リス族の子供達

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さくら寮日記 2005年






2005年3月10日   「タイの卒業式」


卒業した子供たち

タイでも2月、3月は卒業式のシーズンである。

 先日も、さくら寮の子供達が通うサハサートスクサー・スクールで、中学校の卒業式が行われた。私立のバプティスト系のミッションスクールである。

 理事長、校長、牧師や教会関係者などによる眠気を誘う長い説教のあと、お昼近くになってようやく約200名全員の卒業証書の授与が終わると、式場から出てきた卒業生たちを、父兄や親戚、友人、先輩、後輩一同が花束やプレゼントを持って待ち受けている。大変な数だ。そして式場周辺にしつらえられた花や色とりどりの風船で飾られたアーチなどの前で、両親や親戚、友人や恩師などとの記念写真撮影が延々と続くのである。

 この一種異様な(?)光景については、タイにきた当初、とても気になっていた。たかが中学の小僧っこたちの卒業式なのに、まるで鬼の首でもとったようなこの大袈裟なはしゃぎぶりと盛り上がりは、いったいなんなのだ。後日わかったことは、これは大学の卒業式を模倣しているのだった。大学の卒業式がこれまた大変なお祭り騒ぎなのである。
 昨年、さくらプロジェクトで支援していた女子学生Mがチェンマイ大学政治学部を卒業し、卒業証書の授与式があるので、ぜひ参加してほしいと請われ、チェンマイまで出かけていった。

 Mはそのときすでに大学を卒業し、アユタヤに本社がある日系企業に就職していた。しかし、タイでは大学の卒業証書は、王室関係者からひとりひとり直接授与されるため、日程の関係から、卒業後1年近くもたってからやっと授与式の日を迎えるのである。授与式の本番前にもリハーサルが2回あり、王族の前で粗相がないよう、受け取り方から退出の仕方にいたるまで厳しい特訓を受ける
(一般人が国王陛下の前で何かを受け取るなどという恐れ多いことはこういう機会以外にはまずありえないので、実際あまりに緊張しすぎて逆に足がもつれてこけたり、失神したりする学生もいるという)。チェンマイから700キロも離れたアユタヤで働いているMは何度も会社を休まねばならず、大変だったそうだが、それでもタイの人たちにとっては、卒業証書授与式は、万難を排してでも出席すべき儀礼らしい。

 チェンライを出発した私たちの車は、大学に近づくにつれ、ひどい渋滞に巻き込まれ、会場までたどり着くのに一苦労した。さらに悲惨なことにホテルはどこもほぼ満杯。大学の近くでやっと探しあてた幽霊が出そうなおんぼろホテルでさえ、宿泊料金がふだんの倍以上につりあがっていた。それもそのはず、大学の卒業式の場合、授与式の会場には卒業生本人以外は入場することを許されないのだが、にもかかわらず、家族や親戚、一族郎党、友人たちがわざわざ遠くからバスや車をチャーターしたりして、泊まりがけで会場に駆けつける。

授与式が終わったあとの、家族や友人たちとの記念写真撮影という重要なセレモニーが待っているからだ。これこそが、一世一代の大イベントなのである。このとき撮影された花束にガウン姿の写真は、国王や王族から証書を授与される瞬間の写真(指定された業者しか会場に入れないため、あらかじめ予約して大学経由で購入することになる)とともに、金の額縁におさめられ、その人の家や実家の応接間の一番目立つところに「お宝」として飾られることになるのだ。

 ことほどさように、大学を卒業するということはこの国の人たちにとって、重大かつ貴重で、自慢すべき名誉なことなのだ。いや、正確にはかつてはそうだったというべきかもしれない。最近はタイでも大学進学率はかなり上昇しており、学士様もさして珍しくなくなってしまった
。大学を卒業しても職にあぶれている人もいっぱいいる。しかし、かつては大学(学部卒の場合はパリンヤー・トゥリーと呼ぶ)を卒業したというだけで、安定した将来を約束するステータスを保証されたのである。その学歴の重みは日本人の想像をはるかに超えている。

 アカ族のMの家もチェンライのドイ・トゥン山の中腹にあるのだが、ご両親や親類たちがわざわざピックアップ・トラック2台をチャーターして総勢約20名で前日からチェンマイにやってきていた。これはホテル、ゲストハウスが満室になるのも当然である。チェンマイ大の卒業生だけで毎年3千人はいるのだ。ひとりの卒業生が平均10人(実際にはもっとであろう)の家族、親戚を引き連れてきたとしても、それだけで3万人になる。それにしてもこのお祭り騒ぎ、大学の卒業証書すら受け取りに行っていない私などは、いささか冷ややかな目で眺めてしまう。

 が、かくいうさくら寮でも、去る2月26日、毎年恒例の行事として寮内の「卒業生を送る会」が行われた。中学、高校、職業専門学校、大学などを卒業して、学業にひとつの区切りをつける寮生を対象に、その勉学の成就と今後の門出を祝う会である。

 会の前半は、学年ごとに別れた寮生があらかじめひそかに練習ずみの演劇や歌、踊り、かくし芸などの出し物を演じ、色気、おちゃらけをまじえて楽しく和やかに進行する。しかし、後半に入るとやや雰囲気が一変し、照明が落とされ、卒業生が1人ずつステージの上に立ち、スポットライトを浴びながら、切々と寮の思い出やスタッフや里親に対する感謝の思いを語る。言葉を詰まらせて肩を震わせる卒業生に、後輩たちが花束を持って歩み寄る。

このへんが会のクライマックスで、語るほうも聞くほうも、涙腺が緩みっぱなしである。トリを受け持つ私が、とどめとばかり、卒業生を前に、前の晩からかなり真剣に考えた、泣かせどころ満載の「贈る言葉」を語り聞かせる。この日ばかりは「3年B組金八先生」の武田鉄也のような気分である。最後、子供たちはみな肩を抱き合って号泣し、涙、涙の大団円で締めくくられる。まるであやしい新興宗教か自己啓発セミナ―の会場のような雰囲気だ。

 このイベント、年末の紅白歌合戦のようにお決まりの、寮内の恒例行事なのであるが、たとえどんなにステレオタイプとわかっていても、こういったカタルシスというのはわれわれの人生に必要なのかもしれない。

 しかし、これもたった一夜の幻のようなできごとであり、一夜明けると、まるで何ごともなかったかのように、いつもの日常生活が待っている。こちらの学校は日本と違って、卒業式が終わったその日にお別れというわけではなく、間抜けなことに翌日からもちゃんと授業があり、学期末試験なども待っているのだ。これでうっかり落第でもしたらどうなるのだろうか。

卒業した子供たち

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2005年4月23日   「寮生日本へ行く(前)」



タイの学校は3月から5月にかけて、長い長い学期休みになる。小、中学校で約2ヶ月、専門学校や大学になると、まるまる3ヶ月以上のビッグなホリデーになる。さくら寮の子供たちもこの間それぞれの村に帰っているのだが、毎年この間に、数人がちゃっかり結婚してしまっていたりする。

 そんな夏休みを利用して、4月7日から21日までの14日間、さくら寮の寮生4名が日本へ研修旅行に行ってきた。日頃寮生を支援してくださっている里親やさくらプロジェクトの支援者のご家庭にそれぞれ2~3泊させていただきながら、東京、岐阜、飛騨高山、豊橋などを旅してまわるというものである。ちなみに岐阜は私の実家でもある。

 今回訪日メンバーとして多数の希望者の中から選抜されたのは、男子1名、女子3名の4名。全員がさくら寮在寮7年以上の古株で、成績も普段の生活態度もよく、スタッフからの信頼も厚い寮生たちである。

 ラッポン・ワタナソンパン君(21歳)はモン族で、ラジャパッド・チェンライ大学コンピュータービジネス科の2年。趣味は動物を飼うこと。さくら寮では飼い犬の糞の処理係。血液型B型。

 ピンパー・サックモンコンサクンさん(17歳)はヤオ族。職業専門学校秘書科(2年生)で学んでいる。趣味は映画と音楽鑑賞。韓国映画が好きで、あのヨン様のファンだとか。血液型B型。

 スリワン・ジャピさん(20歳)はラフ族で、職業専門学校洋裁科の3年生。趣味は寝ること、食べること、テレビを見ること(なんじゃそれは)。血液型AB型。

 ラダー・アタポンプーシットさん(16歳)はモン族、職業専門学校洋裁科の2年生である。趣味はギター。血液型O型。4人の中で年は一番若いが、一番のしっかり者で、他の3人をしきりまくっている。

 そして付き添いとして私が全行程をともにした。岐阜から京都まで車で日帰り見学をして帰ってくるという日もあったりして、14日間休養日なしのかなりの強行スケジュールではあったが、私自身にとっても、タイの4月の焼け付くような暑さと、もはや食傷気味のソンクラーン祭りの喧騒から逃れ、日本で満開のさくらを見て、日本食を毎日食べられるとあっては、役得以外の何ものでもない。


