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リス族の子供達

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さくら寮日記 2009年

子供たち

2009年01月28日   「入寮試験」


来訪したお客様と写真を撮る寮生たち
来訪したお客様と写真を撮る寮生たち。

はやいものでタイの学校の学期もあと1ヶ月ちょっとで終了だ。そして来年度の新入寮生が応募にやってくる季節である。

昨年秋からの国際金融危機と景気の後退で、さくらプロジェクトも運営予算はあまりなく、来年度はあまり多くの新規入寮生を受け入れることはできそうにないが、そんなこちらの事情はおかまいなしにというか、いやタイだって景気が悪いからこそというべきか、今年も連日入寮志願者が応募にやってきている。

入寮選考会では特技の披露もある。
入寮選考会では特技の披露もある。

さくらプロジェクトの場合、入寮希望者にはまず 所定の応募フォームに必要項目を記入させ、写真や前の学校の成績証明書、戸籍の写しなど必要書類を添付して提出してもらう。書類の受理と同時に、その場で担当スタッフの簡単な面接によるスクリーニングが行われる。さくら寮の応募資格は、村や歩いて通える範囲内に十分な教育施設がないこと、そして貧困であるということなので、親が自力で子どもを学校に行かせられる財力ありと判断された場合は、3月に行われる選抜試験には進めない。応募用紙の収入欄は自己申告制だが、自家用車で乗りつけてくる見るからに裕福そうな保護者などは一目瞭然である。子どものほうも、親に無理やり連れられてきたものの、入る前から学校なんていきたくないと泣きわめく男子、入寮と同時に髪の毛を茶色に染めそうな不良娘風などさまざまで、この面接審査と書類選考により半数以上の応募者はカットされる。

先日やってきた応募者は、チェンセーン郡に住む3人のモン族の女生徒。仮にA、B、Cとしておこう。Aは中3で、BとCの二人が中1。同じ村の友達同士かと思ったら、全員姉妹だという。ってことは年齢の同じふたりの中1生は双子? でもあんまり顔似ていないぞ。二卵性か。とりあえず3人まとめてインタビューを開始した。中1のBとCに聞く。

「えーと、君たち本当に姉妹なの?」

「はい。姉妹です。ただ、お父さんは同じですけど、お母さんは別々です」。

「ん? お父さん、再婚されたの?」

「いえ、今もふたりのお母さんが父と一緒に暮らしています」

ああ、やっとガッテン。奥さん二人いるわけね。モン族にはよくある話。一人がミヤルアン(本妻)の子で一人がミヤノイ(第二夫人)の子。でも、このふたり、誕生日も3日しか違ってないって、おいおい、オヤジ、がんばりすぎだー。(うらやましい)
応募書類に家族全員の名前や年齢を記入する欄がある。そこを見てさらに驚きの事実が。

父、母。祖母に始まって本妻の子ども8人、ミヤノイの子ども7人。長男の妻とその子どもたちも合わせると総勢25人の大家族である。上は25歳から下は10歳まで、ほぼ1年に一人のペースで子どもを生産しているではないか。

ちなみにさくらの応募書類には家族の構成員を書く欄は15人分しかないので書ききれず2枚の応募用紙をつなぎあわせてある。
モン族はもともと大家族制で、同じ屋根の下に数世帯、20人~30人が一緒に生活することもけっして珍しくない。50人を超える家族の例もある。労働力を分散させず、共同作業で畑仕事を行うので効率よく富を蓄積、分配できるというわけである。合掌造りでおなじみの飛騨の白川郷のようなものか。

今も学校に通っている兄弟姉妹は10人いて、村から約8キロ離れた学校にお父さんが自家用ピックアップトラックの荷台に乗せて子どもたちを送迎しているという。

「ん? なら無問題じゃん。トラックがあるなら5人だろうが10人だろうが、かかるガソリン代に違いはないし。家から学校に通えるなら、なんでわざわざ寮生活する必要があるわけ?」

