2006年01月10日 「ドイ・メーサロン」
アカ族のみやげ物売りのおねえさん
チェンライからメーサイに向かって北上し、中間地点のメーチャンを3キロほど過ぎたところにあるパサーン村で左に折れ、国道1130号線を西へ、急峻な九十九折の道を上っていくこと約36キロ。標高1300メートルのメーサロン山の頂上近くに、突然、巨大な町が視界に飛び込んでくる。これがサンティキリー村だ。坂が多く商店が建ち並ぶ猥雑な雰囲気は、なんとなく日本のどっかの温泉町のようである。サンティキリー村は、中国国民党の残党が築いた村として知られ、今ではリゾートや土産物屋も建ち並び、チェンライでも有数の観光地のひとつとなっている。(12月から1月にかけては桜が咲くことでも有名だが、日本のソメイヨシノなどとは似てもにつかぬ桜なので、あまり期待しないよう)お茶の産地としても有名である。
まあ、いまさらメーサロンの歴史解説や観光案内をやってもしかたがないので、今回はこのメーサロンの周辺の市場などで売っている珍しい食べ物を紹介する。
まず、このあたりにはアカ族の集落が多く、アカ族のおばちゃんたちが野菜とか、森の中で集めてきたキノコや筍なんかを売りにきている。
巨大きのこを手にするカンポン君
ちょっと目を引くのが、巨大なヤマイモだった。トラノテヤマイモと呼ばれる種類らしい。これは日本のナガイモとか自然薯など呼ばれているヤマノイモ科の仲間には違いないが、形態はまるで違って、本当にベンガル虎の手のようなおどろおどろしい形をしている。野球のグローブ状のものもある。重いものは2キロ以上もあった。
調理をしようと切ってみるとさらに驚くことに、中身が鮮やかな青紫色をしているのである。日本にも青いサツマイモはあるが、ロイヤルブルーのとろろ芋なんて聞いたことがない。
収穫されたトラノテヤマイモの数々
さっそくこれをとろろご飯にして食べてみたが、水分が少なく粘りが強すぎるのと、やはりこの奇怪な色彩のせいか、あまり食が進まなかった。醤油で煮て食べてもみたが、これも味はイマイチ。あまったイモをさくら寮の庭に植えておいたら、3ヶ月ほどでみごとな大きさに成長した。
トラノテヤマイモの調理例
やはりアカ族の人たちの出している売店で、巨大なキノコが売られているのを見つけた。形状はマツタケみたいだが、北欧の童話絵本とかディズニーのアニメに出てきそうな超巨大サイズ。おばさんに「食べられるの?」と聞くと、当然のことながら「食べられる」という。わけのわからないものを見ると見境もなく買ってしまう私は、とりわけビッグサイズなのを3個も買ってしまい、さくら寮に持ち帰って料理長のジョイさんに調理してくれと頼んだ。料理長は、「そんな見たこともないようなキノコを料理するわけにはいかない。食べた後、体がしびれてきたらどうするんだ」と、断じて触ろうとしない。
「でも、アカ族の人たちはみな食べてるって言ってた」
「アカ族の人たちの食べてるキノコに似た毒キノコだったらどうするのよ」
まあ、それはそうだけど。ちょっと味見するぐらいなら……。副料理長のミボヤイに頼んだが、彼女も「こんなキノコどうやって料理するんだ」とすげない返事。みな、毒キノコと疑ってかかっているのだ。結局キノコは食べられることなく腐ってしまった。もったいない。「気まぐれ一発」コラムニストの高橋敏さんのところへもっていけばよかった。
その他、お茶の葉、蜂蜜、ヘビ酒、中国から流れてきたあやしげな精力剤や媚薬、発毛剤、やせる石鹸、それからセンザンコウ、オオトカゲ、のねずみなどの食用動物、アカ族の民族衣装、ニセ宝石、もだまの実など、笑いのネタになるようなとんでも商品からレアな掘り出し物まで、メーサロンの市場にはいろんな怪しい品々が並んでいる。
メーサロンの桜の木(3分咲き)
メーサロンの桜の花。桃色をしている
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2006年02月10日 「忘れっぽい日本人」
さくら寮の子供たち
昨年から今年にかけて2人の現地スタッフが辞めていった。一人は円満退職だったが、もう一人には辞めてもらった。
さくらプロジェクトのような小さな組織でも、まじめで長続きする優秀なスタッフを確保するのはとても難しい。いろんな人が入ってきて、そしてバタバタと去っていく。中にはとんでもない人を採用してしまい、散々な思いをすることもある。実のところタイで従業員を解雇するなどということは、できることならなんとしてでも避けたい事態なのだが、中にはタイの一般常識に照らしても、これはもう辞めてもらうほかに術はないと思えるような、とんだ不祥事をおこしてしまうスタッフもいるのだ。
で、のっぴきならない問題を引き起こしても、ただおとなしくやめてくれるだけならよいのだが、たいていこの手の人の場合、後々までトラブルが尾を引くことが多い。自分が犯した過失によって辞めざるをえなくなっただけなのに、あちこちであることないこと、雇い主や元の職場のスタッフの誹謗中傷をしたり、逆恨みしたりと、始末におえない。そんな人を雇ってしまったわが身の見識のなさを悔やむばかりであるが、そのような経験は、タイで人を雇ったことがあるかたならば一度や二度はおありかと思う。
物価も安く、食事もおいしいタイであるが、この国に長く住むにあたって、日本人が学習しなければならないことのひとつは、現地の人々との距離のとりかた、そしてトラブルになったときの回避方法である。
まず重要なことは、相手をいちじるしく感情的にさせるような状況をけっして作ってはいけないということ。よく言われることであるが、たとえば職場で部下を叱るときに、他の人の見ている前で、声を荒立てて怒鳴ったり、罵ったりしてはいけない。自分が感情的になったり、相手を感情的にさせることは、なんら問題の解決にならないばかりか、トラブルを長期化、泥沼させるばかりなのである。
職場の場合、日本人はたいていこう考えるだろう。「これは仕事上のことで、上司の職務としてやむをえず叱っているにすぎない。私憤や私怨など何もない。明日になれば今日怒鳴ったことはすぱっと忘れて、一緒に酒でも飲んで、仲良くいこうや!」と。つまり、感情の問題は、まっとうな理性によってリセットできると楽観的に考えているのだ。しかし、タイの人は人前で怒鳴られた屈辱をそう簡単には忘れない。そしてそれは仕事上だけの関係を超えて、私怨にまでつながっていく。
友人や一般の人との関係も同様である。なにか行き違いがあって、険悪な状態になったとしよう。日本人は、とことん話し合って誤解をときあい、許し合い、ときには譲歩し、心ならずも非を認め、最後には笑って握手をすればもうそれで万時解決、明日からはすっきり、何もなかったように明るく良好な関係に戻れると、能天気にも考えてしまう。しかし、タイの人相手には、そうは簡単にいかないことがある。一度険悪になった関係を修復するには何年もかかる。いや一生修復できないこともあるかもしれない。
私自身も過去に、ちょっとした誤解や見解の違いから、タイ人と喧嘩したことがあるが、ある人は、何年たってもいまだに口もきいてくれない。偶然路上で会ったときなどに、こちらから関係を修復しようと、タイ・スマイルを送っても、目さえ合わせてくれかったりする。こちらが一方的に非があるわけでもないのに、完全にこちらを悪者扱いし、絶対に許すものかというような姿勢を崩さない。なにをこれほど執念深く、頑なに、いつまでうじうじと憎悪をつのらせるのか、そんなのお互いの人生にとってぜんぜんプラスではないじゃないか、前向きではないじゃないかと思ったりするが、そういう思いはむしろ日本特有の価値観であって、世界に通用するものではないのかもしれない。
日本人は、過去のことはご破算にして、ふたたび一から関係を築きあげていくことを美徳と考えている。よくいえば建設的であるが、悪く言えば、自分に都合の悪いことだけを忘れようとする、「ご都合主義の健忘症」である。忘れっぽいということは、同じ日本人同士ならば美徳であり、有効な解決手段になりえても、外国では、ふざけた態度というか、むしろ許しがたい大罪になることもあるのだ。
別にこの論理を日本の日中外交、日韓外交などについてあてはめたりするつもりはないが、タイの人々の「感情の構造」を観察していると、同じ陸続きの中国や韓国の人々の感情というものも類推できるような気がするのだ。日本人以外のアジアの人々が、(それが昨日のことであれ、60年前のことであれ)過去の出来事に対して抱く遺恨の深さは、私たちの想像以上であるということは、覚えておいたほうがよいのではないか。足を踏んだほうは忘れても、踏まれたほうはその痛みを忘れていないのだ。
さて、さくら寮のことに話題を戻すと、生徒のほうも日々、なにかと問題を引き起こしている。私を含めさくら寮のスタッフは、日々子供たちを叱っている。規則を守らなければ、罰も与える。