さて、寮生たちが今回訪日するにあたってやってみたいことは

  1. ① 超高層ビルの一番高いところに登ってみたい。
  2. ② 雪を見たい。
  3. ③ さくらの花を見たい。
  4. ④ 富士山を見たい。
  5. ⑤ 新幹線に乗りたい。
  6. ⑥ 動物園に行きたい。
  7. ⑦ ディズニーランドへ行きたい。
  8. ⑧ 大きな海老を食べたい。(全員、体長5センチ以上のエビを食べたことがない)
  9. ⑨ 海を見たい。
 というかなり欲張りなものだったが、ホームステイ先の皆さんのご協力により、富士山を見ること意外はすべて達成できた。(富士山は名古屋に向かう新幹線の中から見える予定だったのだが、あいにくの雨空で、まったく見えなかった)。

 ちなみに寮生たちが日本で一番恐れていたことは、一緒に温泉に入らされるはめになるのではということだった。「温泉はみな素っ裸になって入るんだよ。露天風呂や混浴だってあるんだから」という私に、女子全員が恐れおののいた。タイには混浴はおろか、みなで一緒に風呂に入るという習慣はない。女子は個室で水浴びするときですら、サロンを身にまとったままだ。以前、日本から若い元気な女子学生がさくら寮に遊びに来て、子供たちと仲良くなり、共同浴室で一緒に水浴びしようということになったのだが、その女子大生、いきなり子供たちの前でスッポンポンの丸裸になってしまい、寮生たちは目が点になっていた。

 もとより研修とはいっても、2週間という、観光旅行に毛が生えた程度の短い旅程であるから、たいしたことは学べないかもしれない。しかし、日本の自然、日本の空気、日本の食べ物、日本の家庭に触れることで、かすかでも「日本的なるもの」「日本風」を感じとってくれればそれでよい。

 4名には、メンバーが決定した12月初旬から約4ヶ月にわたって集中的に日本語を特訓してきたので、全員、いささか怪しげながら、簡単な日本語会話ができるまでになっていた。また、学期休みに入った3月初旬からの1ヶ月間は、日本での連日のハードスケジュールにそなえ、私を含め全員が毎日夕方1時間半から2時間のウォーキングで体を鍛えた。これは私自身の健康のためでもある。日本では、タイにいるときに比べてはるかに歩くのである。電車の乗り換え、買い物、ディズニーランドや遊園地、動物園でも歩き回る。鍛えていかないとすぐに息切れがして、生徒たちに迷惑がかかる。

 今回のメンバーは厳正な選考会によって選抜された心身ともに健全かつ屈強なメンバーばかりなので、健康状態も万全、度胸もすわっている。はじめて乗る飛行機にもビビルことなく、堂々としていた。

 しかし、のっけからハプニングも続出。見知らぬ人にやけに親切にしてしまうという妙な性癖をもつスリワンが、さっそく飛行機の中で隣りあわせた乗客に自分の食事を分けあたりしている。しかし、スリワンはスチュワーデスの配っていたジュースのトレイに手をかけた瞬間、トマトジュースのコップを床にぶちまけてしまい、赤い液体が後ろに座っていた日本人のおじさんのズボンを直撃してしまった。スリワンはさっそく日本語で謝った。「どういたしまして」。違うぞ、日本語が!(続く)

来日した子供たち

来日した子供たち

来日した子供たち

写真1:民族衣装に着替えて、東京・芝浦工大で行われた支援者の集いで挨拶する寮 生たち。左よりスリワンさん、ラダーさん、ピンパーさん、ラッポン君。

写真2: アジアからの旅行者の定番(?)ディズニーランドで。

写真3: 岐阜ではさくらが満開だった。



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2005年4月24日   「寮生日本へ行く(後)」


着物を着るピンパー

里親の方に着物を着せていただいたピンパーさん

さて、関東に4泊したさくら寮生、ラッポン、スリワン、ピンパー、ラダーの4名と私は、4月12日、新幹線に乗って岐阜、高山方面に向かった。これから下呂や高山の里親のお宅にホームステイするのだ。


 名古屋でJR特急ワイドビューひだ高山行きに乗り換え、車内で駅弁を食べていると、岐阜駅あたりで、Yシャツにネクタイ姿の50歳ぐらいのサラリーマンが乗り込んできた。ラッポンの横の席に座り、4人の若者たちが日本人ではないとわかるや、なにやら英語で話始めた。よくいえば愛想のいい、悪く言えば妙になれなれしいおじさんだ。私は当初スリワンの横に座っていたが、しばらくの間席をはずして戻ってくると、その男性、なんと私の席に移動して、すっかりスリワンに密着しているではないか。見知らぬ人に妙に親切にしてしまう性癖をもつスリワンが、そのおじさんに、自分の弁当を分け与えたりしている。

私とラッポンの男二人組は、先に途中の下呂駅で降りて、ホームステイ先に向かうことになっていたので、私は高山に向かうため列車内に残された女子3名が、このおじさんに誘拐されるのではないかと、少し不安になったりもした。
 後日談であるが、日本旅行が終わってチェンライに戻ってくると、私宛てにメールが入っていて、「高山行きの列車の中で出会ったSと申します。子供たちに会って感動しました。さくらの子供たちの里親にならせてください」とあった。

 誘拐犯ではなかったようだ。しかもさくらプロジェクトの支援者になってくれるという。これはスリワンのお手柄というしかない。寮生たちをあと2週間ほど自由に旅行させていたら、うまくいけばさらに10人ぐらいの新里親を獲得していたかもしれないな、と思ったりする。

 さて、私とラッポンは、下呂駅で降り、萩原にある伊藤みね子さんという里親のお宅へ向かった。伊藤さんのお宅は飛騨牛の畜産農家をやっておられ、ご主人、厳悟さんの育てた牛は、全国的な牛の品評会で優勝したこともある。昨年、「どっちの料理ショー」とかいうテレビ番組の特選素材のコーナーにも出演されたとか。

 女子3人が一足早く高山市内に行ってしまい、熊の出そうなものすごい山奥にぽつんと立つ、築100年の一軒家(昔は養蚕をやっておられたそうだ)で少ししょんぼりしていた私とラッポンだが、夕食の時間になって、その表情は歓喜に変わった。夕食は新鮮な飛騨牛の焼肉である。

 ラッポンは一口食べて、「ウォー、うまい!」と獣のように叫んだ。そういう私も、目の前でジュワージュワーと甘く香りたつ湯気を立てている少女の頬のようにほんのり赤らんだ霜降り肉を目の当たりにして、理性を失いつつあった。口の中でとろけるようなジューシーな食感、これまで食べていたタイのゴム草履ステーキはいったいなんだったのだ、などと口走りつつ、ほとんど恍惚とした表情で、食べて食べて食べまくったのである。

 気がつくと、伊藤家で用意されていた大量の牛肉がすでに底をつきはじめていた。まさかこんなに大食いとは思われなかったに違いない。恥ずかしい!

 さて、外国人の日本旅行に際して、一番問題なのは、日本食が食べられるかどうかという問題である。大食いのラッポンはともかく、女子3名はやはり、日本食に抵抗を示しているようだった。料理の甘さもさることながら、日本料理の味の核ともいえる醤油と味噌の匂いが鼻につくらしいのだ。醤油をかいでは「くさー」、味噌をなめては「まずー」などと顔をしかめている。

 私など子供たちが自室で青マンゴーにガピ(エビ味噌)をつけて食っているところに遭遇すると、部屋中に充満したその悪臭のために失神しそうになる。あんなガピのような臭いものを平気で食べているやつらにだけは、醤油が臭いなどといわれたくないものだと、私もついムキになって日本食の繊細さを主張する。

 人間の舌にある味覚芽というものは遺伝的にその数が決まっており、その数はドイツ人やイギリス人には少なく、フランス人や日本人が多いといわれており、そのことがその国の食文化や味覚に対する感受性に影響を与えているといもいわれる。

 タイ料理も世界的に見れば、美食の国として知られているので、タイ人もきっと味覚芽の数は多いのだろう。しかし、刺身だけはうけつけないという人も多い。

 人間の食や味覚に対する嗜好や感受性は10歳までに決定されるともいわれる。つまり、10歳までに食べなれていない食べ物は、それ以降に食べてもおいしいと思えないことが多いのである。その点、日本人は子供の頃から和食はもちろんのこと、中華料理、西洋料理、インド料理、ピザにスパゲティー、ジャンキーフードなどをまんべんなく食べているので、食材、味覚ともに守備範囲は広い。

 さくら寮の子供たちの食に対する嗜好を観察していて感じるのは、その守備範囲の狭さである。まあ、しかたがない。なにしろ、山岳民族料理の調理法はいたって単純で、煮るか揚げるか炒めるか、使う調味料は塩と唐辛子のみという生活。