「子どもがいっぱいいるから、生活が苦しいんです。学費だって食費だって大変で。だから支援を受けたいんです」

ま、貧乏人の子だくさんというのはわかるけど、奥さん二人もあって、ピックアップトラックももってりゃ、かなり甲斐性がある部類だろうが。長男ももうすでに成人してちゃんと仕事してるというし。子どもが多いと食費も教育費もかさんで大変なのは想像に難くないが、排卵誘発剤によって期せずして6つ子ちゃんを生んでしまったお母さんというのならともかく、奥さん二人フル稼働させて15人の子どもって、これ、ある程度計画的なんじゃないっすか? こういった家庭を貧困層として支援するのはいかがなものか、などとまだ一人の妻さえ娶っていない私が言うと僻みに聞こえるであろうか? ならば、低所得のため子どもどころか結婚もできないとあきらめている日本全国の派遣労働者のみなさんの立場は…。

応募してきたのはとても礼儀ただしく、しっかりして利発そうな少女たちだった。支援してあげたいのはやまやまだが、妻二人というのがやっぱ、ムカつくっていうかあ…(私もしつこいなあ) 。

入寮選考会。筆記試験の様子。
入寮選考会。筆記試験の様子。


2009年02月24日   「ある夜の訪問者」


さくら寮クリスマス会の一幕。新聞紙のファッションショー。
さくら寮クリスマス会の一幕。新聞紙のファッションショー。

 タイでも高齢者問題というのは今後深刻な問題になるだろう。

 ある日の夕方、カンポンから電話が入った。

「隆兄さん、ラフ族のおばあさんが突然寮の事務所にやってきて、今晩一晩泊めてほしいって言ってますけど、どうしますか? 町の病院にいってきた帰りなんだけど、もう山に帰る車もなくて泊まる場所もないんで、なんとか一泊だけでもと。隆兄さんのことも知っているっていうし」という。 「ま、とりあえずこっちに連れてきなさい」。

 さくら寮は町に近いため、生徒の父兄や山岳民族の私の知人が、山から降りてきて車の都合で村に帰れなくなったときなどにときどき簡易宿泊所として利用する。私も山の村で泊めていただいて一宿一飯の恩義を受けているし、足がなくて町中にも身寄りのいない人をむげに拒むわけにはいかない。もちろん寮の関係者や身元がちゃんとしていて信頼できそうな人に限ってである。近頃は麻薬の密売人なども多く、やばい人をうっかり泊めて警察沙汰になったりすれば、大変やっかいなことになる。

 おばあちゃんは私の知らない人物だった。向こうは私のことを知っているという。まあ、そういうこともあるだろう。ここ20年でタイ北部数百か所の山岳民族の村を泊まり歩いたとはいっても、目がいくのはたいてい若くてピチピチした娘さんばかりだから、それ以外の人に町で偶然出くわして挨拶されても、よく覚えていない、もしくは見覚えはあってもどこの村の人かすぐに思い出せないということはしょっちゅうだ。

 しかしこのおばちゃんに関しては記憶がみじんもない。ばあちゃんはカンポンに「この先生(私のこと)のことはよく知っているし、50バーツもらったこともある」という。お世話になった家の人は別にして、ただの顔見知り程度のおばあちゃんにお金をあげた記憶はない。いや、ボケたのは私のほうか。

カンポンが私をからかう。「もしかしたらこのおばあちゃんの娘さんかお孫さんにすごい美少女がいて、隆兄さん、その子にお小遣いをあげたらこのおばあちゃんが横取りしたんじゃないですか」 まさかねえ。だったら50バーツなんて額じゃなくて、もうちょっと出したはず…、いやいや。

でも、いったいどこの村の人だろう。おばあちゃんはタイ語がまったくできず、しかもかなり耳が遠いので、ラフ語さえあまり通じない。話していてもまったく要領を得ないので、ラフ族の寮生たちを呼んできて、このばあちゃんを知らないかと尋ねた。するとJ村のNやAほか数名の女子が「このおばあちゃんなら見たことがある」という。「じゃあ、君のJ村の人なのか」と聞くと、「いや数日、村に泊まっていっただけだ」という。 ばあちゃんの目撃情報(?)はR村のJ、M村のNからも寄せられた。