そろそろ卒業の季節である。さくらプロジェクトでは、中学を卒業後も進学を希望する寮生に対し、支援を継続するかどうかの再検討をする。素行が悪かったり、勉学意欲がないと判断された子供は、中学卒業をもって奨学金の支援を終了する。支援を打ち切られた寮生は、スタッフに対してどのような感情を抱くのだろうか? 日本ならば、かなりやんちゃだった生徒でも、「これまで、私たちをよい子供にしつけるため、厳しく叱ってくださってありがとうございました」などと、恩師にお礼の言葉の一つぐらい述べるかもしれない。しかし、さくら寮の山地民の子供たちを見る限り、厳しく叱られたことに対してそうした素直な感謝の情を感じる生徒は一握りにすぎないようだ。多くの子供は、支援を打ち切られた時点で、これまで世話をしてもらった恩義はすっかり忘れ、叱られたことの記憶や、支援を打ち切られたことに対する恨みと怒りのほうを増幅させる。
そんなんじゃ、支援している甲斐が全然ないではないかと思うが、これが現実なのである。ここの多くの子供たちにとって(もちろん大人もそうであろうが)、善悪や正邪のものさしは、自分の外側にあるのではなく、自分の内側にある。要するに、自分に不利益をもたらす奴はすべて悪人なのである。言いかえれば「公正さ」の概念が不在なのである。
だからさくら寮の現地スタッフはいつも不足気味である。一生懸命子供のしつけをしようとすればするほど、逆に恨まれる。誠実に仕事をすればするほど、憎まれ役になるのだから、こんな割の合わない仕事、やっていられないからである。寮生の優秀な卒業生に、さくらに残って仕事を手伝ってくれと頼んでも、「台湾にでも出稼ぎに行ったほうが気が楽です」と逃げられてしまう。どこかにいいスタッフいないかなあ。
とまた、今回も暗い、愚痴っぽい話題に終始してしまった。
さくらエコホームの子どもたち
さくら寮の日曜日は屋上で布団を干しがてら、ひなたぼっこ。
2006年03月01日 「悲しきエスノセントリズム」
ある日、寮生のNと彼女の父親が私のところに相談にきた。Nはラフ族で中学3年の女の子である。さくら寮のトイレの裏で、ラフ族に伝わる悪霊祓いの祈祷儀礼をとりおこないたいが、やってもいいかというのである。
最近Nは寝つきが悪く、夜中にうなされたり、突然息苦しくなったりするという。Nの父親によれば、どうも彼女が寝起きしている宿舎の階下にあるトイレのあたりに、悪霊が住んでいるらしいので、これを祈祷によって取り除きたいというのである。
祈祷をするのもいいが、その前に病院に行って検査してもらったほうがよいのでは、と私は勧めた。もしかして肺炎など呼吸器系の病気かもしれないし、あるいはパニック障害とか、自律神経失調症のようなものかもしれない。医者にみせて治らず、原因もわからなかったら、儀礼をやるのも一つの手だ。
しかし、Nも父親もまずは祈祷をやらせてほしいといって譲らない。
「でも、ここは学校の土地だし。特定の宗教の儀礼をやる場合は校長先生の許可を得ないと……」
さくら寮が建っている土地は子ども達が通う学校の所有で、この学校はバプティスト系のキリスト教財団が運営しているのだ。
山地民の人々に伝統的文化を末永く保持してもらいたいと考えている私は、実を言うと山地民の人々のキリスト教信仰に対してより、アニミズムなどの伝統宗教にむしろ寛容というか、エールを送っているところがある。だから、ふだんであれば、「いいよいいよ、自由にやりなよ。私もその様子をビデオ撮影させてもらうから」と喜んで許可するところだなのだが、今回ばかりは、簡単には首を縦に振る気持ちになれなかった。数日前のあるニュースが、喉に突き刺さった棘のように心にひっかかっていたのだ。私はK村出身のN親子に対して、少し意地悪な気持ちになっていた。
数日前の一件というのは、Kさんの死にまつわることだった。
Kさんは60歳代の韓国人男性で、長年チェンライに住み、ラフ族など山地民の文化、風俗の研究のかたわら、村の自立や子供たちの教育支援をしていた。韓国内ではいくらか名前の知られた歴史作家らしかった。さくらプロジェクトが13年前から支援しているラフ族のK村を、Kさんもまた精力的に支援していて、村じゅうの各戸に 1頭ずつ水牛をプレゼントしたり、さくら寮にいるK村出身の子供たちに少なからぬ額の奨学金を与えたりしていた。その支援のやりかたをめぐっては、私の考えにはそぐわない面もあり、村で出会ったりしたとき、たがいにいささか気まずい空気が漂ったりしたこともあった(NGO同士ではよくあることだ)が、K村の人々から見れば、Kさんからは少なからぬ恩恵を受けていたはずだ。
そのKさんが昨年あたりから不治の病に倒れ、余命いくばくもないと聞いていた。
K村を心から愛していたKさんは、いよいよ衰弱して歩くこともできなくなった昨年の暮頃、遺言として、「自分が死んだら、自分の遺骨をK村の近くに埋めてほしい」と友人に頼んだという。
Kさんの韓国の友人たちがK村にその希望を伝えに行ったところ、村人達の反応は意外なほど冷ややかなものだった。K村の中で話し合いが行われ、Kさんの遺骨を村に埋葬するわけにはいかないと拒否されてしまったのだ。ラフ族の流儀では、外部の者の遺体や遺骨を自分達の村のエリアや墓地に埋葬することはタブーに触れるというのである。
ふだん、Kさんの著書(タイや中国の山地民に関する調査紀行のような本をKさんは少しあやしい日本語で自費出版していた!)を辛口で批評していたさくら寮ボランティアの茅賀君でさえもが、「さんざんお世話になっておきながら、K村の連中はなんて情けも涙もない、恩知らずな奴らなんだ」と、このときばかりはKさんに痛く同情し、憤りをあらわにした。
「あれだけ支援を受けていたんだから、ラフの流儀や文化はどうであれ、遺骨ぐらい埋めさせてやれよな。そんな恩知らずだからK村もいつまでたっても発展しないんだよ」
K村の人々の反応を見てそう考えるのは、同じ儒教文化圏に生きる多くの日本人や韓国人の自然な感情であろう。しかし、そういう発想はラフの人々には通用しない。そもそも「恩義」などという言葉が通用する地域など、地球上のごく限られた地域にすぎないのである。それに彼らがKさんに多少の恩義を感じていたとしても、土着信仰の拘束力というか、霊界への畏れの力のほうがはるかに強固なのである。
生前に村人たちの冷淡な返答を知ったKさんは、気落ちしたのか、さらに憔悴の度を深めたと聞く。ほどなくしてKさんは亡くなった。私は死んでもK村に骨を埋めてもらおうとは思わないけれど、Kさんの無念はとてもよくわかる気がした。
そんな事件の直後の、今回のさくら寮でのN親子の祈祷の問題である。
私がSスクール内でのアニミズム儀礼に難色を示したことに、N親子は不満の表情を隠そうとしなかった。だが私は、K村の彼らがそこが自分たちの生活と信仰のフィールドであることを理由に、自分たちの世界観やタブーに従ってKさんの遺骨の埋葬を拒否したのであるならば、キリスト教という異文化世界のフィールドであるSスクールにおいてアニミズムの祈祷を行うことを拒否されても、なんら不平は言えないのではないかと思った。私の論理は一貫しているはずだ。
しかし、一方でこのラフ族親子の行動が彼らの考えと矛盾しているのかといえば、そうでもない。彼らの論理もまた一貫している。つまり、どこにいようと、どこに行こうと自分たちの世界観でしかものごとを考えないし、行動しないという一貫性である。私は文化相対主義としての一貫性であり、彼らは自文化絶対主義というか自文化中心主義(エスノセントリズム)という一貫性である。宗教であれ文化であれ、日本人は相手の都合にあわせることができる世界でも珍しい民族かもしれない。
昨年末、アカ族のA村で悲惨な事故があった。平地タイ人の村の稲刈りに雇われて働きに行っていたアカ族の村人たちを乗せたトラックが、雇い主である運転手の運転ミスで、村の手前の坂道で崖から転落して、アカ族の人たち3人が亡くなり、十数人が重軽傷を負ったのだ。雇い主は転落する直前にドアを開けて逃げて無事だった。この無責任な雇い主に対する慰謝料交渉がなかなか進展しない中で、葬儀を前に、もうひとつ大きな問題が発生した。
病院でなくなった3人の犠牲者を村に運び入れる際、その手前にあるヤオ族の村民が、遺体を運ぶ車をヤオ族の村の前を通るのはまかりならぬと言い出したのである。ヤオ族のタブーとして、村の外で死んだ者は、村の中に運び込むことはできず、村の中で葬式を挙げることもできない。
しかし、亡くなったのはアカ族の人であり、車が通るのはヤオ族の村の前を通るとはいえ、道路はれっきとした公道である。何びとであれ、公道を通させないなどという権利はないはずだ。しかし、ヤオ族の人々は自分たちの文化・信仰を盾に、当初なかなか納得せず、一時アカ族の人々とヤオ族の人々との間に不穏な空気が流れたという。両方の集落を統括する区長が間に入って、やっとことをおさめた。
タイ北部においても多くの民族がそれぞれの文化習慣に従って一見平和に生活してはいるが、それは必ずしも他民族の文化を受容しているわけではなく、あくまでも自分たちの価値観や道徳律がすべてを支配しているのである。だから、いざ他民族が自分たちのタブーや信仰、道徳に抵触する行動をとれば、容易に争いの火種になる。