 訪日前、ホームステイ先のみなさんから、寮生たちの食事について問い合わせを受け、私はひそかにホストファミリーのみなさんに通達を出していた。「子供たちは、刺身とか寿司とか、生モノは苦手です。刺身の豪華盛り合わせなどを出していただいても、大半を残してしまいます。これは実にもったいない話です。でも、刺身に挑戦してみたいといっている子供もいますので、ちょっとだけなら、実験的に食べさせてみてもいいのでは……」

 今回は各ホームステイ先のみなさんもあらかじめ配慮されたのであろう、刺身類はここまでほとんど出てこなかった。実は私は、個人的にひそかに生ものを期待していたので、内心がっかりしていたのだが。

 しかし、ホストファミリーの伊藤家は、そんな私のひそかな期待に答えてか、飛騨牛をいただいた翌日の晩の食卓には、うって変わって海の幸のオンパレード。お刺身盛り合わせにあさりの味噌汁、冷奴、いなり寿司なども並んだ。

 昨夜は、その鬼気迫る食べっぷりにおいてかなりラッポンに押され気味だった私であるが、今夜は状況が一変した。ラッポンの箸がときどき空中でとまる。その困惑の表情のラッポンを尻目に、余裕でまぐろ、はまち、鮭、いかなどをまんべんなく口に運ぶ私。ふっふっふ。悪いな、ラッポン。ぱくぱく。あれ、遠慮しなくてもいいのに、ぱくぱく……。

がっつくラッポン


2005年5月23日   「エイリアン」

タイの学校も新学期が始まり、5月中旬、さくら寮の子供たちも元気に村から帰ってきた。今年のさくら寮の新入寮生は28名。5月22日(日曜日)、寮では恒例の「新入生歓迎会」が開かれた。

 会場は寮内およびさくら寮から数百メートル離れた土砂採掘場付近。先輩寮生たちが、軍隊訓練的なノリで新入寮生を整列、行進させ、約10ヶ所の通過ポイントで、寮の規則を暗誦させたり、歌わせたり、踊らせたり、泥の中を匍匐前進させたり、謎のお菓子やドリンクを飲ませたりと、あの手この手でいびりまくる手荒な通過儀礼である。タイでも大学などでは一時おふざけがエスカレートし過ぎて、日本の一気飲み同様、死者が出たりして社会問題になったこともある。さくら寮の場合はそこまでハードではない。唐辛子やガピのたっぷり入ったサンドイッチを食べさせられたりして、なかには半泣きになる子もいるが、みな泥んこになりながら、おおむねこの手荒い歓迎を楽しんでいる。

 寮では新学期そうそう、珍事件も勃発した。5月末のことである。
 男子寮生で、小学2年のアティット・ジャクー(9歳)の鼻血が止まらなくなった、と誰かが事務室へスタッフを呼びにきた。アティットは洟垂れ小僧である。
 スタッフのミボヤイがガーゼをもってアティットのところへ行った。出血の量はそれほどでもないが、鼻の中が痛いという。ミボヤイが鼻の穴を覗き込んだが、特に異状はない。鼻の穴にガーゼを突っ込んでミボヤイは帰っていった。アティットの鼻血はいったんおさまったが、しばらくするとまた出血した。鼻の中でもぞもぞ動く感じがする、何かいるようだという。虫でも入っているのか。山岳民族の住む山の村では、寝ているときにゴキブリやハエなどが耳や鼻の穴に入ってくることがある。ミボヤイがアティットを仰向けに寝かせ、鼻の中に水を流し込んだ。

「出てくる、もうすぐ出てくる」アティットはそううめいて起き上がった。血糊を含んだ黒いドロンとした何かがアティットの鼻からまさに顔を覗かせようとしていた。しかし、指で引っ張ろうとすると、それは、すぐに鼻の穴の奥にきゅるきゅると引っ込んでしまった。「なんだ、これは」みんなが驚きのあまり、のけぞった。「ふが、ふが、ふが」アティットは鼻の中がむずがゆいのか、くしゃみをしそうになっている。

「アティット、鼻で強く息を吐くんだ。思い切りくしゃみしろ」

 私はエクソシストの牧師になったような気分で、アティットに叫んだ。アティットが弱々しくくしゃみをしたが、そいつはまだ鼻の中にとどまっていた。鼻血は断続的に流れ出た。ミボヤイがクリニックへ連れていった。

 医師はアティットの鼻の中をのぞきこんでギャッと叫んだ。

「確かに何かいる!」

 エイリアンである。黒くて、粘膜質の体をしていて、伸び縮みする物体だ。

 医者が金属棒のようなものを鼻に突っ込んで、掻き出そうとしたが、出てこない。チューブで鼻から水を送りこんだが、それも効を奏しなかった。クリニックの医者は、ついにギブアップした。「くそ! 見失った。やつは、上の方へ上がってしまった」

 エイリアンは鼻腔の奥深くへと逃げてしてしまったのだ。医師は「ここじゃ無理だから」と、オーバーブルック病院へ連れて行くことを勧めた。

 オーバーブルック病院でも当直の医師たちが手かえ品変え、この吸血エイリアンと格闘したが、ダメだった。急遽、電話で耳鼻咽喉科の専門医が呼ばれ、手術室に連れられていった。ピンセットでエイリアンを引っ張り出そうとするが、敵はアティットの鼻腔の粘膜に固く吸着して、離れようとしない。無理してひっぱろうとすると、アティットはあまりの痛さに泣き叫んだ。局部麻酔がかけられた。

 1時間におよぶ大格闘のすえ、ついにエイリアンはアティットの鼻の穴から外界に出てきた。まだくねくねと動いているその不気味な物体を見て、みながのけぞった。

 それは体長10センチにもおよぶピン、すなわち蛭(ヒル)だった。

 いったい蛭はいつどこでアティットの体内に侵入したのだろうか。アティットは昨年の新入寮生で、今年の新入生歓迎会には参加していない。アティットの話では、すでに村にいる頃から鼻の中がむずむずしたりする症状があったというから、村で川遊びなどをしたときに、知らないうちに入ったのだろう。とすれば、アティットが寮に戻ったのは5月14日だから、なんと2週間もの間、蛭はアティットの鼻の中に住み着いていたということになる。いったいどれほどの血を吸われたのだろう。恐ろしい話である。

 しかし、ヒルぐらいで驚いていてはいけない。下手をすると命に関わるようなエイリアンもタイには潜んでいる。

 2年ほど前のこと、寮生で中学2年のアカ族の少女がある日突然、寮の中で気を失って倒れ、病院にかつぎこまれ、3日間入院した。最初は癲癇の発作か、女子生徒によく見られるダイエットのし過ぎから来る貧血ではないかと考えていたのだが、X線検査で脳内に影があるのがわかり、脳腫瘍の疑いもあるとのことで、精密検査してもらった。その結果、「CEREBRAL CYSTICERCOIS」(嚢尾虫症)が頭の中で成長しているためと診断された。嚢尾虫は脳に寄生する寄生虫の一種だそうで、成長すると巨大化し、脳内を圧迫して癲癇のような発作を引き起こすという。最初は脳腫瘍とも共通する症状が出る場合もある。豚の生肉などを食べるとこの寄生虫が宿るらしい。

 山の人たちは豚生肉をラープ状にして食べる習慣があるので、このような寄生虫の危険性がつねにつきまとっている。みなさん、生肉は気をつけましょう。以前、私の友人でもラフ族の村でうっかり村人に勧められるままに生肉を食べ、三日三晩、のたうちまわって苦しんだ人がいる。ソムタムに入っている生の蟹、あれもあぶないですね。

 現在、寮生のアカ族の少女は内服薬によってすでに完治し、普通に学校行っている。

ヒル
アティットの鼻の穴から出てきたヒル。引っ張ると15センチにもなった。

新入寮生歓迎会
新入寮生歓迎会で顔にメイクをさせられた新入寮生。いずれもラフ族で、左からスチャダー・ジャキ、オラピン・センポー(以上さくらエコホーム)、チンタパー・ジャガー、ナソー・エブ(以上さくら寮)

新入寮生歓迎会
泥のトンネルを抜けてきたプラーニー・セイラオ(モン族、中1)



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2005年5月31日   「古着配布の旅」

古着配布

 本格的な雨期が始まる前に山の村々へ古着を配りに行ってきた。年に10回ほどはこうしてピックアップトラックの荷台に段ボールを山積みして、古着配りの旅に出る。

 日本の支援者の方々からさくらプロジェクト宛に送っていただいている古着の段ボールの数が、1997年8月に現在の帳簿に記録を開始して以来、通算で1000個に達しようとしている。一箱平均15キロとしてもざっと15トン、7万着以上。大変な量である。ありがたいことだ。