さくら寮クリスマス会。カラオケ大会。
さくら寮クリスマス会。カラオケ大会。

身寄りがなくて村から村を泊まり歩いているホームレスばあちゃんなのか。

「お金なら少しもってるんで、払うから泊めてくだせえ」

ばあちゃんは財布からしわくちゃの20バーツ札を数枚出して私に差し出した。

「いやいや、ばあちゃん、お金なんて払わなくていいけど」

 それにしても、あまり親切にしすぎてどこのどんな人かもわからないまま泊めてしまって、寮にそのままいつかれちゃったら、それもちょっと困るなあ。ここは老人保護施設ではないし。病院へいってきたというのも作り話かもしれない。
 ラフ族の寮生の通訳で身の上話を聞くと、旦那とはすでに死別し、成人した娘が二人いるのだけれど、バンコクに出稼ぎに行ったまま何年も帰ってきていないという。

 翌日寮に一泊して朝食を食べ終わり、一服したばあちゃんは、無言で一枚の紙切れを私たちに差し出した。そこにはタイ語で次のようなメモ書きがあった。

「このおばあちゃんを見つけたかたへ。このばあちゃんは耳が不自由で迷子なので、この電話番号に電話してください」

 書かれていたその番号に電話をかけると、電話に出たのは中年らしき女性だった。

「ああ、またその件ですかあ。じゃあ、お手数おかけしますが、今回だけはこっちに送ってきてください。で、申しわけないですけど、 その電話番号が書いた紙切れね、破ってゴミ箱に棄ててくれません? しょっちゅうこんな電話がかかってきて、困ってるんですよ」

 電話口の女性はそう面倒くさそうに言った。

「はあ。ところであなたと、このおばあちゃんのご関係は…」

「え、ちょっとそれは言えないんですけどね。とにかくそのメッセージは私が書いたんじゃないんでね。迷惑してるんですよ」

きっとばあちゃんは、親戚じゅうをたらいまわしにされているのだろう。

女性に送ってきてほしいと指定された村はさくら寮から約20キロ離れたところにあり、スタッフがバイクで無事送り届けた。しかし、おばあちゃんの居場所はそこにはないのだろう、と私は思った。

案の定、数日後、杖をついたばあちゃんが寮の近くを足早に歩いているのを見かけた。ものすごいスピードだった。いったいどこへ向かっていたのだろう。

ちょっと時季外れですが、さくら寮クリスマス会のひとこま。みなでピザとケーキをいただく
ちょっと時季外れですが、さくら寮クリスマス会のひとこま。みなでピザとケーキをいただく。


2009年03月28日   「自立への苦闘」


さくらで育てたひまわり畑。
さくらで育てたひまわり畑。

 金融危機以後の長引く景気の低迷。先の見えない時代にあって、私たちNGO組織の未来はけっして安泰ではない。これからは無償の支援に頼るだけのでなく、自助努力の道を模索していかなくてはならない。

 というわけで、さくらプロジェクトでも子どもたち自身の手でできる自立への方策をいろいろ考えはじめた。そのひとつが、それぞれの民族伝統の刺繍やパッチワークの技術を生かした民芸品(ちょっとした財布や小物入れ)の製作と販売なのだが、日本のNGO関係のバザールや支援者のかた対象の会合などではとても評判がよく、確実に売れる。しかし、それは自分が支援している里子が作ったという思い入れとこれを買ってあげればその子のお小遣になるという、顔の見える関係で成立する付加価値商品のようなもので(これはこれで意味のあることだが)、一個の商品としてシビアにみた場合、まだまだ技術は未熟だし、糸のほつれや布の汚れなどもあり、価格的にも一般市場で競争力をもてるような代物ではない。

 なにかもっと骨太で持続可能な、まあ早く言えば、手堅いお金儲けの手段はないかと思案していたところ、2年前、山岳民族の調査の関係で知り合った大阪のK女子大の栄養学のH先生(女性)が、「タイの高地では梅がとれると聞いてます。この梅を加工して梅肉エキスっていうのを子どもたちで作ってもらって、日本で売ってみたらどうでっしゃろ」とアドバイスしてくださった。