多種多様な人種、民族が暮らす多様な世界の中で、その多様性を損なうことなく、互いの立場を認めあって暮らしていく、それは人類の理想である。互いの文化や世界観を認め合い、譲り合い、尊重しあいながら、たった一つの地球の上で共存していければ素晴らしいことだ。これを単一文化的な世界で暮らす人が想像したり、「人類みな兄弟」というような言葉で言ってみたりするのは簡単だが、実際にこの共存を現場で実践していくのは大変なことだ。
さて、後日談であるが、あのKさんの死後、友人たちが、Kさんの遺産でK村の近くに土地を買い、そこに遺骨を埋めることで話は決着したそうだ。(村人がごねていたのは金がほしかったのか)
私もN親子に寮内でのアニミズム儀礼をすることを許可した。
心の片隅になにかやりきれないむなしさのようなものが残ったが、「ここはそういう世界なのだ」と思うしかないのである。
Kさんのご冥福を祈る。
ラフ族の葬式
2006年03月23日 「入寮試験」
さくら寮の「卒業生を送る会」にて。今年度の中学卒業生たち。
タイでは学校は3月半ばから学期休みに入っている。5月半ばまで約2ヶ月の長い長い夏休みである。大学や専門学校になるとまるまる3ヶ月以上授業がお休みになるところもある。こんなに休みが長いと、新学期になってももう学校に行きたくなくなるんじゃないの? と心配にもなるが、まあ、この時期はたとえ学校に行っても、うだるような暑さで、生徒も先生もダレダレ、まったく授業にはならないだろう。
さくら寮の140名の子供たちも各自村に帰って、今頃は両親を手伝って畑仕事に精を出している……はずなのだが、実を言うと最近は、両親の畑仕事を手伝わずに町でアルバイトをする子もけっこういる。10年前は考えられなかったことだが、今ではチェンライ市内でも、ガソリンスタンドや市場の雑貨屋の店員、スーパーやコンビニなど、重労働、低賃金ではあるが雇用機会も増えてきて、学生アルバイトの口もそこそこ見つけやすいのである。で、稼いだお金は学費の足しにするというのなら美談であるが、寮則違反のケータイ電話を買ってこっそり寮に持ち込んだりするから困りものである。
さて、さくらプロジェクトでは、3月18日~20日の3日間にわたって、2006年度新入寮生の選抜選考会が行われた。
この日、保護者たちに引率されて試験会場のさくら寮に集まったのは、幼稚園児から高校3年生まで、約90人の山の子供たち。実際の応募者は、書類を受理したぶんだけでも300人(問い合わせはさらにその2倍)。来年度はその中から約30人を選抜して支援する予定である。受験資格があるのは主に、来年度から中1に進学する生徒、そして小学校低学年の児童たちである。
3日間にわたる選考会では、スタッフおよびさくら寮の年長の生徒たちで構成された試験監督員によって、多種多様なプログラムが用意されている。1日目は受験者の登録と保護者たちへの説明会。夜はホールにて自己紹介および特技の披露。2日目は学科試験および論述試験、個人面接、ゲーム大会。3日目はゲームやスポーツテスト。スポーツテストといっても、体力測定や運動能力を測っていわゆるスポーツ特待生を選ぶわけではなくて、スタッフが個人面接をしている間、他の受験生たちは暇をもてあましてしまうので、その時間つぶしのレクレーションといったところである。もっとも、こうしたスポーツやワークショップやゲーム、集団での労働を通じて性格や積極性、協調性の有無を観察できるのである。
300人の応募者から最終的に30人に絞り込むのであるから、競争率なんと10倍、数字だけで見ればへたな日本の大学よりも難関である。なので「さぞかし優秀な生徒がお集まりでしょうね」と聞かれるが、そんなことはない。試験の結果は、ほとんどの子供が橋にも棒にもかからない悲惨な点数である。そもそも入寮試験の受験資格が与えられる子どもの基本条件が「村の中、または歩いて通学が可能な範囲内に必要にして十分な教育施設がなく、かつ経済的に貧困な家庭の子供であること」であるから、試験の成績が無惨なのは当然である。知能や潜在能力はともかく、まっとうな学校で教わったことのない子供が試験で成績が良いはずはない。逆にその子の試験の結果が抜群に良かったとすれば、その子はすでに適切な環境で教育を受けていると判断されるから、今さら新しい学校に入れる必要もないのである。成績優秀な生徒は、書類審査でおとした約200名の中にもしかしたら含まれているかもしれないが、それはそれでよい。成績が良くても家庭が明らかに裕福な生徒は、後日の家庭訪問調査の段階で選考からはずされるケースもある。
さくらプロジェクトでは、この頃はあまり入寮試験の点数を重視しない。エリート養成機関ではないからだ。
では3日間の合宿選考会中、何を重点的に見るかというと、一にも二にもまず行動と性格である。生活態度、共同生活への適応性と協調性の有無も観察する。せっかく合格させて入寮してきても、新学期が始まって数日でホームシックにかかって家に逃げ帰ってしまう子も例年見受けられるからだ。わがまま放題に育てられ、自分勝手で協調性がない子も、寮生活には不向きである。
とはいえ、たった3日間で90名の子供たち全員の性格や性質を正確に見抜くことは不可能に近い。スタッフの目を意識して猫をかぶっている子もいれば、逆に一見問題がありそうに見えても、実際に入寮させてみればちゃんと生活できる子もいるかもしれない。私など毎年、選択をあやまってとんでもない子どもを入寮させてしまい、他のスタッフからは、「またはずした」「人を見る目がない」と非難されつづけている。まあ、優等生ばかりでなく、問題児を更正させるのも我々の仕事なのだと苦しい言い訳をするのだが、人を選ぶことは本当に難しい。下手をすれば落とした子どもの親から恨みを買うことだってある。本当ならこういう役割は背負いたくないものだ。が、泣きごとはいっていられない。とにかく我々は90人の中から30人を選抜しなければなければならないのである。
7、8歳の年少児童の場合は、将来性を見抜くのは難しいし、性格も成績もどう化けるかわからない。ならばある程度評価が固まった年長の子どもを入寮させればよいではないかと思われるかもしれないが、そこにはまた別の難題が待っている。それは「15歳の壁」とでもいうべきものである。
山地民の子供たちはおしなべて早熟である。特に女子は早熟だ。ラフ族あたりだとだいたい13、4歳になるとみな恋人ができ、早い子はその年齢でさっさと結婚してしまう。さくら寮で勉強している子供たちも、学期休みで村に帰ると、それら友人の姿を見て刺激を受けるのかどうか知らないが、恋のアバンチュールに落ち、新学期が始まっても学校に戻ってこないことがよくある。
1年でも2年でも学校で勉強でき、読み書き、算数ができるようになれば、卒業できなかったとしても、それはそれで将来の役に立ち、無駄にはならない、というような前向きの考えかたもできようが、「けじめ」という観念を重視する日本の支援者のなかには、中退という結果に納得できず、それ以後の支援をやめてしまわれる方も多い。勉学意欲があるというからなけなしの小遣いを積み立てて支援しているというのに、男ができたから中退なんて、あまりにも心がけが安易ではないか」といったところだろう。その落胆もわからないでもないが、やはり若者たちにとっては種族保存の本能からくる衝動のほうが切実なのである。
まあそんなわけだから、選抜するほうとしても、13、4歳の女子を選抜するときは、ついつい及び腰になってしまう。小さい子どもの場合は、知能も性格も読めない部分があるが、とりあえず「15歳の壁」までには年月がある。いわば猶予期間が長いというだけではあるが、とりあえずリスクの少ない安全物件なのである。しかし、それとて結末を先送りした単なる執行猶予であり、その年齢に達すれば結局は男とともにドロンしてしまうかもしれないのだが。
あるとき、山で生徒調査をしているとき、山の学校の教師が私たちに皮肉っぽくつぶやくのを耳にしたことがあった。「教育支援っていったってねえ、学校なんて○○族の子供らにとっちゃ、結婚までの腰かけみたいなもんだよ。寮にいれて勉強させたって、結婚までの養育費を親に代わってタダで出してやってるようなものだよ」
今年入寮させた30人の子どものうち、何人が初心を貫徹し、最後まで学業を全うしてくれるだろうか。30人のうち、5人でも6人でも自分が納得するまで勉強を続けてくれるならば、プロジェクトとしては成功のうちと考えたほうがよいかもしれない。最近はあまりカリカリせず、そう思うようになった。
入寮試験をうけるためさくら寮に集まった子供たち
入寮試験風景
2006年04月29日 「ドイ・トゥン・ワンダーランド」
ドイトゥン寺のふたつの仏塔
メーサイやゴールデン・トライアングルほど外国人に知名度はないが、ドイトゥンはタイ人観光客にとっては、チェンライに来たならもっとも行ってみたい観光地のひとつだろう。そこには山の上の眺望が美しい寺、色とりどりの花が咲く庭園、瀟洒な王室の別荘と、タイ人の大好きなアイテムがたくさん詰まっている。タイのスイスなどとも呼ばれることがあるらしいが、私はスイスに行ったことがないのでコメントはできない。