 送ってくださった古着は、まずスタッフの手でチェックされ、仕分けされる。寮内で配るにも山で配るにも、豹柄のミニスカートとか、毛皮のコートとか、イブニングドレスみたいなのとか、ちょっと通常の用途としては引きとり手がなさそうな派手なものは、さくら寮生製作のビデオ作品やさくら演芸会用のステージ衣装としてストックされる。こういう衣装は、いざ必要があって調達しようと思えばずいぶん高価なものなので、これはこれでなかなか重宝するのである。柔道着、白衣、軍服、ビキニの水着、ふんどし、かつら、ムエタイ用のトランクスなんてのも送られてくる。

 さて、村での古着の配り方であるが、これが難しい。私たちもこの12年間の間に様々な試行錯誤を繰り返した。

 最初の頃は、村人全員にくじを引いてもらい、1番から順に並んでもらって、古着の山の中から1着なり2着なり気に入ったものを選んでもらうという方法をとっていた。しかし、これは大きな村で人口が300人もいたりすると、くじ運の悪い人は、順番待ちをしているだけで疲れてしまう。たくさんの古着の山から数着だけを選ぶというのも、目移りがして、なかなか時間がかかるのだ。それにたまたまその日留守にしている人は、古着をもらえない。待たされた人がいらだって暴徒化する可能性もある。(というのはちょっとオーバーだが)

 そこで、最近さくらプロジェクトにおいて定着してきた配布方法は、「福袋方式」である。福袋の意味は、袋に入っていて中が見えないという意味ではなく、いいものもあれば悪いものも入っているという意味である。

 これは、まず村の世帯数を教えてもらい、村の広場にシートを敷き、その世帯数分に古着を小分けする。たとえば40世帯の村にトータルで200着の古着を配る場合、古着5着ずつを適当に40の山に振り分ける。そして、各世帯ひとりずつの代表者に1から40までの数字の書かれたくじを引いてもらい、1番を引いた人から順に好きな古着の山を選んでもっていってもらう。もちろんその4着の中には、その家庭では不要な衣類もまじっているだろうが、それは全員が選び終わったあと、各自の自由意志で他の家の人と交換してもらえばよい。200着の山から1着ずつ選ぶよりはかなりスピードアップがはかられる。

 しかし、この方法にしても、そう簡単にいくわけでもない。

 とあるひなびたラフ族の村で、40軒の代表者が全員くじを引き終わった。

「じゃ、まず1番の方から。2番、3番の人もスタンバイして整列といてくださいね。1番の方、いらっしゃいませんかぁ?」

 3分ぐらい待つが、誰も名乗り出ない。あれ、全員がくじを引いたから、誰かが1番のくじをもってるはずなんだけど。あ、くじを開いていない人いる。くじをひいたまま、ぼーっとしているのだ。

「あ、おばさん、それね、折りたたんであるから、自分で開けてみてください。中に番号書いてあるからね。1番の人、早く名乗り出て。うーん、困ったな。トイレでもいったのかな。じゃ、しょうがない2番の人、いますか?」

 1分ほど待つが、現われない。

「じゃ、3番の人いる?」

 ひとりの若い女性がニコニコしながら歩みよってきて、私にくじを見せる。

「あ、1番の方ですね? え、それとも2番? うわ、だめだめ、これ32番じゃないの。あのねえ、ギャグやってる場合じゃないんだから」

 次に別の男性が現われた。

「これも違う、これは35番でしょ」

 この人たち、この忙しいときにボケたふりしているわけではなく、はたまた、番号が大きいほど優先順位が高いとマジで思っているわけでもなく、まったく数字を読むことができなかったのだ。村では大人たちは生まれてから一度も学校へ行ったことがないという人がほとんどである。それにしても一桁と二桁ぐらい認識できても……と思うなかれ。まあ、私もタイにきた頃はタイ数字どころかタイ語の母音と子音すら区別がつかなかったのだ。タイの選挙ポスターでは、立候補者の番号や、番号のみならず、その番号分の点が入ったさいころの目のような標識が名前よりも大きく印刷されている理由がよくわかる。

 かくして、番号順に並んでもらうだけでも絶望的なまでに時間がかかってしまうのである。要領を得ないことに、「あのー、自分の番号が読めない人は、お近くの数字の読める人に読んでもらってください」(こういう場合はだいたい、多少なりとも勉強を習っている子供のほうが頼りになるのだが)と促しても、大人も子供もみなぽかんと口を開けてみているだけである。

 こっちも悠長に待っていられなくなって、「はい、次6番の方、6番いなければ、7番ね。8番、9番の人も選んでOKだから」などと、ペースをあげていく。不思議なことに、30番ぐらいまで進んでから、やっと1番の人や2番の人がどこからともなく現われる。あんた、いったい今までどこに潜んでたんだと、ツッコミをいれたくなるのをおさえつつ、「ああ、よかった。急いで選んでください」とせかす。

 それでも、こうやって整然と、1人ずつ選んでいってくれる村はまだ道徳教育がなされているといえる。ひどい村になると、途中でまったくのアノミー状態、無政府状態に陥って、番号が大きい人はもちろんのこと、すでに一度取り終わった人、番号札を持っていない人まで乱入してきて、古着の取り合いになり、最後はデパートの開店直後のバーゲンセールの主婦達のような(かなりこの表現、ステロタイプですが)ようなつかみあい、引っ張り合い、奪いあいの地獄絵図が展開するのである。

 ある村での出来事だ。

 夕方、上記のような方式で衣類を配り終わり、村長さんの家で夕食をいただいていたときだ。村でただひとり中学校を卒業している女の子が「あなたがたの車の荷台に子供たちが乗って何かしていますよ」と告げに来てくれた。私たちのトラックは村の広場にとめてあった。荷台には明日次の村で配る予定の古着の段ボールが積んであったのだ。

 薄暗い中、村の子供たち(7歳から12歳ぐらいだろうか)10人ほどが、トラックの荷台に乗りこんで、覆ってあったビニールシートを捲り上げ、段ボールの蓋を開けて物色し、われ先に衣類を奪い合っていた。

 村の大人たちはそれを見ても注意もせず、見てみぬふりをしていた。私たちは子供たちを追い払ったが、子供たちを注意する大人は誰一人いなかった。

 私はとても悲しくなった。

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2005年8月13日   「タイに根性という言葉はあるのか」


運動会

タイに「根性」という言葉はあるのか

8月12日、13日の2日間にわたって、寮内スポーツ大会が開かれた。さくら寮、そしてさくらエコホームの子供たち約170名を3つの色別チーム(赤、黄色、紫)にわけ、サッカーやバレーボールなどの球技を中心に楽しく競うというものだ。

 開会式は朝の8時からだ。毎度のことだが、前夜、夜更かししたため、開会宣言をしなければならない私が遅刻である。眠い目をこすりこすり会場につくと、子供たちはすでにそれぞれの色のユニフォームに着替えて、全員整列して私の開会宣言を待っていた。

 さて、寝坊して開会の辞の言葉を用意していなかった私は、「えー、本日のこの晴れ舞台をかくもすばらしい晴天で迎えられたのも、みなさんの日頃の良い行いと心がけの賜物でありまして……」などと、まるで田舎の小学校の校長のような陳腐な挨拶。実際、このところ連日雨が続いていたのに、この日だけは奇跡的にからりと晴れ上がった。去年の今頃もこの寮内スポーツ大会が開かれ、おりしもアテネ・オリンピックが開催中だったので、開会の辞では「ところで諸君、今、オリンピックがどこで開かれてるか知ってるか?(ほとんどの子供が知らなかった)古代ギリシャのオリンピックではな、衆人環視のもと、選手はみな素っ裸で、フリチンで走らされてたんだぞ。で、負けたら鞭打ちの刑さえあったとか。それに比べりゃ、服を着て競技ができるうえに、勝っても負けても参加賞がもらえる諸君はそれだけで幸せと思うように」などとわけのわからない話をして、生徒たちから冷たい視線を浴びたのを思い出す。

 さていよいよ競技の開始である。

 山岳民族の子供もたちは総じて運動神経も優れていて、山の畑仕事で鍛えているから足腰も強く、スタミナもある。サッカーにしてもバレーボールにしても、けっこううまい。同じ年代の日本の子供たちよりもうまいかもしれない。だが、プレーや試合ぶり、応援風景などを見ていると、なにかひとつ盛り上がりに欠けるような気がする。そこそこ楽しいけれど、何かが足りないのだ。日本のこの手の運動会(少なくとも私の子供時代の)と比べての話だが。それは一言でいうとチームとしての「和」とか闘争心といった、我々日本人がスポーツの中に求めるある種の価値観のようなものではなかろうか、とふと気づいた。

