族、ヤオ族、カレン族、タイルー族という7つの民族の子供たちが集まっているが、タイには他にももっと多種多様な民族が住んでいる。ダルアン族、ワ族、カムー族、ラワ族、カチン族、ビス族、ムラブリ族などである。ミャンマーやラオス、中国にはさらにその何倍もの種類の民族がいる。このイベントにも50を超える民族が大集合した。

 祭りに参加した各民族の人々は、大学構内に建設された各民族の伝統的な建築方式によるモデル・ハウスに寝泊りし、モデル・ハウスの周辺や特設ステージなどでその芸能や文化習慣を披露する。各民族やNGOなどによるエスニック・グッズ関係の出店、屋台食堂もたくさん出ていて、1日中ぶらぶらと会場内を散策しても飽きないほど。出店を冷やかして歩いたり、色とりどりの民族衣装を着た人たちが闊歩する姿を眺めたり、声をかけて写真を撮らせてもらうだけでも楽しい。夜になれば、異なる国籍、民族の人たちが広場に集まり、一緒に夜がふけるまで輪になって楽しく踊るという、和やかなひとときも。さくらプロジェクトもこのイベントに参加し、寮の子供たちが野外ステージで踊りを披露した。

 18年前、私が初めてタイに来た頃には、地元の住民はもちろんのこと、タイ政府も行政機関も、いや地元の大学の研究者でさえ、ほとんど少数民族に関心ははらっておらず、このような大きなイベントが国立大学の主導で開かれることなど想像さえできない状況だった。それまで熱心な関心を寄せていたのは、外国の研究者や個人の好事家のみだったからだ。チェンライでは毎年山岳民族開発支援センターが山岳民族の踊りなどを出し物にしたチャリティーのカントークディナーを開催していたが、その内容はチェンマイあたりのカントークディナーの山岳民族ショーと同程度で、観光ショーの域をまったく出ていなかった。

 そう考えると、平地タイ族の人たちも数多く見物に訪れたこのフェスティバルの盛況ぶりは、なかなか感慨深いものがある。少数民族の人たち自身も、かつては平地タイ族に対して不要な劣等意識を抱いている人が多かったが、今では確実に自民族の文化に誇りを取り戻し始めていることを、その堂々としたステージや晴れやかな表情のなかに垣間見ることができた。

少数民族
カチン族の女性


2004年12月05日   「友好スポーツ大会」


スポーツ大会


12月4日(土曜日)5日(日曜日)と 2日間にわたり、さくら寮の子供達が通うサハサートスクサー・スクールのグラウンドにて、「4寮友好スポーツ大会」が開催された。4寮というのは、私の関わっているチェンラーイのさくら寮のほか、ウィンパパオ郡で中野穂積さんが中心となって運営されている暁寮(ルン・アルン寮)、シーカー・アジア財団の運営するパヤオ県ポーン郡のシャンティ寮、それにドクカムタイ郡にあるパヤオYMCAの生徒寮である。いずれも何らかのかたちで日本人もしくは日本の支援組織が関わっている教育支援プロジェクトであるのが共通項である。
 この友好スポーツ大会、もともとは、12年ほど前から、中野さんのところの暁寮(かつてはメースアイ郡にありリス生徒寮と呼ばれていた)と毎年1度、交流試合を行っていたのがはじまりだが、数年前から、ほかの2つの寮も加わって、規模を拡大し、俄然にぎやかに、楽しくなった。

今年はさくらプロジェクトがホスト寮となって、各競技の仕切りはもちろんのこと、他の3寮から遠路はるばるやってきた約130名の生徒、スタッフのみなさんをさくら寮にお泊めし、2日間の食事の世話などをさくらプロジェクトがすることになった。これは毎年、各寮のもちまわりである。さくら寮生140名とあわせて総勢270名が参加の大イベントである。

 競技はサッカー、バレーボール、バスケットボール、セパ・タクローなどの球技のほかに、長距離走、短距離走、リレー、玉入れ(純日本風)、団体なわとび、袋競走、風船送り、お菓子早食い競走、生卵リレーなど楽しいゲームも盛りだくさん。2日間にわたって熱戦が繰り広げられた。

 以前は、試合は各寮対抗という形式がとられていたが、寮ごとに生徒の年齢層、人数に大きく差があり、どうしても年長の寮生の多いさくら寮が数的優位で勝ってしまい、これでは勝ったほうも負けたほうも楽しくないということで、2年前より、すべての寮の生徒たちをごちゃまぜにして赤、ピンク、青、緑の4チームに分け、各寮の合同チームで競うことになった。このほうが互いの寮生同士が打ちとける機会もできて、このスポーツ大会の本来の目的である、寮同士の友好と親睦がはたせられるのである。勝った負けたで他寮との生徒といがみあったり、けちなライバル意識を剥き出しにする必要もない。

 結果は、緑色チームが優勝したが、各寮とも仲良く賞品のお菓子をわけあって、それぞれチャーターしたバスに乗って帰っていった。


2004年12月18日   「クリスマス会」


毎年恒例の寮内クリスマス会が開かれた。
 クリスマス会は開寮してから毎年開かれているのだが、2年前に清水中央ロータリークラブの寄贈により300人ほどが入れるステージつきの小ホールが完成して以来、なかなかの盛り上がりを見せている。今年も午後2時から、午後10時すぎまで、途中夕食タイムをはさんで延々10時間、50以上の子供たちの演技や出し物が分刻みのスケジュールで次々と飛び出した。紅白歌合戦も真っ青の長時間イベントだが、次々と飛び出す子供たちの一生懸命な迷演(?)に不思議に飽きることもなく、時間がたつのを忘れるほどだった。

「さくらホール」の照明は、このあたりのNGOが運営する学生寮の常設ホールとしては異例の本格的設備で、パーライト30個にイメージスキャナー、ミラーボール、1200ワットのフォロースポットライトも備えている。音響のほうは、ヤマハやボーズのスピーカー、シュアーのボーカルマイクなどを使っているわりには、普通のモルタル塗りの壁とタイル張りの床のせいであまりにも残響がひどかったが、市場などで売っている再生紙を加工した生卵パックを壁に貼りつめたところ心なしか解消した。

 クリスマス会の出し物は各民族の歌や踊り、学年ごとの踊りや演劇、有志、飛び入り参加によるスペシャル・パフォーマンスなどである。私が老化防止のため趣味で子供たちとやっている寮内ロックバンド「LAOSU」のコンサートや、さくら寮の兄弟分であるさくらエコホームの寮生たちも参加した。

 今年の目玉は、寮生選抜によるカラオケ選手権。18組の寮生がエントリーし、各自か衣装や化粧にこったり、バックダンサーを引き連れたりして、歌唱力を競った。審査員はこのとき来寮されていた里親のみなさん。優勝は、ゴミ袋で作ったという妖しい衣装のバックダンサーを引きつれ、超ミニスカートで歌ったナミカイ・プーセンサップ(中3)。そのまま場末のホテルのラウンジで歌っても違和感がないほどの堂々たる歌いっぷりであった。



スポーツ大会

スポーツ大会