ドイ・トゥン山は標高約1300メートル、その山頂には西暦911年に建立されたといわれるワット・プラタート・ドイトゥン(ドイトン寺)があり、金色の二つの仏塔が並んで立っている。釈迦の鎖骨の一部が奉納されているとか。
アカ族やラフ族などの山地民が暮らしていたこの地で、大規模な開発が始まったのは1987年ごろのこと。山地民の支援と森林保護に強い関心をお持ちだった故・ソムデット・プラシーナカリンタラーバロムマラーチャチョナニー王母陛下(故人となった今でも国民に多大な尊敬を集めている)のお住まいが、ドイトゥン山の中腹に建設されることになったのが始まりである。同時に王室による山岳民族の自立支援のための農業プロジェクトなども始まった。
ドイトゥン・ノイ寺の本堂
この王母陛下の御用邸は、タイの伝統建築様式とスイスの土着の建築様式を取り入れた建物だそうで、一般の人も見学が可能。途中のビューポイントには、観光客をあてこんでアカ族やラフ族の人々が民芸品を売っている。
王母陛下の離宮の近くには、25ライの広さを誇り、年じゅう色とりどりの花が咲くメーファールアン・ガーデンがある。この見事に手入れされた庭園も一般公開されており、入場料を払えば誰でも入ることができる。
毎年3月にはこのドイトゥン寺の祭りがあり、仏教を信仰するタイ族系の人々はもちろんのこと、このあたりのラフ族の人々も、この日にドイトゥン寺に生姜や里芋など作物の種やイモを供えるとその年は豊作になると信じていて、村々からピックアップトラックを連ねてこぞって参拝にやってくる。
また毎年10月には、恒例のドイトゥン・マラソン大会があり、チェンライ県の各地から老若男女数千人の市民ランナーたちが参加する。私もプロジェクトがらみでチェンライの社会福祉事務所からノルマを課せられ(?)さくら寮生たちと一緒に数回このコースを走った(歩いた)経験がある。距離は13キロ程度と短いが、あなどるなかれ、標高差約800メートルを一気に駆け抜ける、ただただ急な上り坂が続く、心臓破りの難コースである。たいていのランナーが、最初の1キロ以降は、走るというより、ぜいぜい言いながら歩くだけである。
立派な一物をおもちのルースィー(?)。ただの変態オヤジか。
ところで、ドイトゥン寺から少し歩いて下った森の中に、奇妙な仏像や仏教関連オブジェがたくさん置かれた一角がある。私はこれを初めて見たとき、ワット・ケーク(ケーク寺)を思いだしてしまった。ワット・ケークというのは、ご存知の人も多いかと思うが、ラオス・ヴィエンチャンを対岸にまみえる国境の町、ノーンカイにある、お寺なんだか遺跡なんだか遊園地なんだかわからないようなワンダーランドである。とにかくやたらチープで派手なだけの仏像やらナーガやら大日如来(風)やら千手観音(風)やら阿修羅やら大魔神やらの極彩色の像が、圧倒的な物量で無造作に建ち並んでいる、ほとんど開いた口がふさがらなくなるような遺跡群である。クメール風あり、ヒンズー風あり、ヘレニズム風あり、なんでもありで、これでもか、これでもかというてんてこりんな仏像のオンパレードに圧倒されつつも、この不思議な空間に初めて足を踏み入れたときは、何か見てはいけないものを見てしまったような後ろめたい気持ちと「いったい、誰が、何の目的で……」という釈然としない気持ちだけが残ったものだ。
なんだかわからないけど、こんなのをたくさん拝観できる
実はこのキッチュなオブジェの庭園を作ったルアン・プー(1932年ノーンカイ生まれ。1997年没)というおっさんは、ヒンズー教と仏教を融合させた教えを信奉するいわゆるタイ版新興宗教の教祖のような人だそうで、ルースィ・アーハーマー・ルゥオン・ムニーケオクーという人を師と仰いでいたとか。ルースィというのは、まあ、仙人のようなグルのような存在ですかね。
話が横にそれてしまったが、このドイトゥンの置物も、ワット・ケークのそれには規模において遠くおよばないものの、なにやら怪しくもユーモラスな雰囲気をかもし出している。
たとえば涅槃像。寝仏を取り囲んで多くの僧が座っているのだが、僧のポーズや表情がそれぞれ違う上に、てんでばらばらな方向を向いている。一人の僧は、こちらがカメラを向けたとき、ちょうどカメラ目線になる。撮影したとき、ちょうどラフ族のご婦人が供えものを置くために身をかがめていた。あとでモニターを見たら、まるでこの僧がにやけながら、婦人の胸元を覗き見しているように映っており、思わず笑ってしまった。
ドイトゥン寺の近くにある森の中の涅槃仏。3人目の僧侶に注目。どこを見てんじゃ!
2006年04月30日 「憂鬱な夏休み」
学期休みで誰もいないさくら寮の食堂で、ひとり寂しく昼飯を食っていたら、寮長のジョイが不機嫌そうに、ポツリと言った。
「J村のNがもうすぐ結婚するらしいよ」
「ぷっ」
私はご飯を噴き出した。
Nはさくらプロジェクトで支援しているラフ族の15歳の女子だ。今年3月中学を卒業して、5月から市内の高校に進学することになっていた。5月初めにはさくら寮に戻ってくるはずだった。
毎年ソンクラーンが終わる頃から、私は憂鬱な気分にさいなまれる。気分が重くなるこうしたニュースが日々飛び込んでくるからだ。寮生の誰々が婚約したらしい、結婚したらしい、妊娠したらしい、もう別れたらしいなどというニュースである。
2ヶ月にもおよぶ長い学期休み、帰省した村で、バイト先の街中で、いろんな出来事があり、出会いがあり、アバンチュールが寮生たちを待っている。サッカーでいえば、この2ヶ月間は「危険な時間帯」である。
結婚なんてめでたいニュースじゃないか、産めよ増やせよ地に満てよ、と普通なら手放しで喜ぶべきことである。
が、私の立場は微妙である。さくらプロジェクトは一人の支援者が一人の生徒を継続的に援助する里親システムという奨学金支援システムをとっていて、里親の方は自分の里子に対してひとかたならぬ深い思い入れがあるのである。この一方ではめでたく、一方では寂しく悲しくもある事実を手紙やメールで里親に伝えなければならないのは、間にたつこの私である。
里子退寮の知らせを受け、里子が学業途中でドロップアウトしてしまったという事実に失望される里親も多いし、「そもそも、そんないいかげんな気持ちで学校に行っていた子どもを支援させられていたのか」とか「どういう基準で子どもの選考をやっているんだ」と怒り出す人もいる。「もう一度あなたが説得して勉学に復帰させることはできないのか」って、それはちょっと無理な話だ。すでに一緒に住んじゃったりしてるわけだから、それを無理に引き離したりしたら、一生うらまれかねない。
なぜ、もっと勉学意欲と忍耐力と責任感のある子どもを選抜しないのだといわれるのが一番つらいのだが、こちらだって支援する生徒の選抜は厳正にやっている。特に義務教育である中学を卒業した子どもの支援継続に関しては、かなり慎重に検討を重ねた上で決定する。それでもこういう例はあとをたたない。
今回のNの場合も卒業前の進路相談で、保護者をまじえて二度、三度と話し合った。このところJ村の女生徒たちは、たいてい中学を出ると就職するか結婚してしまい、進学したとしても無事卒業できる子はほとんどいなかった。そんな前例があったため、Nが進学したいといっても、さくらとして支援する考えはなかったのだ。しかし、彼女は自分を支援してほしいと懇願した。
「だってね、キミの村の女の子たち、みんなほいほいと結婚しちゃうじゃないの。高校に進学してもみな1年か2年で中退だしさ。キミだって学期休み中にボーイフレンドができたら、ハイ結婚なんてことになるんじゃないの。そうなったら日本で支援してくださっている里親の方の期待を裏切ることになるし。進学するならよほどの覚悟がないと」
「どうして他の子たちと一緒にするんですか。私はみんなとは違います。私はもっともっと勉学して、学歴を積んで、将来いい仕事につきたいんです。早々と結婚しちゃって、お金で苦労している友達の姿を見ているから、よけいにそう思うんです」彼女は切々と訴えた。
まあ、人は人、自分は自分、一緒にしないでと言われれば、ごもっともだ。前例や確率論だけで判断してはいけない。そこまで決意のほどを語られては支援せざるを得ない。などと私もちょっと甘くなっていた。
「じゃ、約束できるかい。進学するからには、なんとしても3年間は勉強を続ける。どんなことがあっても高校だけは卒業する。いいね」
「はい、約束します。どんなことがあっても勉学を続けます。私、中途退学なんてしませんから」
翌日、彼女は私から金を4000バーツ借りて、新しい学校に前期の授業料を納めに行ってきた。
そしてその彼女が、そう強い決意で語った舌の根も乾かぬ1ヵ月後に早々と結婚である。休みのアルバイト先で知り合ったタイ人の若い少年と恋に落ちたらしい。
いったい、どうなってんだよー。やはり確率論は正しいのか!