 以前行なわれていたような各寮対抗のスポーツ大会(これはチェンライ各地のNGOが運営する山岳民族の寮が参加し、それぞれの寮の名誉と威信がかかっていたのでみな死に物狂いで闘った)と違って、これは内々の、寮内親善スポーツ大会である。たとえ便宜的に色別にチームを分けても、みな気心知れた友達同士だから、闘争心を抱けといっても無理かもしれない。私の子供時代、日本でも運動会は赤白などに別れてやったけれど、それはそれでけっこう盛り上がったような気がする。日本人はたとえ身内同士で闘うときも、一種のバーチャルな世界に浸って、相手を仮想敵とみなして全力で戦うことによってゲームを盛り上げようとする。ゲームを楽しむコツを知っているのだ。だからいい意味でも悪い意味でも日本人はあんなにシミュレーション・ゲームに熱中できるのだろう。

 だが、ここの子供たちは、バーチャルな世界というものに慣れていないのである。友達は友達であるから、本気にはなれない。それから、チームワークという観念が希薄なのは、日本人と違って組織や団体に対する帰属心が希薄であるということと通じているのではないかと思う。日本人は、個よりも組織を重視する。自分より家族、家庭より会社みたいなところがある。タイで、個人や家族より、会社とか天下国家のほうが大切だという人がいたら、それはかなり奇特な人である。

「他者」に対する根本的な無関心というのも特徴である。自分のチームが勝とうが負けようがさして気にならない。ましてや、自分以外のチームの勝敗にはまったく関心がない。 以前チェンライのNGOが集まって、各寮対抗のサッカー大会などが行われたが、盛り上がるのは予選リーグだけで、トーナメントになって準決勝、決勝と進む間にどんどん人が減って盛り下がっていくのをみて、本当に不思議な気がした。決勝では当事者のチーム同士だけが観客も応援もほとんどないままに寂しく闘っていた。サッカーのワールドカップだって一番盛り上がるのが決勝なのだが、こちらでは、決勝が一番寂しいのである。敗れたチームはみな帰ってしまい、誰も応援するものがいないのだ。自分たちが敗退してしまった以上、どこが優勝するかということなどには関心がなく、自分が出場しないサッカーなんて応援する意味などさらさらないと考えているらしい。

運動会

「あきらめのよさ」にかけても天下一品である。かけっこで、ゴール寸前まで1着と2着を争っている選手はそれなりに最後まで必死に走る。だが、最下位がほぼ確定してしまった子供は、途中で走るのをやめてしまう。負けるとわかっていて、さらに走り続けるのは、意味もなく恥をさらすことであり、体力の浪費にほかならないと考えているようである。

 日本人は、学校でも家庭でも、こういうときこそ、最後まであきらめずに歯を食いしばって走れ、と教えられてきたものだ。そしてときには敗者こそが勝者以上に褒め称えられ、拍手をもって迎えられる。敗者の姿こそがときに美しく、感動を生む。甲子園球児だってそうだ。

 しかし、こちらではそういう考え方は通用しない。そんな美意識もない。敗者は敗者であって、嘲笑と侮蔑の対象となるか、無視される。だから敗戦が確実になったとき、彼らは走るのをやめてしまうのだ。これは穿った見方をすれば、タイ社会やそこで暮らす人々の生き方にまでつながってく問題でもある。

 もともと私は「努力」とか「根性」とかいったものにはまったく縁のない人間だったが、タイへ来てさくら寮の子供たちを世話するようになって、ついつい「根性」「忍耐」「闘魂」などという言葉を口走るようになった。いつのまにか自分が「武士道」や「葉隠れ」の精神を説いていたりする。結局いつまでたっても日本人なのだと、つくづく思う。というか異国に永くいればいるほど、ますます、自分が日本的な教育の成果に縛られた日本人であることを意識せざるを得ない。単に年をとったせいかも知れない。

 なんだか説教臭い話になってしまったが、勝つということにあまり執着しないということが山岳民族のひとつの美徳ととらえれば、これはこれでいいのかもしれない。子供たちが元気に育ってくれればいいと思ったりする。

運動会

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2005年8月31日   「勘里一座公演は桃太郎」


桃太郎
写真1:さくら劇場「桃太郎」の1シーン。桃太郎の誕生。

 8月は、日本が夏休みということもあり、さくら寮にも来客が多かった。

 8月下旬に大阪からいらっしゃった勘里さんの一行総勢9名もその中の一組だ。勘里さんと高校生の娘さんのほか、彼女たちの友人やそのご家族のみなさんである。さくら寮の子どもたちのために、日本の芝居を見てもらおうという、ボランティアでのさくら訪問である。もちろん、みな演劇なんてはじめての素人。今回の出し物は児童劇の定番「桃太郎」。日本から桃太郎や爺さん、婆さん、鬼などの衣装も仕込んできてくださった。子供たちには本物の(?)きび団子のおみやげつきである。

 一行は、本番の3日前からさくら寮に泊まりこみ、大道具作りから衣装合わせ、リハーサルまで、さくらの子供たちと一緒に行った。

 出演者は、鬼が島の鬼役数名を除いては、みな日本人なので、ナレーションや台詞は日本語であるが、日本語を勉強中の寮生たちが、同時通訳風にタイ語でのナレーションと台詞を入れることになった。

 芝居自体は単純なストーリーであるけれど、さくら寮の子供たちにとっては学ぶことも多かったはずである。たかだか寮内の150人ぐらいの子に見せる1回きりの公演のために、観光する時間も惜しんで、さくら寮にこもりきり、こりにこったBGMを編集し何度もリハーサルを繰り返し、苦労して段ボール箱を解体して絵の具で色を塗って、岩山や、川や海や、舟や巨大桃などの大道具を作るというそのエネルギーはいったいどこからくるのか。さくらの子供たちは不思議に思ったかもしれない。

 ふだんさくら寮でもクリスマス会などで子供たちが創作劇を演じるが、その準備はいたって大雑把というか、手抜きだらけである。演技力もあるし、アドリブもうまい。しかし、大道具や小道具を手作りして、舞台に花を添えようという気持ちがまったくないのである。まるでイッセイ尾形の一人芝居か前衛演劇の舞台のように、まったくなにもないガランとした舞台で「ここは森の中のつもり」とか、「ここは家の中のつもり」という、極度の想像力を観客に強要する「仮想空間」で芝居が進行するのである。はっきりいってつまらない。

 子供たちは、たかだか20分ぐらいで終わってしまう芝居のために、わざわざその何十倍もの時間を費やして、お金までかけて大道具など作る必要なんてどこにあるのか、と思っているフシがある。

 勘里さんがいみじくもおっしゃった。「でもね、こうして、みんなでワイワイガヤガヤ言いながら大道具を作ったり、リハーサルをしたりするプロセスが楽しいんだよね」

 そこですよ、そこ。そのたゆまぬ努力と創意工夫が明日の豊かさと発展を生む。結果だけが目的ではない。ひとつのものを完成させていくためにたどる、そのプロセスにこそ、創造の喜びがあるのだということを、子供たちにもぜひ気づいてほしいのだが。もしかしたら、過去に焼畑耕作で移動生活を続けてきた山地民がこれまで送ってきた彼らのライフスタイルからくる物質観、つまり、頑丈な家を建てたところで、どうせ数年で家ごと移動してしまうのだから、簡単な家で十分だ」というような発想と通底しているかもしれないなどと、いささか乱暴な論理を考えてみたりする。同じ農耕民族といえども、最近まで移動農耕をしていた人々と、ずいぶん昔に定住を果たしてしまった民族とでは、「無常」に対するとらえかたも異なるのかもしれない。

 またしても、きわめて日本的価値観に拘泥した、説教じみた年寄りの戯言をいってしまった。

 さて、無事、さくら寮での公演と子供たちとの交流を終えて、最後の日はチェンマイで観観光をして帰られた勘里さん一座であるが、最後の夜にとんでもないハプニングが待っていた。同行のNさんが帰国後、メールでその様子を報告してくださった。

 21時バンコク行きの飛行機を待つ間、チェンマイ空港のレストランでタイでの最後の食事に舌鼓を打っていた一行だったが、その中の1人、高校生のI君(16歳)がいきなり口を押さえたまま、あわてて店を出ていった。I君は16歳だが、体格がよくて、食べ盛りである。「桃太郎」では鬼の大将役をやった。Nさんはちょうどタイ風サラダを食べていたので、サラダの中によほど辛い唐辛子でも入っていたので、トイレに駆け込んだのだろうと思ったが、待っても待ってもI君は帰ってこない。

 やっとトイレから帰ってきたI君はまだ青ざめた表情で口を押さえていた。しゃべることができず、アワアワと唸っている。なんと、I君のアゴがはずれていたのである。えらいことになったと、あわてて空港の医務室へ連れて行き、身振り手振りで説明した(そのときはタイ語が話せる日本人は誰もいなかった)が、医務室のスタッフは「ここでは処置できないからすぐに病院に行くように」と指示した。また、フライト時間がすでに目前に迫っていたので、I君ともうひとりの付き添いの大人は、この便をキャンセルしてチェンマイでもう1泊するようにといわれ、一同パニックに。みな明日から仕事なのだ。