梅肉エキスというのは、生の青梅をスライスし、ジューサーなどで液状にしたものを鍋で弱火で数時間かけて煮詰めたあとに残った、こげ茶色の、舐めると超すっぱいドロドロの液体である。梅干や梅酢以上に強力な殺菌作用があり、内服すれば食あたりや下痢、便秘、のどの痛みに有効で、塗れば水虫、タムシ、神経痛、腰痛、肩こりなどにも効くという。ただ、1キロの生梅からたった30~40グラム程度のエキスしか抽出できず、手作業による部分が大きいので、日本では健康食品としてかなりの高価で売られているという。 コストの安いタイの梅と人手を使えば価格でも十分対抗できるのではというのがH先生の目論見である。

ではやってみましょう、と安請け合いしたものの、私自身もタイのスタッフも、梅肉エキスなどというもの見たことも触ったこともない。それを雑誌の切り抜きのレシピだけを頼りに見よう見まねで作ってしまった。

梅の実の仕入先は、チェンラーイ北部、約1300メートルの高地にあるドイ・メーサロンことサンティキリー村。ここも換金作物として梅の栽培に乗り出したのはいいけれど、年によっては買い手がつかず、大半は棄ててしまうこともあるというような状態だった。梅肉エキスが製品として成功すれば、高地に住む山岳民族の人々の生活向上にもつながるというわけだ。

 3月の半ば、ちょうど学期休みで暇になった寮生たちが集まってくれて、さくら寮のホールは数日間、梅エキス工場と化した。できあがった製品は本当にこれが梅エキスなるものかどうかさえも怪しいままに日本に送ったのだが、H教授からは、一応合格点が与えられた。できたものはH先生が買い取ってくださったので、子どもたちにとってはいいお小遣い稼ぎになった。

 しかしこの梅肉エキスを作るには、新鮮な青梅は使わねばならないので、収獲後、梅が黄色く熟してしまうまでの2日間の間にすばやく作らねばならないことである。しかも梅の収穫の最盛期は3月半ばのほんの10日間ぐらいに集中している。つまり毎年この時期以外に梅エキス製造の機会はなく、寮生にとっては1年に10日間ほどの短期アルバイトにしかならない。そこが難点だった。

そんなところにまた大阪のH教授から「ほなら、ひまわりの種ってのはどうでっかー」と提案があった。ひまわりの実から採れる油は、今、バイオ燃料の原料として世界的に注目を集めているとのこと。

 「ひ、ひまわりですか。うーん…」と私は首をひねった。チェンラーイ近郊で観光用に栽培されているひまわり畑を見に行ったことがあるが、タイのひまわりの花は日本のそれのように洗面器のような巨大なものはなくて、ダリアの花に毛が生えた程度のミニサイズである。こんな小さなひまわりから油がとれるものだろうか。あまり乗り気ではなかったが、「いえ、一年目はこちらで経費を全部出しますから、試験的にやってみましょ。軌道に乗ればビジネスになりまっせー」というH教授の言葉にあおられ(?)、コーヒー栽培でも有名なドイ・チャーン(標高約1500メートル)の近くにあるスタッフの実家の畑を頼み込んでお借りし、1ライ(1ライは1600平米)ほどのひまわりを植えた。約3ヶ月でとりあえず無事に花は咲いた。ここまでは順調だった。

 花が枯れて、そろそろ収穫の時期がやってきた。12月のある日、私たちはいさんで畑に出向いた。そして眼前の光景にわが目を疑い、そして呆然とした。なんと、ひまわりの実という実が忽然と消えてしまっている。

 近くの森に住むサルの群れが、夜の間に収穫直前の種を全部食べていってしまったのだった。このあたりの森には野生のサルが住んでいて、よくトマト畑やトウモロコシ畑なども荒らされているという。この憎き山ザルども、来年はひまわりの種をトラップにして、片っぱしから一匹残らず捕獲して食肉にしてやる、と毒づいたところで、あとの祭りである。