彼女たちには、1ヶ月先の自分の未来を予測、予見する能力もないのであろうか? いや確かに人生、1ヶ月先にどんなことが待っているかわからない。予測は不能である。しかし、我々人間には、自分の言葉に対する責任というものがある。3年とまではいわぬまでも、せめて2ヶ月、3ヶ月ぐらいは自分の言葉や人との約束に責任を持ってほしいものである。
そういえばいやなことを思い出した。中学生のとき、私はまじめなグループ交際をしていたクラスメートの男女数名の間で「結婚しない同盟」というのを結成していた。
「タカシ君、私将来はどんなことがあっても絶対結婚しないからね。あなたも誓うのよ」
「は、はい」
しかし、そういっていた言い出しっぺのヨシエちゃんという女の子が、中学卒業後、同窓生の中では真っ先に結婚してしまったのだった。私なんていまだにあのときの約束を守っているっていうのに! それ以来私は女の言葉を信じなくなった。
寮の子供たちの誓約だってまったくあてにならない。そもそも日本人と違って「義理」などという感覚から自由なのである。誰かが自分のことを期待していてくれる、見守ってくれているなどという意識もない。よくも悪しくもすべては自己責任でやっている。
身も蓋もない言い方をしてしまえば、子供たちは、他人との約束を果たすために勉強しているわけではない。表現は悪いかもしれないが、私たちが考えているよりもはるかに野性的に、生命の本能にもとづいて生きている。長期的なスパンで人生を計画できない反面、もしかしたら動物的なカンで生命としての種族保存に有利な行動をとる判断をくだしているのである。
子供たちのこのあたりの精神構造というか行動規範については、一般の日本の支援者の方々にはなかなか理解していただけない。だから私は里親の方々に寮生が退寮したり退学したりしたときの報告の手紙を書くのが一番つらく憂鬱なのである。日本の常識や倫理観の枠組みで彼らの行動はなかなか理解できない。理解できても納得はできない。
さて、そのような結末をうむタイの「ピットゥーム」(学期休み)、子供たちは何をして暮らしているのだろう。アルバイトであった。
この季節限定のチェンライの大衆観光地、メーコック川岸の「パタヤ・ノーイ」(誰が名づけたのか小パタヤ・ビーチ。砂利だらけの河原をビーチと呼ぶには多少無理があるが)という場所は、ソンクラーンをはさんだ約1ヶ月間、多くの地元水浴客でにぎわう。それをあてこんでこの時期、パタヤ・ノーイには海の家ならぬ川の家が軒を並べ、にわか飲食店が大繁盛する。で、ここにアルバイトとして借り出されるのが、山地民の若者たちである。平地タイ族の若者はソンクラーンの時期は遊ぶのが忙しくてアルバイトなどせず、圧倒的に人手不足になるので、ふだんは職にありつくのが困難な山岳民族の若者たちも優遇されるのだ。といっても、そのわりには住み込み、食事つきながら1日50バーツという首を傾げたくなるような待遇である。
しかしこの信じられないような薄給にもかかわらず、パタヤ・ノーイの飲食店のバイトはアカ族やラフ族の若者たちがバイトに精を出している。で、よく事情をよく聞いてみると、これが山地民ワイ・ルン(若者)たちの出会い系サイトになっているのであった。村にいれば、昼間はきびしい畑労働で、夜は親の目があるからなかなか家を抜け出して夜遊びにもいけない。しかし、パタヤ・ノーイでは住み込み労働であるから、夜になると自由時間があり、しかも親の目は届かない。実際、昨年ここで働いた経験のある寮生の話では、アルバイトたちの宿舎は夜になるとほとんどもぬけの殻になるほど、みな夜遊びに興じているらしい。
なるほど。給料は低くても、ここで働くモチベーションは大きいのだ。新学期が始まった頃には、しっかりとカップルが誕生して、私を憂鬱にさせるのである。
来年はアルバイト禁止令でも出すしかないかな。
これは2年前に結婚したもとさくら寮生のオラピンさん(左)の結婚式のときのVCD。こちらは名門チェンマイ大学を卒業後、ちゃんと卒寮してからの、祝福された結婚であった。
オラピンさんも新郎もヤオ族だが、最近は山地民の間でもタイ風と折衷の結婚式スタイルが増えてきた。
2006年05月23日 「さよならの理由」
新入生と保護者たち
新学期が始まった。
さて、前回の日記で、学期休み中に婚約して高校進学をドタキャンした寮生Nのことを書いた。もちろん彼女は新学期になっても寮に戻ってはこなかった。
新学期が始まる直前、ことの真偽を問いただすために、彼女を寮に呼んだ。
彼女は、「えーっ、私、結婚なんてしませんよ。私は寮に残って、勉強を続けますよ。誰がそんなことを言ったのです!」とシラをきっている。
「なこといっても、キミの村じゃ、もっぱらの噂だぞ」
「それはきっと私のことを悪く思っている村人がたてた根も葉もない噂です。私、とっても迷惑してるんです」
根も葉もない噂というが、現に彼女の叔母にあたる人がさくら寮にチクリの電話をかけてきたのである。叔母さんがわざわざそんな嘘を言うだろうか。
案の定、その数日後、Nの従姉妹がやってきて、寮に残っていたNの荷物を全部持ち出していった。寮に残るつもりがあるなら荷物を運び出す必要はないはずなのに。やはりNは嘘をついていたのだ。さすがに本人がくるのは気が引けたのだろう。従姉妹にこっそりと荷物をとりにこさせたのだ。
結婚して寮を去っていくことは本人の決断であり、自由なのに、なぜここまでバレバレの嘘をつく必要があるのか。学期休みをきっかけのこうして寮を去っていく子どもたちの行動には、判で押したように同じパターンが見受けられる。そのワンパターンは、思わず笑ってしまいたくなるほどだ。まずひとつめのパターンは、何の挨拶もなくそのまま消えていくという「沈黙派」である。
日本では「たつ鳥あとを濁さず」とか「終わりよければすべてよし」とかいうように、自分が属していた組織や共同体を離れるにあたっては、どういった理由であるにせよ、「お世話になりました」くらいの挨拶はして一応のけじめをつけるものだ。
しかし、こちらの子は、むしろそれが彼らの美徳でもあるかのように、挨拶もなくこっそりとフェード・アウトしていくのである。もちろんスタッフにイヤミの一つも言われるのが憂鬱だという気持ちもあるだろうし、なんらかのうしろめたさがそうさせるのであろうが、たった一言の挨拶をためらったがために、ずっと負い目を背負い、寮に遊びにくることもできないのは、つまらないのでは。と思うのは私たちの考えであり、昔をなつかしんで寮に遊びに来る気なんてさらさらないのかもしれない。「過去の時間」に対する感覚は私たちとはかなり違っている。彼らにとって大事なのは現在であり、思い出なんてものはそう大切なことではないように思える。
もうひとつは、ちゃんとした退寮の理由を言わず、くどくどと言い訳をしたり、あからさまな嘘をつくというパターンである。
Nの場合もその後村で会ったときは、さすがに彼氏がいるという事実を隠すことはしなかったが、「私はその気がないのに、親が無理やり私を結婚させようとしているのだ」だの、彼氏のほうが強引で私の進学を許さない」だのと、苦しい言いわけをしていた。要するに退寮することになったのは、あくまで私以外の人の圧力によるものであり、けっして自分の非ではないと主張しているわけである。「彼氏ができたから寮を出ます」と正直にいっちゃえばよいものを。
おそらくこの国(もしくはそれぞれの民族)の文化の中に、「正直であることの対価」というものが保証されていないのではないかと思う。日本の場合は、儒教倫理や武士道のような価値観が地下水脈のように流れており、正直であることは、物質的な報酬はないまでも、賞賛の対象となる。潔さを誉められることによって、ある種の心理的な快楽を与えられるのである。
しかし、こちらではあくまで「正直者は馬鹿をみる」である。
さくら寮では、備品や私物など様々なものが紛失したり壊れたりするが、「誰がやりましたか?」と尋ねても自分から名乗り出るものはまずいない。
交通事故があっても、両者たがいに決して自分の非を認めず、一方的に相手をなじり続けることが多い。ひき逃げも圧倒的に多い。日本語の「御免なさい」は「罰を免じてください」「ご容赦ください」という意味(タイ語では「コー・アパイ」がこれにあたる)である。それを言うことによって、罰も軽減されることがある。これに対し、タイ語の「コー・トード」という言葉は、「私に罰をお与えください」という意味である。潔く非を認めたが最後、相手から徹底的に犯罪者扱いされ、なじられ、賠償責任を追及されるのである。
だから、自分が不利な立場に追い込むようなことをわざわざ正直に言う必要はないのである」日本の子どもならば悪さをしても、正直に言えばお母さんから「正直な子ねえ」と頭をなでられるが、タイの子どもは「なんて馬鹿正直な奴なんだ、このドアホ」などとどやしつけられるのかもしれない。
といったような独断と偏見に満ちた暴論を書いていた矢先、昨日、スーパーのエスカレーターに乗っているところを、タイ人の小さな男の子が追いかけて駆け上ってきて、「おじさん、1バーツ落としましたよ」と言って私に1バーツ硬貨を手渡してくれた。タイにもまっとうな教育を子どもに授けている大人がおり、それをまっとうに実践している子どもたちもちゃんといるんだなあ、と感心し、私はその日一日中幸せな気分ですごした。大人になってもそのままでいてほしい。
学期休みが終わって寮に戻ってきた子どもたち。
2006年06月25日 「なじめなかった新入寮生」
新学期が始まり、寮生たちがさくら寮に帰ってきた。今年はさくら寮、エコホーム合わせて46名の新入寮生が新しく仲間に加わった。
しかし、毎年新入寮生の何人かはホームシックにかかり、せっかく何倍もの競争率をかいくぐって入寮試験に合格したというのに、寮になじめず村に舞い戻ってしまう子もいる。