 とりあえず、Nさんのご主人が1泊することになり、空港の車で病院へ。チェンマイ在住のAさんにも電話で連絡、Aさんも病院へ駆けつけた。

 病院では、待ち受けていた整形外科のお医者さんが、てきぱきと処置してアゴを元通りにしてくれた。治療費を払いたいが、日本円しか持ちあわせていないというと、なんと治療費まで無料にしてくれたという。どこの病院かは聞きわすれたが、これを聞いて私はチェンマイの病院をすっかり見直してしまった。

 空港までふたたび空港の車で送ってもらうと、飛行機も彼らの搭乗を待っていてくれたようで、滑り込みセーフ。飛行機は5分遅れで全員無事にチェンマイ空港を飛び立ったという。めでたし、めでたし。

桃太郎
写真2:鬼が島の決戦。

踊り
写真3:交流会ではさくらっ子達も得意のダンスを披露。


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2005年9月10日   「貧しければモノを大切にするのか」


ギター踊り

 前回、前々回に続いて、今回も頑固中年のぼやきといった話である。  長年さくら寮で山地民の子どもたちの世話をしていて、気づくことがある。もちろん、皆、基本的にはやさしい、いい子たちばかりなのだが、これだけは一言いいたい、というようなことがいくつかある。これはその1つである。
 山の子どもたちは、まったくもって、モノを大切にしない!(私はタイ族のことはあまり知らないので、ここでは山地民の子どもたちに限っての記述である)。

 通常の私たちのイメージはこうであろう。

 山の子どもたちは貧しい→モノが不足している→だからモノを大切にする。

 だが、これはまったく私たちのステレオタイプなイメージ(願望)に過ぎない。現実はまったく逆である。

 たとえばギター。さくらプロジェクトでは子どもたちの要望にこたえて、開寮以来10本以上のフォーク・ギターを買った。そのうち6本は質実剛健で知られるヤ○ハ製である。しかし、これがどういうわけか、いつのまにか紛失してしまったり、破損したりして、現在まともに使えるギターは1本もないのである。

 紛失した2本は、盗難によるものと思われる。寮内部の者か外部の者か不明だが、学期休み中などに何者かが寮外へ持ち出してそのまま返ってこない。盗みをするような不届き者は論外としても、残っている4本のギターの破損状況である。ひどいものになると、ボディは穴だらけ、ネックが折れ、ナットがはがれ、弦が引きちぎられて、いったいどんな扱いをすればこのような悲惨な状態になるのかと思うほどの、信じられないようなギターの末路である。1度目撃したのは、2階からの落下である。誰かがベランダの手すりの不安定なところにギターをおき、それを誰かが誤ってふれて階下に落としてしまったのである(普通そんなリスキーな場所にギターをおくか?)。もちろんネックは折れ、ボディには派手にヒビが入った。

 これは極端な例であるが、ほかのギターについても、2階から落下しないまでも、まるでサンドバッグか庭箒として使用されたのではないかと思いたくなるほどの惨状である。

 FUJIYAMA、SAKURA、YAMA(HAはない)など安いミャンマー製やタイ製ギターならいざ知らず(気候の過酷な条件のタイでは、安いギターはどうしてもネックゾリなどがおこって、すぐに使い物にならなくなるのは確かだ)、台湾やインドネシア製とはいえ、天下のヤ○ハのギターが、普通に弾いていて、そんなに簡単に壊れるわけがないのである。

 私の愛用のギターを子どもたちに貸すこともあるのだが、いくら、「楽器を扱うときは、必ず手を洗い、終わったときはポリッシュをかけて磨くこと」と教えても、さっきカウニャオとナムプリックを食べたベタベタの手でギターに触られたりされると、2度と貸す気がしなくなる。

 ピックガード周辺に傷がつくのはしかたがない。しかし、塗装がはがれて合板がむきだしになるほどのボディのへりのむごい打痕の数々は、ギターがいかにぞんざいに扱われているかを証明している。清掃やメンテナンスもまったくなされていない。ギターを磨いている姿は見たことがないのだ。私など、小学5年生で初めて親からギターを買ってもらったときは、毎晩枕もとにギターをおき、毎日磨いていたものだ。

 ギターは一例で、寮生たちを観察していると、とにかくモノを大切にしない、丁寧に取り扱わないのである。特に公共のものに対する意識が薄く、扱いがひどく乱暴である。

 図書室の本は数人がまわし読みしただけでボロボロである。宿題に使うのが目的らしいが、勝手にページが引きちぎられたりしている。ご飯は大量に残して残飯として捨てる。水は蛇口をひねって出しっぱなし、電気は誰もいなくてもつけっぱなし。さくら寮ではこういう光熱費関係に、実は膨大な経費がかかっているということに無自覚なのだろうか。

確かに山では水は山から引いてくるので、タダである。蛇口を開けておこうが閉めておこうが、水は次々と流れてくる。しかし、さくらの水は水道代がかかっているのである。子供たちは、自分のお金が10バーツでもなくなると大騒ぎするが、公共の水道代が、毎時10バーツの割合で無駄に漏れていても、いっこうに無頓着なのである。

 自分の洋服などはけっこうこまめに洗濯をし、アイロンがけをしているが、共有部分、たとえば足拭きマットとか、カーテンとか、自主的に洗っているのを見たことがない。人の衣類が物干し場で、風で地面に落ちてぬれていても知らん顔である。まあ、ひとことでいえば、公共心がないのである。

 振り返って考えてみれば、彼らの生まれ育った山の村には、公共の場所、公共のモノというのは数えるほどしかない。村の集会所とか、教会とか、祭りのときの櫓とか、そんなところである。あとはすべて家にしても土地にしても、農具にしても家畜にしても、個人的なものである。だから公共心というのは育ちようがないのかもしれない。
 それから、山の人たちのこれまでの生活には、耐久消費財という存在がほとんど皆無といてよかったというのも、モノを大切にしない一因かもしれないと思う。

 かつて、焼畑による移動農耕をしてきた山地民の人々は、1つの場所に数年しか居を構えず、建材は竹、茅、といったものだった。たとえ3匹の子豚の末っ子のように、頑丈で立派な家を建てたところで、数年で打ち捨てていかなければならぬ運命にあるのだ。4、5年もてばよいのであるから、竹と草で十分である。
農具も木や竹、籐など、材料はそのあたりに生えているものばかりだから、壊れても新しいものを山や森から切ってきて作り直せばすむことなのである。ひとつのものを大事にメンテナンスして長く使い続けるという発想はもとよりないのかもしれない。そしてそんな価値観が、すでに定住を果たしてしまった現在でも、どこかに伝統的に残っているのではないか。

 ある程度はしかたがないかと思う反面、状況や時代に対応していかないと、彼ら自身が困ることになるのにと、おっせっかいをやきたくなる。

 電化製品やパソコンなどの機械類をすぐ壊してしまうのは、タイで売られている製品の質が悪いとか、気候条件が過酷であるといったことだけが理由ではなく、説明書をよく読まないで使うのも一因であろう。
確かにさくら寮のスタッフたちも、電子レンジなどを買っても、説明書などまったく読まずにいきなり使っている。鉄製の容器をレンジにかけたり、液状の料理をラップもかけずに放り込んで内部を飛沫だらけにしたり、ゆで卵を爆発させたりして、大変な目にあったりしている。また、パソコンがフリーズするとすぐに電源スイッチを切ってみたり……。そんなもの、ちょっとマニュアルを読めば書いてあることなのだが、文字を読むのが面倒らしい。無文字文化が長かった伝統か。

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2005年9月25日   「停電」


踊り

 ある朝、午前8時45分頃、寮生のラッポンが私の部屋をあわただしくノックした。なんだ、なんだ、なんだ、もう起きてるよ。

「大変です、ピータカシ! 今日、午前9時から午後4時まで停電になります。ナムラット村一帯で電気工事があるんです。たった今、村内放送でアナウンスがありました」

「えーっ、なんだって?」

 タイでは雷雨などによる突然の停電は日常茶飯事である。電気工事にともなう停電もよくあることだ。しかもアナウンスは停電の直前である。ふだんならこの程度のことには別に驚きもしないが、この日はちょっと話が別だった。午前10時から、さくらプロジェクトの大口スポンサーになっていただいている日本の某企業の社長さんはじめ社員のみなさん40名が、その寄付金により建設されたさくら寮の施設を視察にいらっしゃることになっており、寮をあげてホールで歓迎会を開く予定になっていたのだ。