 結局、肥料や除草剤、人件費などに数千バーツを投下した挙句、仕入れた種3キロに対し、収穫できた実は1ライでたったの2キロというトホホな結果であった。これじゃあ、実用化どころか、作れば作るほど大赤字である。自立への道は遠い。

さくら寮での梅エキスづくり。
さくら寮での梅エキスづくり。


2009年04月28日   「しみず館完成」


完成したばかりの新寄宿舎しみず館と寮生たち
完成したばかりの新寄宿舎しみず館と寮生たち

白百合寮の裏に、さくら寮の新しい寄宿舎が完成した。ナムラット村の寄宿舎としては5つ目の建物だ。

これまでそれぞれ男子寮、女子寮として使ってきた、ひまわり館、すみれ館というふたつの施設は、子どもたちが通っている学校の敷地を賃借して建てられたものだった。その賃貸契約が今年8月で切れ、建物ごと土地を学校側に開け渡さなければならなくなったのである。それぞれ築15年、16年で、メンテナンスを怠らなければこの先まだまだ10年以上は使える頑丈な建物である。それを契約期限がきれたからといってあっさりと開け渡してしまうのはもったいない話だという意見もあるが、学校側にも当時と比べて生徒数が3倍に増え、手狭になったという事情があり、ここは涙を呑んで退却し、自前の土地に新しい施設を建設するとになったのだ。

さくらプロジェクトを立ちあげた当初は、20年先までさくらプロジェクトが存続するなどとは想像さえできなかったし、また自分自身が20年後にまだタイにいることすら思っても見なかった。というと無責任な話のようだが、実際、当時の支援プロジェクトの多くは10年ほど一定の使命をまっとうしていた。しかし、やはり見込みが甘かったのは事実である。開発当初のコンピューターのプラグラマーたちが、人類が21世紀まで生き延びるとは想像できないまま(かどうかは知らないが)、「2000年問題」対策を怠ったために混乱を招いたように、さくらプロジェクトもまた「20年先問題」というものを考えずに、その場しのぎ的にここまできてしまい、今になってあたふたしている。

若い頃、旅先のネパールで、気がつくとネパールのポカラに7年も住み着いていたという日本人と会って、なんとまあ酔狂な人もいるものだ、こういう浮世離れした人の気が知れないとあきれたものだが、私は気がつけばチェンラーイに彼の3倍の21年も住んでしまった。光陰矢の如しである。

しみず館は女子寮として使用
しみず館は女子寄宿舎として使用

ここでさくらプロジェクトの設立のいきさつを紹介する。

今から19年前の1990年のことだった。その頃すでに5年近くもチェンラーイあたりでくすぶっていた私は、当面の目的だった写真集やガイドブックの仕事も終わり、そろそろ日本に帰ってあの殺人的な忙しさの雑誌ギョーカイに復帰するのか、タイにとどまって夢の続きを見るのか、決断しなければならない期限が差し迫っていた。

そんなとき、ゲストハウスで寝転がってタバコをふかしていた私のもとに一通の手紙が届いた。東京の芝浦工業大学建築工学科の畑總一教授からで、近くチェンラーイのアカ族の村で集落調査をするつもりなので、案内役兼通訳として協力してほしいという内容だった。無文字文化の共同体の集落形成や住居建築のありかたから都市建築計画のヒントを探るといったいわゆる建築人類学的な手法だ。建築学には関心がなかったが、私にしてみればまたもタイにい続けられる執行猶予期間が延びたようなもので、お断りする理由もなく、好物の大福餅を土産に持ってきていただくことを条件にお引き受けした。こうして1990年の秋から1991年の春にかけて、数度にわたって畑教授と学生さんたちの調査チームに帯同し、アカ族の村の民家に宿泊しての調査が行われた。