今年も初日の保護者オリエンテーションが終わって、保護者たちが村に帰ろうとすると、数名の子どもたちが激しく泣き始めた。親と一緒に村に帰るというのだ。リス族の男の子Pは大声でわめき、地面に突っ伏して手足をバタバタさせ、お父さんや寮生数名が起こそうとしても、土まみれになりながらものすごい力で暴れて抵抗している。お父さんはかまわず去っていった。Pは地面にへたりこんだまま1時間ほど泣いていたが、しばらくすると泣き声はかぼそくなり、やがておさまった。続いてアカ族のT(7歳)が、帰ろうとする母親にすがって激しく泣きじゃくった。Tは結局その1週間後に村に帰ってしまった。
3月末の入寮選考会ではこういった事態も想定して、親離れができているかどうかも観察し、選考のポイントにしていたのだが、やはり選考会と実際に入寮するときとはわけが違う。選考会は一泊我慢すれば村に戻れるということがわかっているから、どの子もなんとか耐えていたが、今日からは何ヶ月も親とはなれて暮らさねばならないのだ。
夕方になって、今度はラフ族の村からやってきた小学生の少女Nが家に帰りたいと泣き出した。もうすでに荷物一切が入ったナップサックを背負って帰る準備をしている。「今から自分で歩いて村へ帰ることなどできないから、今夜は帰らせない」と言うと、Nは村に電話して親に迎えにこさせるという。村には携帯電話を持っている人もいるのだ。姉妹の父親は不在だったが、親戚の人が出て、お父さんは娘に帰ってこられては困るから、帰らせないでほしいと伝言してきた。
そうこうしていると、Nはちょっと目を離したすきに寮からいなくなってしまった。村までは20キロ以上あるし、もうすぐ日が暮れる。チェンライのような田舎とはいえ、小さな女の子の一人歩きは危険だ。スタッフ、在寮生が手分けして探しに行くと、彼女は寮から500メートルほど離れたところを歩いていた。みなで説得して寮に連れて帰る。
夜になって、親戚の人が父親と連絡をとってくれたらしく、雨の中、父親の代理の村人(父親は車もバイクも持っていない)が、バイクで寮にやってきた。一度村に帰らせて、父親のほうからじっくりと説得した上でもう一度寮まで送り届けるとのことだ。
しばらくスタッフで協議した。ここで帰らせないといえば、Nはますます感情を取り乱し、どんな行動に出るかわからない。鍵をかけて監禁するわけにもいかない。いずれにせよ、今の精神状態では、寮に慣れるのはかなり難しいかもしれない。
「今夜は遅いし、雨も降っているし、一晩ここに泊まって、明日の朝、帰ったら」と勧めるのもきかず、Nは村に帰っていった。
数日後、Nは父親に説得されて、寮に戻ってきた。父親も一緒にさくら寮に泊まった。
翌朝、父親が帰ろうとすると、再びNも一緒に帰るといって泣きはじめた。お父さんは「なんてききわけのないやつだ」と、泣き叫ぶNの体を青痣ができるほど何度もぶった。見かねてスタッフが割ってはいったほどだ。結局父親はあきらめ、Nをも村に連れて帰ることになった。ぶたれても殴られても、それでも家に帰りたいという、娘の一途な気持ち、そして父親の複雑な思いを考えると、ちょっとこみあげてくるものがあった。
この機会を逃せば、彼女が人生の中で勉学するチャンスはもう巡ってこないだろう。村には学校もないし、親にもほかの場所で娘を勉学させるような経済能力はない。おそらく今日の一日の行動と決断は、大袈裟にいえば、彼女のその後の人生を大きく左右する一日になるだろう。彼女自身、いつか将来、この日の決断を激しく後悔する日がやってくるに違いない。なぜあのときさくら寮に入っていなかったのだろう、と。同じように入寮のチャンスを与えられながら村に帰ってしまい、数年後に村で偶然会って、後悔の言葉をつぶやいた子を、私は何人も知っている。
しかし、Nをタイムマシーンに乗せて、未来の彼女に会いに連れていくことはできないのだ。今の彼女には、まだ自分の将来を考える余裕も能力もない。両親と一緒に生活していたい。ただそれだけなのだろう。残念だけれども、いたしかたない。私たちとしてもこれ以上、寮にとどまるよう強制したりすることはできない。あと数週間、我慢していれば、きっとこの寮生活も楽しいことがわかるのに……。
写真1~4:5月末に行われた新入寮生歓迎会。寮の近くの空き地で、泥の中を歩かされたり、闇鍋を食べさせられたり、先輩たちの愛情あふれるシゴキを受ける。これが終わる頃にはみな、すっかり寮にも先輩たちにも慣れ親しむのだが……。
2006年07月20日 「ジョイさん逝く」
生前のジョイさん
さくらプロジェクトの中心スタッフだった、ジョイさんことヌッチャナート・ロンジャイカムさんが、7月9日午前0時、慢性腎不全のため亡くなった。34歳の若さだった。
通夜はジョイさんが自分のすべてといっていたさくら寮で行われ、告別式はチェンライ市内のカトリック教会でしめやかに行われた。ジョイさんはミャンマーの生まれで、タイ・ルー族。シャン州のムアンヨンに住んでいた頃からカトリックの信者だった。
ジョイさんというさくらプロジェクトの大黒柱を失って、私たちは今、言葉を失っている。あまりにも大きな存在だった。そしてあまりにも突然な別れだった。
ジョイさんは2004年4月に、慢性腎不全の末期と診断され、5月よりCAPD(Continuous
ambulatory peritoneal dialysis持続性自己管理腹膜透析)という方法により治療を続けていた。これは一般の血液透析と異なり、ブドウ糖、電解室、乳酸が含まれた透析液を、腹部に装着、留置したカテーテルを通して腹膜に出し入れすることによって体内の老廃物を除去する方法で、一日3度、それぞれ30分程度をかけて自宅で透析パックを交換するため、月一度程度の通院ですむため、多忙でしかもあまり病院が好きでないジョイさんにとってはうってつけの方法だった。
この2年間、CAPDは医師も誉めるほど順調にいっていた。
しかし、今年に入って、CAPDの効果にかげりがでてきた。感染症による腹膜炎を起こしてしまったのだ。これは腹膜透析という治療法につきまとう最大のリスクというわれている。透析パックを交換するときカテーテルなどのわずかな隙から細菌が混入し、炎症を起こしてしまうのだ。
6月29日に部屋で貧血を起こして倒れ、入院した。7月1日からは一度腹膜内を空にするべく、CAPDを中止した。腹膜炎が完治するまで腹膜透析をしないという方針だ。といっても、何日も透析を行わなければ生命に危険をおよぼす。医師は血液透析を決断した。
7月4日、ジョイさんはオーバーブルック病院ではじめての血液透析を行った。
6日になって、病状が悪化した。前日夜から口内に異常を感じ、朝になると舌がズタズタに爛れて出血していた。免疫力低下による感染症だった。血液透析に耐えられる体力がもう残っていなかったのだ。その後、8日に2度目の血液透析を行ったが、透析途中で容態が急激に悪化。そのまま意識は戻らず、帰らぬ人となった。
ジョイさんは1993年春からさくら寮の食事係としてはじめてさくらプロジェクトにやってきた。当時21歳。まだあどけなさが残る顔立ちだったが、すでに旦那さんがいると知って一部男性スタッフ、ボランティアから落胆の声がもれた。
1年あまり後にジョイさんは離婚した。その後、数多くの男性(その中には日本人も何人か含まれていた)からプロポーズされ、一時は婚約、退職の決断寸前までいったこともあったが、最後には、さくらプロジェクトや私を捨ててお嫁にはいけない、といってさくらにとどまってくれた。
13年間、彼女はさくらプロジェクトのために、文字通り骨身も惜しまず働いてくれた。1年365日、ほとんど休むことがなかった。たまに実家に帰るときは、申し訳なそうに私に許しを請いにきた。日曜日でも午前中教会に出かける以外は友人と遊びに出かけることもなく、子ども達の面倒を見た。朝4時に起きて市場に行き、朝、昼、晩と130人からの子ども達の食事を作り、さらに私たちスタッフの食事も作ってくれた。1998年前任の女性スタッフが結婚を機に退職してからは、さくらプロジェクトの現地代表としてさらに忙しくなった。
子ども達の食事の世話はもちろんのこと、子ども達の生活指導から経理、学校の保護者会や会合への出席、私の滞在ビザ取得の手続きにいたるまで、一人何役者もの仕事をこなしてくれた。朝5時から夜9時まで、ほとんど休むことなく働きづめだったのではないかと思う。13年間だったが、普通の人の30年分は働いたのではないかと思う。「少し手を抜いて、他のスタッフに徐々に仕事をまかせていったら」と勧めても、納得できる仕事をしようと、自分が可能なことはすべて自分でこなしていた。
最後の最後まで、ジョイさんはさくらの子ども達やさくらプロジェクトの行く末について心配してくれた。学期休み中、子ども達が村に帰っているときのジョイさんはひどく寂しそうで、もうすぐ新学期が始まるというとき、とてもうきうきして楽しそうだった。子ども達をホテルのビュッフェや、外部のイベントなどに連れていったとき、外部の人に「みな、私の子どもたちなんです」と紹介するときのジョイさんはとても誇らしげだった。
また、さくらに就職当時、小学校しか出ていなかった(その後定時制高校を卒業)自分をここまで重用して、責任ある仕事をまかせてくれているということで、私には最後まで最大限の尊敬を払ってくれた。私の健康のことを人一倍心配してくれたのもジョイさんだった。
ジョイさん自身もさくらプロジェクトに出会ったのは彼女の人生にとって大きな転機であり、最後には人生のすべてといってもいいほど大きな存在だったに違いないが、タイに住むようになってからの私の人生もまたジョイさんに大きく支えられてきた。彼女に助けられなかったら、私はとうの昔に、さくらプロジェクトから逃げ出していたに違いない。
今は13年間さくらプロジェクトを支えてきてくれたジョイさんに心からお礼を言うとともに、ご冥福を祈る。
写真1、2、3、4:さくら寮で行われた 通夜の様子
写真5:カトリックの教会で行われた葬儀と出棺
写真6:埋葬。
2006年08月25日 「最終回の話」
今回は最終回の話である。
さくら寮では、週のうちに金曜日と土曜日のみテレビを見せている。テレビの見すぎは人間を確実にバカにするから、このぐらいがちょうどよいのである。