寮の子供たちも全員、学校に許可を得て半日だけ授業をお休みさせてもらい、民族衣装に着替えてスタンバイしていた。歓迎会で披露する歌やダンス、演劇などは、この日のためにずっと練習を重ねてきたものだ。出し物の多くはマイクやアンプ、スピーカーなどの音響機材が必要で、照明効果のための電源も必要だ。停電となればマイクも使えなければ、音楽も鳴らせない。照明も使えない。30分後にはそのお客様を空港に迎えに行かなければならない。困った、どうする。

 スタッフのジョイに電話すると、そんな話、寝耳に水だという。が、そこはジョイ、行動がすばやい。すでに電気工事を開始している近くの現場に出向き、現場監督のボスと交渉に入った。

「今日は午前10時から大事なイベントがあるんです。どうしても電気を使わなければならないの。なんとかしてください。1時間だけ工事を中断するとか」

   まあ、そんなこと言っても、なんとかなるはずもない。「そりゃ無理だなあ」とあっさり断わられてしまった。

 ボスはジョイに尋ねた。「で、大事なイベントってなんだよ。結婚式かなにか?」ジョイも説明するのが面倒なので、「そ、そう、結婚式」と答えると、ボスも納得したようだった。村の中で音響装置を使う大事なイベントといえば、普通は結婚式とか葬式ぐらいしか思いつかないのだろう。ボスは、「うーん、それは困ったね。市役所に電話してみたら? 臨時の発電機を貸してくれるかもしれないから」

 お役所がそんなことしてくれるかなあと私は訝ったが、とにもかくにもトライしてみるしかない。ジョイがすぐに市役所に電話をする。不機嫌そうな声で職員が対応した。

「はあ? 大事なイベント? 発電機を貸してくれだって? あんた、どこに電話してるんだ。うちがそんなことできるわけないだろう」ガチャン。

 ジョイも「こりゃ無理だわ」と思ったのか、あまり抵抗することもなく、すぐに電話をきった。タイのお役所が民間の小さな一組織にそんな親切なサービスをしてくれることなど、期待してはいけない。

 そういえば! 思い出した。以前、ルアミット村にあるさくらエコホームの地下水汲み上げのために購入した発電機があった。購入したのはいいが、肝心の井戸水が枯れてしまい、代わりに近くの小川の水をポンプで汲み上げるようになって、その井戸用の発電機は規格があわないために、使われないまま、エコホームの非常用の電源として事務所に保管してあったのだ。

 すぐに運転手のユッに頼んでエコホームまで走ってもらうことにする。あと1時間。ルアミット村までは20キロ。車で往復40分。機材の上げ下ろしや、燃料補給、配線などの時間を計算に入れても10時までに、ぎりぎり間に合うかどうかといったところだ。しかし、それしか今は考えつく方法がない。

 来客一行を空港まで迎えに行き、寮まで車で先導して帰ってくると、ホールのほうからバタバタバタというモーター音が聞こえ、スピーカーから音楽が流れてくるのを聞いて、ほっと胸をなでおろした。

 せめて数日前からでも停電のアナウンスがあれば、これほどうろたえることはなかったのに。15分前に、「今から7時間ほど停電しますよ」なんてこと、日本ならばありえないことだろう。賠償問題である。しかしここはタイである。ナムラット村のアイスクリーム屋さん、製氷屋さんは事前に知っていたのだろうか?

 なんとか時間どおり、歓迎会はスタートし、ステージでは順調に演目が消化されて行った……かに見えたが、今度は再生装置のトラブルが発生。電力の供給も不安定になって、プツンとアンプの電源が切れ、最後は尻切れトンボの演芸会になってしまった。

 ふだん電気の力に頼りすぎていると、いざというときにこうなるという、文明の落とし穴を垣間見せられた日であった。かく言う私も停電でパソコンが使えない日には、ほぼ終日お休み状態である。

「今後は、さくら演芸団も、電気を使わなくても上演できる出し物を予備として用意しておく必要があるね」と、事後の反省会で話し合った。電気がなければ歌も歌えず、踊りも踊れなくなるなんて、情けないことだね、と。そう、かつて、山々の村では電気も音響機器も何もなかった。君たちのお父さんやお母さんは、竹と木だけで作った楽器を鳴らし、自分の喉を全開にして歌い、踊った。それは谷間まで響き渡った。肉体の復権だ!

踊り

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2005年09月29日   「ゴホンツノカブトムシ」


友人のY君が訪ねてきた。Y君はS工大建築学科の出身で、以前さくらプロジェクトのボランティアとして半年ほどさくら寮に滞在していたこともある。今回は約1週間の休暇である。

 釣りが趣味のY君は、チェンライの釣りスポット、それから蝶採集スポットに連れて行ってほしいという。蝶というのは、Y君の元上司、K氏から、「チェンライで蝶を50匹と、カブトムシでもゾウムシでもヘッピリムシでもなんでもいいから、甲虫類を採集してくるように」と、ほとんど強制に近い指令が出ていたのだ。K氏はY君から紹介された私の蝶採集仲間でもあり、超のつく昆虫マニアである。

1年365日、頭の中から蝶のことが離れたことはなく、すべての休日と小遣いを蝶採集に費やしている人だ。橋の上からダイビングしたこともあるし、車を運転中、レアな種を見つけてあわててサイドブレーキをかけずに運転席から飛び降り、坂道だったために、家族一同の乗った車が坂道を転がり始めたという危ないエピソードもある。

 さて、私には釣りの趣味はないので、スポットといわれても皆目見当がつかない。幸いさくらの運転手A君が、よく釣れそうな場所を知っているというので、案内してもらうことにした。場所はメーチャン郡の山の中にある貯水池だ。  車の中で、Y君は日本から持参した自慢のルアーの数々(100個以上あった)を私に見せてくれた。確かにそれは造形的に美しかったが、そのサイズ、形状を見て、かなり大物を狙っているように思えた。大丈夫なのか。ここはアマゾンではないぞ。

 貯水池に着き、すでに釣りをしていたおばちゃんたちの籠の中を覗くと、Y君のルアーよりも小さい魚ばかりである。運転手のY君も、「そんなニセモノの餌で釣れるんですか? 本物の餌をつければ釣れると思うけど」と懐疑的、および半ば冷笑的なまなざしである。しかし、釣り歴20年のY君のプライドであろうか、Y君は最後まで巨大なルアーでとおして、結局2時間ほど粘るも、メダカ1匹釣れなかった。ときどき湖面からバチャッと魚が跳ねる音が聞こえたので、魚がいないわけではなさそうだ。とすると、やはり餌が悪いのか、それともY君の腕のせいかのか……。さて、魚がダメとなれば、次は甲虫である。

 タイでは9月はカブトムシの季節である。チェンライのあちこちでも、カブトムシ市がたっている。道路脇の屋台などに、餌のさとうきびの茎に縛り付けられたカブトムシが、ぶらさげて売られている。これらはクワン・チョン(カブトムシの格闘競技。闘鶏と同じように賭博の対象になる)用のカブトムシである。数年前までは10バーツ程度で売られていた記憶があるが、やはり数が減ってきたのだろうか、50バーツから、ツノが立派なものは100バーツ以上もする。

「ゴホンヅノカブトはないんですか?」と聞くと、店の人は、「ここんとこ入ってこないな」と答えた。  ゴホンヅノカブトというのは、羽の部分が白っぽく、文字通り、5本の立派なツノを持った巨大カブトだ。体長80ミリほどにもなる。

踊り
ゴホンヅノカブト

 たまたまうちに遊びに来た、チェンライ在住20年のM氏(以前生活のために昆虫を捕っていたことがある)に聞くと、「ああ、ゴホンヅノカブトね。そういえば最近あんまり見かけなくなりましたねえ。以前は市場で食用として山のように売られてたけど。ナーンの方に行けば、まだいるんじゃないんですか」

 たしかにゴホンヅノカブトは、私が初めてタイに来た頃はありふれた昆虫で、私も山の中で何頭か採集したことがある。森林の減少と乱獲で、今ではかなり希少な種になってしまったらしく、バンコクのウィークエンド・マーケットあたりではけっこうな値段で売られていると聞く。

 しかし、私たちがゴホンヅノカブトを探しているという噂を耳にしたスタッフのミボヤイ(アカ族)が、「私の村のあたりには、まだいる」と言う。ちょうどお父さんが高血圧の治療のためにチェンライの病院へ降りてきていたので、「できれば数匹捕ってきてほしいのだが」と頼んでみた。さすがミボヤイの父、行動が早い。村の少年たちを動員して、たった1日で9頭ものゴホンヅノカブトをゲットしてきてくれた。