第一回目の調査が終わって村を降りる前の夜だったか、村の男性たちから子どもたちの教育を支援してほしいという相談を受けた。その村にはすでに小さな小学校があったが、教員は圧倒的に不足しているうえに、赴任してきたタイ人教師は、いつのぞいてもまともに授業をしているようには見えなかった。子どもたちはいつまでたってもタイ語すら読み書きができない状態だった。保護者たちにはレベルの高い町の学校に子どもを下宿させるような経済的余裕はなく、学歴社会のタイにおける子どもたちの行く末を切実に心配していた。窮状を訴える村人たちの目は、こちらがちょっとたじろぐほど、真剣そのものだった。

畑教授と何度か話し合いを重ねた結果、この村のアカ族の子どもたちを手はじめに、山岳民族の教育支援活動をすることになった。日本の事務局は畑研究室が引き受けてくださり、現地のコーディネートは私が担当することになった。寄宿舎の建設費300万円はすでに提供を申し出てくれている人があった。子どもひとり年間5万5千円ほどかかる運営費は里親制度という形で一般から募集することになった。ときはバブルの末期で、支援者も予想外に順調に集まり、ナムラット村のサハサートスクサースクール(50年ほど前から各地の山岳民族の子どもたちを受け入れてきた私立の小中学校)の近くに最初の寄宿舎「さくら寮」の建設が始まった。

こうしてさくらプロジェクトがスタートした。

話はとんとん拍子に進んだかに見えた。 私も2、3年このプロジェクトの面倒を見たら、後は現地の人にでも運営を任せてフーテンの寅さんのように再び放浪の旅にでも出ようと考えていたが、世の中それほど甘くはなかった。安心して運営をまかせられるような現地の人が現れず、毒も食らわば皿までと、つぎつぎとふりかかる困難と格闘している間に18年がたってしまったというわけである。

そのあたりの話はまたいずれかの機会に。

18年前のさくら寮オープンのときの写真。私も若かった
18年前のさくら寮オープンのときの写真。あの頃僕も若かった


2009年05月28日   「第6回日本研修」


4月22日から5月8日まで、さくら寮生女子3名(高校生2名、専門学校生1名)を引率して、日本研修旅行を敢行した。寮生訪日は1~2年に一度実施しており、今回で6回目である。

もちろん民族衣装も持参した
日本へは、もちろん民族衣装も持参した

静岡を皮切りに、東京、岐阜、大津、京都、豊橋と16日間で6つの都市を訪問し、支援者のお宅をホームステイして歩くというかなりの強行日程だったが、支援者のみなさんによる綿密な計画、厚いおもてなしと心配りのおかげで、トラブルもなくスムーズに日程をこなし、豚インフルエンザ騒ぎが拡大する寸前に滑り込みでタイに戻ってきた。

 以前にも書いたが、寮生たちの日本の文化体験で一番大きな障壁はなんといっても食事である。各ホームステイ先では、限られた日程の中で最大限のもてなしをということで、家庭料理、外食にかぎらず最上級のご馳走でもてなしていただいた。懐石ありバーべキューあり、寄せ鍋にすき焼きあり、寿司にうなぎに天ぷら、刺身もありという具合で、毎日がフルコースの宴会状態である。久しぶりに日本に帰る私としては。連日ご機嫌な食卓の連続だったが、寮生たちにとっては「猫に小判」で、ほとんど手がつけられない。味つけが甘すぎる、唐辛子かナムプラー、ガピのいずれかで味つけされていないというだけで、、値段を聞いたら目の玉が飛び出るような豪勢な食事も、彼女たちにとっては無価値な食べ物となるのだ。(まあそのおかげで彼女たちが残したご馳走の数々は私の胃袋に収まり、毎日見る見る間にただでさえ出ているお腹がさらに出っ張り、帰国時には4キロ太っていたのだが)

お一人様1万円の京懐石コースも「甘い」「味が薄い」のひとことでスルー。あげくに「ママー(タイ製乾燥緬)が食べたい」「ソムタムが懐かしい」などと言い出す始末。旅も10日目にさしかかったあたり、あるタイ通のかたから、タイで仕入れてきたというインスタント緬約1ダースをいただくと、飢餓感はよほど限界にきていたのだろうか、その日の夜中にボリボリと生のままかじりはじめた。そして「日本にきてこれが一番おいしく感じた」とのたもうた。さすがに彼女たちの食体験の貧しさと保守性に、哀しみすら感じてしまった。