タイの人気連続テレビドラマは、たとえば金曜、土曜、日曜と1週間に3夜連続で放映されることが多い。その場合は最終回が日曜日にあたる。が、さくら寮では日曜日は寮の規則により、終日テレビ禁止である。すると、寮生たちは「今週の日曜日は○○の最終回だから、今週だけ特別に見せてほしい」と手を合わせて拝みこむように直訴してくる。ふだんあまり熱心に見ていないドラマでも、最終回だけはなんとしても見たいというのだ。
「だけど連続ドラマなんて、毎回続けて見て面白いもんなのに、突然最終回だけ見てどーすんだよ」と茶々を入れると、子ども達は「ストーリーは新聞のテレビ欄で読んで知ってるから(どのみちそんなに複雑なストーリーでもないのだが)最後がどんな結末を迎えるか知りたいんです」という。(ならば最後結末も新聞であらすじだけ読んだらいいじゃないかってもんだが)。
ところで、さくら寮では、テレビドラマのかわりに映画を見せることもある。先日、レンタルビデオ屋でチャン・イーモウ監督の『至福の時』という中国映画のVCDを借りてきて見せた。仕事も金も女もないしがない中年男が、ひょんなことから盲目の少女の世話をするはめになり、真心に満ちた友人たちに助けられながら、その虐げられた人生を歩んできた少女を救っていくというなかなか心温まるお話である。
上映が終わってから、寮生たちは開口一番、「これでこの映画は本当に終わったのか。ディスク3(VCDの映画の多くは録画時間の関係上、通常2枚のディスクに分かれており、長いものはまれに3枚組のものもある)があるのではないか」と訝しげに私に尋ねた。映画は、ある日、ヒロインの少女が、献身的に世話をしてくれたやさしい中年のおじさんたちのもとを去り、あてのない旅に出かけるところで終わる。別に普通じゃないか。が、その終わり方が寮の子どもたちにはなぜか中途半端で、納得がいかないらしい。
この映画に限らず、私がレンタルショップで苦労して探して借りてくる名画を見せると、寮生たちはその終わり方が唐突だったり、不条理だったり、意味不明といった印象をうけるようである。
しかし私にいわせれば、そもそも含蓄のある映画のエンディングというものは、みる者の意表をつくような唐突なものが多いのだ。このあとの展開は各自想像してくださいという視聴者に考えさせる「余地」を残している映画、それがよい映画というものだ。そしてよい映画をみ終わった直後、私たちはしばし席を立つことができない。クレジット・タイトルを眺めながら、金縛りにあったように客席に座ったまま感動に浸ったり、作品の意味を考えたりする。
しかし寮生たちは違う。クレジット・タイトルの最初の一行目がスクロールし始めた瞬間、ブッとおならをして席を立ち、BGMさえにも浸らずに、トイレに行ったり、歯磨きをしたりしてとっとと眠りにつく。そして翌日には昨夜の映画のことなどすっかり忘れているのだ。そしておそらく永遠に思い出すこともない。
私は子ども達のその様子を見ていて膝を打った。寮生たちがドラマの最終回が好きなわけが判ったのである。
タイのドラマではたいてい、最終回ですべてがハッピーエンドに終わる。すれ違っていた恋人同士の誤解は解け、親子の憎しみは水に流れ、ヒロインをいじめていた意地悪ババアは悔い改め、すべての問題は氷解してハッピーエンドの大団円のもとに終結するのである。つまりそのあとのことを何ももう心配したりする必要がなく、安心して眠りにつけるような、めでたし、めでたしの状態でドラマは終わるのである。これは言葉を変えていえば、想像力の余地を残さない終わり方なのである。これじゃあ、これじゃあ、子ども達のイマジネーションの力は養われないわな。
で、生徒ミーティングのとき、私は子ども達に話した。
「私たちの人生はタイのドラマのようにハッピーエンドで終わるわけじゃないだろう。ドラマはそれで終わるかもしれないけれど、僕たち一人一人の人生のドラマは、ドラマと違ってこれからもだらだらと続くんだ。本当に終わるときは死ぬときだけだ。今日幸せな人も明日は不幸のどん底に落ちるかもしれないし、今日つきに見放されていた人も明日には幸運が訪れるかもしれない。キミたちがドラマを見るときも、最終回のその続きのヒロインたちの人生を想像してみるように!」
そうは言っても、子ども達は今日もハッピーなドラマの最終回を待ち焦がれつづけているのである。
8月に行われた寮内スポーツ大会の様子。これは日本人の方から指導を受けた「オムニキン」というゲーム。
寮内スポーツ大会の様子
2006年09月19日 「早熟な子どもたち」
子ども達の創作ダンス
例年のことながら、8月はさくら寮への来客が多かった。
このところ毎年この時期にいらっしゃっているのがS女子大学のM先生の一行。教育学の専門で、毎回自分の大学の学生さん数名を率いてタイへのスタディ・ツアーを行い、その一環としてさく寮の子ども達と交流している。
今年は女子大生にまじって、M先生の友人で、東京都内の小学校で校長先生をやっていらっしゃるAさんも同行された。さくらホールで恒例の歓迎会では、Aさんはギターの弾き語りでなつかしの60年代、70年代のフォークソングを披露し、そのあとさくら寮生が歌や踊りの芸を披露した。
さくら寮の出し物は主に二つのジャンルに分かれていて、一つは民族ごとの芸能(祭りのときの歌や踊り)、そしてもうひとつはタイポップスやディスコ・ミュージックに合わせた創作ダンスである。要するに既定演技と自由演技の二種目である。自由演技のダンスはは子ども達の自主的な選曲と振り付けで、好きなファッションでやらせている。ステージ衣装は、ゴミ袋を切り裂いて体に貼り付けただけのものとか、布切れ一枚を胸に巻いたものだけとか、限られた予算の中で、いろいろ工夫を凝らしている。
子どもたちの演技を見終わって、校長先生がふっと正直な感想をもらした。
「みんなとてもリズム感があってうまいけれど、日本の小学生とは全然違いますなあ。みんな踊りにしてもファッションにしても、あまり子どもらしくないというか、セクシーなというか、ずいぶん大人っぽいですね。日本の子どもより、ませてるのかな」
これまでずっと子ども達の自主性に任せて出し物をやらせていたし、日本の教育現場と比較するような発想がなかったので、考えてもみなかったが、指摘されてはじめて、そういわれればそうだ、子ども達のファッションは年のわりにエッチというか、露出度が高い、と頷かざるをえないものがあった。確かに、自分の小学生の頃の学芸会を思い起こせば、劇といえば「桃太郎」「浦島太郎」「傘地蔵」に「鶴の恩返し」だった。恋愛劇なんてものではなく、創作ダンスは「お星様キラキラ」だった。
それがさくら寮の子どもは10歳、11歳の子であっても、ミニスカートにタンクトップを着て、なにやら怪しげに腰をくねらせて踊っている。創作演劇も、嫉妬あり、略奪愛あり、不倫ありの大人顔まけの恋愛ドラマである。それらはみな大人の真似なのである。
なぜなのかを考えてみた。やはり、テレビ、ラジオ、カラオケVCDなど子どもの頃から放射線のように浴びまくるメディア情報攻撃ではないかと思った。
前回も書いたように、寮の子ども達には毎週金曜の夜と土曜日の午後、夜の3回テレビを見せている。20歳の子も10歳の子も同じ番組を見ている。テレビは男子寮に、女子寮に一台ずつあるが、同じ女子同士なら、チャンネル争いもない。そもそも金曜、土曜のゴールデンタイムはどのチャンネルも金太郎飴のように似た内容で、まあ、言ってしまえばしょうもない安っぽい恋愛ドラマ、メロドラマばかりなのである。つまり、子どもから大人まで、テレビドラマから受け取る情報の水位がほとんど同じなのである。恋愛以外の知的好奇心を喚起するような番組はほとんどない。(あってもおそらく誰も見ていない)
これでは小さい頃から話題といえば愛だの恋だのことしか思い浮かばなくなるのも無理はないし、ほかに何の楽しみもないから、ついつい関心はそちらのほうへ集中し、13、4歳で結婚してしまうのもわかる気がする。
とりわけ山岳民族の少女達は結婚年齢が若い。この間までゴム跳びをやっていた女の子が、いきなり結婚していたなんてこともしばしばある。
私たち日本人の世代区分のイメージでは、「ゴムとび」と「結婚」の間には、中間的ななにかがあるような気がする。乙女時代とか、青春時代とか、花嫁修業とか、モラトリアムとか呼ばれる数年間である。が、こちらでは、ゴムとびから結婚へ一直線なのだ。
今の日本の少女たちは、ファッション雑誌を眺め、丸文字を書き、アイドル歌手に憧れたり、メールやケータイで遊んだり、部活やサークル活動にいそしんだり、それからいくつかの恋愛を遍歴したりしながら、子供でもない、大人でもない、モラトリアムの「少女期」としての高校時代、もしくは大学生時代などを経て社会人になり、それからおずおずと結婚する。また、結婚しない人もいる。
一方、山岳民族の子ども達は、「ゴムとび」からいきなり「結婚」だったりする。モラトリアムとしての「少女期」は割愛して、一気にストンと一人前の「大人」に移行するのである。それはまた遊び(ゴムとび)から労働への一気の飛躍でもある。
社会学者の大塚英志が、『少女民俗学』という著書の中で、少女漫画や変体少女文字、かわいいものグッズなど、「少女文化」というのは、生産を排除し、消費の役割のみを担った若者を対象にした商品群として、都市型の高度消費社会が必然的に自己形成した文化であるというような分析をしていた。 つまり消費の担い手としての「少女文化」は、消費経済が十分に成熟していない社会においては不要なのである。
一昔前まではタイの少女たちにはこの少女文化に該当するものがなかったのではないかと思う。しかし最近はタイも都市社会が成熟し、高学歴の女性も増えてきた。高校や大学あたりでも、日本のアニメや少女漫画を愛好し、キティちゃんのノートやファイルを持ち歩いている女子学生も見かけるようにはなった。
山岳民族の社会でも多かれ少なかれ晩婚化の時代がやってくるのかもしれない。
雨期、集中豪雨のあとは寮の前の道路が水浸しになる。