 しかし、ビニール袋に密封されて搬送されてきたせいか、ややぐったりしている。このままでは日本へ持ち帰る前に死んでしまうのではと心配だ。

 寮生たちが、「お酒を飲ませれば元気になりますよ。格闘用のカブトムシも、競技の前に酒を飲ませるんだそうです」とアドバイスしてくれた。  さっそく、もらいものの赤ワインを脱脂綿にひたして、ゴホンヅノカブトたちにちょっと与えてみた。確かに元気になって、活発に動き出した。というか、酒によって暴れているだけという気もする。少したつとおとなしくなり、眠ったようになってしまった。酔いつぶれたのであろうか。

踊り
ヒラタクワガタ

踊り
貯水池で釣りをする運転手

踊り
餌のさとうきびに縛られて売られているカブトムシ

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2005年12月23日   「偉大なるマンネリズム」



集合写真
写真:さくら寮の子どもたち

 タイでは私も分不相応ながら「アチャン」(師)などと呼ばれ、年末はやたらと忙しい。この時期は、毎年恒例の他寮との親善スポーツ大会や寮内クリスマス会もあるし、なにより支援を受けている里親の方々に、子供たちがいっせいに手紙やクリスマスカードを書く時期で、私たちボランティア・スタッフには、その手紙を日本語に翻訳して日本に発送するという膨大な作業が待ち受けているのだ。

 さくら寮には135人もの子供がいるので、12月20日頃までに手紙の発送を完了するためには、1ヶ月前の11月半ばには子供たちに手紙を書き終えてもらわなければならない。手書きのタイ文字で描かれた手紙は、タイ人スタッフがパソコンに打ち込み、日本人ボランティアが手分けして翻訳作業を行う。

 さて、悩みの種がある。子どもたちが里親に宛てて書く手紙の内容がいつも恐ろしいほどのワンパターンで、読んでいてまったくつまらないのだ。たとえば一例をあげると、こんな具合。

「尊敬する里親のお父さん、お母さん。お元気でいらっしゃいますか? 私のほうは元気です。今、日本の気候はいかがですか? お父さんは今、何のお仕事をされていますか? 私はこれからもベストを尽くして一生懸命勉強いたします。最後になりましたが、日本のお父さんのお幸せと健康をお祈りしています。さようなら。愛と尊敬を込めて」

 型どおりの挨拶文句で始まり、型どおりの別れの挨拶で終わる紋切り型の定型文の間に、具のないサンドイッチのごとく、はさまれるべき具体的なメッセージがほとんどない。どの子の手紙も似たり寄ったりで、個性というものがまったく感じられない。何か書かれていたとしても、それこそ毎年判で押したように同じである。長年支援されている里親のかたは、毎年同じ時期に送られてくる里子からの手紙を読んで、「あれ、こんな内容の手紙、去年も受け取ったけど」と、既視感にさいなまれるはずだ。

もちろん翻訳する側とすれば、子どもたちがワンパターンの手紙を書いてくれれば、仕事が楽チンこのうえないのだけれど、読まされる側の方々の心中を察すると、不安になる。「タイの子供たちは支援する里親に対して、親愛の情も恩義の念もなにも感じていないのではないか」と失望し、こんなことでは支援する甲斐がないと、支援をやめてしまうかたもいるかもしれない。

「手紙には、季節の挨拶とか、締めの挨拶とかももちろん大事だけど、一番大切なのは手紙に心がこもっているかどうかなんだ。みんな、自分の生活の中で起こったことや感じたことを、もっと率直に書いてみようよ。楽しかった出来事や悲しかった出来事でも、自分の悩みのことでも、家族のことでもいい、友だちとのことでも、好きな先生のことでも、いや、片思いの恋人のことでもいいじゃないか。心のこもってないよそ行きの挨拶よりは、具体的でなまなましい話題を書いたほうが、里親の人はうれしいと思うよ」

 子供たちにはいつもそうアドバイスしているのだが、なかなかこちらが期待するような手紙は書いてくれない。

 なぜ、さくら寮の子供たちはこんな形式ばった手紙しか書けないのだろうか。実際の彼らはもっと生き生きとして個性的なのに。なぜ、もっと自由にのびのびと自分の体験や感情を書けないのだろうか。それは私にとってさくら寮開寮以来の疑問だった。

 ひとつには、タイにおける国語教育の方針(私が観察している限り、タイの学校の国語の授業では、自由作文の指導をあまり重視していないように感じる)や、手紙という表現形式に対する日本とタイの価値観の違いせいもあるだろう。タイでは目上の人に書く儀礼的な手紙の文章には定型があり、逆に自由な気持ちを文章にして表わすのは失礼である、などと学校で教えられているのかもしれない。

 それから、長く無文字社会の伝統に育ち、手紙を書いたり読んだりする習慣のない山岳民族の子どもたちにとってはなおさら、文章で自分の気持ちを伝えるということに慣れていないのかもしれない。手紙の文化を長く保持してきた日本人のように、実際に会ったこともない相手と、文章のやりとりだけで心を通わせたりする想像力というものが十分に培われていないのだと思う。文章からイメージを作り上げる能力、文章によって自分の気持ちを相手に伝える能力というものは、実は意外に高度な学習と鍛錬の産物なのだ。

しかしそのあたりのところは、日本にいる里親のかたがたにはなかなか理解していただけない。日本人同士では、ふだん手紙やEメールで普通にコミュケーションが成立できているから、タイの子供にも普通にできるものだと思いがちである。そうした能力が人間の先天的な資質でなく、高度な教育と文化的な伝統によってはじめて成しとげられるのだということを実感するのは、異文化に長く接した経験のある人でないとなかなかむずかしい。

 さくら寮では毎週日曜日に寮生ミーティングがあり、全員で歌を歌う。その歌のレパートリーというのがなぜか10年前からほとんど変わっていない。10年前のヒット曲をいまだに飽きもせずに(?)歌い続けているのだ。いい加減新しい歌を覚えればもっと楽しくなるのにと思うのに、まったく新しい歌を覚えようとする気配がないし、それを提案するスタッフも寮生もいない。ただ、惰性で歌っているのだ。

 ワンパターンといえば、恒例のクリスマス会で演じる出し物なども、毎年、前年のビデオを見るようにワンパターンである。人気歌手のステップを真似たディスコ・ダンスやオカマも入り乱れてのファッションショーなど、毎年まったくアイデアに進歩がないというか。  要するに、なににつけても、新しいことに踏み出そうという意欲に欠けるのである。

 しかし、視点を変えてみれば、この人々の偉大なるワンパターンこそが、私たちが日頃賞賛してやまないもの、つまり、彼らが今の時代まで保持してきた昔ながらの伝統文化の原動力になっているのだということでもある。

 彼らの行動規範がこれほど頑固なまでに保守的というか、ワンパターンでなかったら、今頃、モン族は何百年も前からほとんどデザインの変わらないあの精緻な民族衣装を着続けていないだろうし、ラフ族は数百年来変わることのないステップであいかわらず正月の踊りを踊ったりしていないだろう。アカ族も古い民謡を口伝えに現代にいたるまで残してこなかっただろう。

 そしてもし山岳民族の人々が日本人と同じような精神性や性格をもちあわせ、たえず外部の文化や技術を学習、吸収し、またそれに創意工夫を加え、日々改良に改良を重ね、残業もいとわずにせわしなく働きまわり、家庭を犠牲にしてまで徹底的にこだわる仕事をしていたら、今頃北タイの山々には高層ビルが建ち並び、高速道路が張り巡らされ、車が走りまわっているだろう。しかし、現実は黄土色の大地に、いまだに美しい草葺の家が建ち並び、人々は足踏み式の精米機で米をついているのである。それを情けないことだと思うか、素晴らしいことだと思うかは個々の価値観次第である。十年一日のごとき彼らの姿を、「変えようとしないことの怠惰」と見るか、「変わろうとしないことの意志」もしくは「変化を拒絶する頑固なほどの保守性」ととらえるか。

 マンネリであることは、文化の多様性を保持するという点においては非常に重要なファクターである。グローバリズムという名のもとに、欧米社会の主導で急激に進みつつある世界の画一化、均質化をくいとめる遅延作用としてそれは機能する。

 タイ語でよく使われる「パタナー」と言う言葉は、英語で言えば「development」 開発する、発展させるという意味だ。

 私たち山岳民族の教育を支援しているNGOでは、とかく山岳民族の人々に、「パタナーしなさい」「遅れた生活習慣を改めなさい」と諭し、その一方で「自分たちの伝統的な文化や習慣を捨てることなく、守り続けなさい」とエールを送っている。しかし、「生活をパタナーすること」と「伝統的な文化、習慣を守ること」はある意味でまったく相反する方向性をもったベクトルを示しており、ときに彼らをダブルバインド(二重拘束)のジレンマに陥らせる。「私たちを変えたいのか、そのままでいさせたいのか、どっちなんじゃ?」ということである。「山岳民族開発支援」を標榜する者にとって、それは永遠の課題となる。私の気持ちも、子供たちの姿を前にして振り子のように揺れるのである。

踊り
クリスマス会での熱演

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