2006年11月24日 「庭づくり」
さくらプロジェクトの中心的スタッフだったジョイさんが病気のため7月9日に亡くなったことは以前に書いた。
山岳民族の子供たちのために死の直前まで献身的に働いてくれた彼女に感謝の気持ちをこめて、彼女のお母さんやお兄さんに、ささやかではあるが功労金のようなものを受け取ってもらおうと考えていた。しかしご家族は、「これまで2年間の莫大な治療費を全額さくらの支援者のかたがたから寄付していただいたこと、葬儀費用もほとんどすべてさくらで負担していただいたというだけで十分感謝しているので、これ以上お金を受け取るわけにはいかない」と固辞された。その分、さくらのほうで何かに役立ててほしいとのことである。
ではこのお金をどう使わせていただこうかと考えたとき、ごく自然に思いついたのが、教育センターの前のわずかな空地に庭を作ることだった。
さくら寮は、土地が狭いため、コンクリートの建物だけが密集しており、あくまで機能的に活用する空間がほとんどで、緑の木陰に囲まれてのんびりと読書したり、リラックスできるような場所がなかった。子供たちの憩いの場でもあり、またさくら寮をこよなく愛していたジョイさんを偲ぶ思い出の場所を作れないものか。
教育センターの前には140坪ほどの土地がある。このうちの約3分の一の50坪ほどのスペースを使って、バリ風庭園を作ることになった。名づけて「ジョイ・メモリアル・ガーデン」プロジェクトである。
さっそく市内の造園業者にコンセプトを説明し、見積もりを出してもらったら、なんと植物代込みで150万円~200万円かかるという。そりゃ無理だわー。私たちの予算はせいぜい30万円程度である。となればもう、自力で作るしかない。
生まれてこのかた庭なんてものを作ったことがない私とスタッフのカンポンが、無謀にもにわか造園師となった。造園のハウツー本を本屋さんで買ってきて、ない知恵を絞りあいながら図面をひき、あちこちの石材店で聞きまわってできる限り安い資材を購入し、スタッフの親戚にあたるカレン族の大工さん二人を、親戚価格(?)の労賃でお願いして、基礎工事が始まった。労働者は、運転手のノイと寮に残っていた男子寮生数名である。照明の設置や電気配線工事も専門学校の電気かに通う寮生がやってくれることになった。
サラー搬入
バリ風庭園には椰子類、蘇鉄類のほか羊歯類などいわゆる熱帯ジャングル風の観葉植物を多用し、大きなもの、希少なものはタイの園芸店でも値が張る。そこで考えついたのは、10月の学期休み中、子供たちに村の近くの森や山で庭に植えられそうな適当な草木を探してもらい、学期休み明けに、寮にひとりそれぞれ一株ずつ持参させるという計画だった。これだけで約140本の草木が庭に植えられることになる。しかもそこには140人の思いが植わるということでもある! 我ながら名案だ。
が、ことはそう思惑どおりには進まないものである。
寮生たちに、村から観葉植物を一株もって帰らせるという宿題は、なかば予想していたとおりの惨憺たる成果に終わった。鬱蒼としたジャングルをイメージする椰子系、羊歯系の巨葉、珍葉の植物をとあれほど力説したにもかかわらず、子供たちは「バリ風庭園」のコンセプトをまったく理解できておらず、もってきたのは、放置しておけばとんでもない高木になりそうな樹木の苗ばかり。これを全部この狭い庭に植えた日には、10年後にはさくら寮の庭はただの雑木林になってしまう。
雑木林ならまだ上等で、子供たちのなかには、山へ入るのが面倒だったのか、途中の道端で引っこ抜いてきたとしか思えないような雑草を持参する、杜撰極まりない子供もいた。結局使えそうなのは全体の3割程度。あとの草木は、寮内のこの庭以外の場所に植えることになった。
かろうじて合格となった植物も、どれもまだ小さな苗なので、即戦力というわけには行かず、結局、とりあえず格好をつけるために、寮内のほかの場所に生えていた樹木を移植したり、園芸店で比較的安価なウチワヤシ、ビンロウジュ、棕櫚竹、アレカヤシ、ヒメショウジョウヤシなどといった植物を購入してきてメリハリをつける。とりあえずの構造というか、骨格はできあがった。
植えた植物がどれぐらいの割合で根付いて成長してくれるかが問題だ。半分ぐらいは枯れてくるかもしれないし、全体像が見えてくるまでにはやはり1年ぐらいかかるだろうか。 私としては、一日も早く隠居して、この庭でお茶でもすすりながらまったりできる日がくればよいのだが。
とりあえず一区切りのついたジョイ・メモリアル・ガーデン。二つの木造サラー(休憩所)が一番お金がかかっており、これだけで全体の予算の半分近くを占めている。
写真:寮内クラトン・コンテストで優勝した寮生たちとその作品。
2006年12月15日 「保護者会」
保護者会でのアカの子どもたちのステージ
先日、さくら寮にて、寮生たちの毎年恒例の保護者会と親睦会が行われた。出席率はかなりよくて、140名、約95%の保護者が?山の村からはるばる寮まできてくれた。寮生活における子供たちの諸問題について、スタッフが話をする。
最近の寮内での最大の問題と言えば、学年途中で勉学をやめて退学、退寮してしまう寮生が年々増加していることである。原因、理由はさまざまだが、年長の寮生の場合、圧倒的に多いのはボーイフレンド、ガールフレンドができて、門限破り、無断外出・外泊などをするようになり、やがて不純異性交遊に進展したり、妊娠が発覚したりして、退寮処分にせざるをえなくなるといったケースだ。小学5年生の女子だって一人前にボーイフレンドがいることを吹聴するのがタイである(テレビドラマの見すぎ)。しかも相手は同級生なんてかわいらしいもんでなくて、大学生だったり社会人だったりする。
保護者会の様子
15年前にさくら寮を始めた頃、寄宿舎はタイ社会とも地域とも、ある意味で隔絶されていた。寮の外はコン・ムアン(平地タイ族)の社会だったし、山岳民族出身の寮生は、自分たちの村から一度も出たことがないような子どもたちばかりだったから、寮を一歩出れば誰一人として友達も親戚も知り合いもはいないし、村からも本人の保護者以外は訪ねてくる人はなかった。子供たちは寮と学校、または村と寮を往復する以外に行くべき場所がなかったし、関わるべき人もいなかった。保護者が子供にあげる小遣いもわずかなもので、寮生たちも遊ぶお金も町へ出る交通費もなく、町へ遊びに行くことなど考えもしなかったのである。非行の余地すらなかった(せいぜい村に帰ったときの恋愛問題があるぐらいだった)。誰も携帯電話などもっていない時代だったし、電話で連絡するような相手もいなかった。素朴で素直な子供たちを指導するのは困難なことではなかった。
しかし時代は流れ、タイの地域経済も成長をとげ、今では山岳民族の人々にもそこそこ経済的な余裕が出てきた。子供に少なからぬ小遣いも渡せるようになった。こっそりと携帯電話などを買い、外部と連絡をとる子供も出てきた。高校にあがり、町の学校に通うようになれば、町にすむタイ人の知人、友人も増え、考え方や価値観、ファッション、物質文明の影響も大きく受けるようになる。友達がデジカメやヘッドホン音楽プレーヤーをもっていれば自分もほしいと思う。
保護者面談にのぞむ親子
寮周辺の環境も激変した。山岳民族にも教育の必要性が叫ばれるようになって、さくら寮のような管理の比較的厳しい寄宿舎ばかりでなく、自己資金により学校近くの民家や民営のアパートなどに寄宿生活をはじめる生徒も現れた。NGOの支援を受けられないアパート暮らしはお金がかかるが、一方で寮生活にはない自由がある。山の村からチェンライの町へ出稼ぎに降りてきて、借家生活をする若者も増えた。さくら寮のあるナムラット村にも、そうした寄宿学生、労働目的の借家生活者が急増した。多くは未婚の若者である。そういった若者たち(特に男性)が、寮の女性徒を口説きにしばしば訪れるようになった。女子寮の門の前が男の子たちのバイクだらけになる日もある。寮生のほうも、彼らと交際するために夜中に無断で寮を抜け出したり、自由な生活に憧れてさくら寮をやめ、アパートに移ってしまうというケースも出てきた。逆に言えば、そうして自立して自助生活ができるほどに親の経済力があがったということの証なのであろうから、それはそれで支援する必要もなくなったと思えばいいことだが、なかには、アパート暮らしをしたいために、夜の怪しいアルバイトに精を出したり、お金持ちのお妾さん状態になって学費を貢がせている女子学生も多いと聞くので、心配になる。
そんなわけで、今の時代に、昔ながらの厳格な寮則で管理する寄宿舎の運営はとても困難なものになりつつある。
さて、固い話になってしまったが、保護者会ではふだん子供たちの寮生活を見る機会のない保護者たちのために、ちょっとした学芸会のようなものも行われ、子どもたちがふだんから練習している演芸を披露した。例によって民族ごとの踊りとモダンなディスコダンスやチアリーダー風の二本立てである。
ところが、いつも超ミニスカート姿で元気に腰を振りまくっている小学校6年生のSちゃんが、本番を前にしていつになく緊張している。どうしたんだいと聞くと、「あたし、寮生や友達の前で踊るよりも、お父さんの前で踊るほうが恥ずかしくて、緊張するんです」と言う。ああ、そういうものなのかもしれないと思った。
クリスマス会での余興
話は違うが、以前、リスの女の子たちに、「友達の前でうっかりオナラしてしまうのと、親の前でオナラしてしまうのとでは、どちらが恥ずかしい?」と質問したとき、彼女たちは「そりゃ親の前のほうが恥ずかしいわ」と言っていたのを思い出した。
多くの日本人は逆なのではないだろうか。私が育った家庭なんか、父親は朝の食事時からして爆音をたてて屁をこきまくり、家族の皆から「屁りコプター」とあだ名されていた。息子たちも負けじと尻を突き出して父親に応戦したものだが。(ひょっとして我が家だけだったのか?)
写真:2006年12月にも寮内クリスマス会が盛大に行われた。ふだんおとなしい寮生たちも、この夜ばかりは人が変わったようにはじけまくった。