タイのロング・ステイヤーのなかにも、「最初はあのパクチーの匂いが鼻につくタイ料理にまったく手がつけられなかったよ」というかたがいらっしゃるようなので、異文化世界の食に対する抵抗感はタイ人に限ったことではない。それでも日本人の場合は、もう少し味覚に対する守備範囲は広いような気がする。生まれたときから和食はもとより、洋食、中華、イタリアン、インド料理、アメリカのジャンクフードにいたるまで世界中の料理になじんでいる、そのキャリアの差は大きいのではないか。まあ、豚も牛も鶏も羊も生魚も鯨も鰻も蛸もなまこも昆虫も納豆も昆布も山菜も食べてしまう日本人ほど雑食の民族はいないのかもしれないが。

幼い頃から食べつけていないものは、どんなに美味と薦められてもなかなか手をつけにくいものだが、せっかくたくさんの寮生のなかから選ばれて日本文化を体験する貴重な機会を得たのに、トライもせず敬遠するなんてもったいない話だ、と雑食の権化たる私は思う。遊園地のジェットコースターなどにはもの怖じすることなく嬉々として挑戦し、和室に布団敷きでも熟睡し、自動洗浄トイレも「こんな気持ちいいとは思わなかった」とすっかり気に入り、住環境にはたやすく適応していった彼女たちだが、食文化というのは実に根深いものである。

浅草寺で『大吉』のおみくじを引いて喜ぶメー・センヌワンさん
浅草寺で『大吉』のおみくじを引いて喜ぶメー・センヌワンさん

しかし、これまで訪日した女子寮生の誰もがなし得なかった快挙を、今回、チンタナー・シースワンさん(19歳)が達成した。里親の女性に連れていっていただいた温泉に、ちゃんとすっ裸になってつかったという。人前で水着になることさえ拒む彼女たちにとっては、清水の舞台から飛び降りるぐらいの勇気である。えらい!

海をはじめて見てはしゃぐ
海をはじめて見てはしゃぐ

浴衣をプレゼントされて大喜び
浴衣をプレゼントされて大喜び


2009年08月28日   「昼下がりの珍事」



ある日の昼食時、男子寮の玄関先で、ありえない光景が展開していた。お腹がお椀のように膨らんだ臨月の女性が横たわり、脂汗を流しながら唸っていたのだった。女性はさくら寮生のジャクー君(中1・ラフ族)のお母さんだった。

お母さんはさくら寮から25キロほど離れたJ村に住んでいるのだが、畑仕事をしている最中に突然産気づき、旦那さんが急いで100CCのバイクの後部座席に妻を乗せて、ずぶ濡れになりながら山から下りてきたのだ。J村からの最初の6キロほどは車がやっと一台通れるぐらいの岩だらけの山道で、ふだんなら1時間で町まで降りてこられるが、雨期で粘土質の道がドロドロになると、バイクはスタックしたりすべったりで、2時間近くかかることもある。それにしても雨の中を出産直前の妊婦をバイクの後部座席に乗せて走るというだけですでに日本人の常識の範疇を超えているのだが、あの片側は谷底のドロドロ道でバイクが転倒したりしたらと想像するだけで、よく無事で降りてこられたものだと、冷や汗が出る思いだ。

女子の子たちによる仮装エアギター・ダンス
女子の子たちによる仮装エアギター・ダンス

さくら寮はJ村からチェンラーイ公立病院にいく途中に位置し、病院まではあ4キロほどの距離。お父さんはまず、さくら寮にいる息子のジャクー君を呼んで、付き添いと通訳をさせるために一緒に病院に連れて行こうと考え、寮の前でバイクを止めた。ジャクー君のお父さんもお母さんもタイ語ができないので、医師や看護士と話すには息子のタイ語力が必要なのだ。

ところがお母さんは男子寮の前で息子を待っている間に「もうダメ、生まれるー」とラフ語で叫んで寮の玄関前でごろりと横たわってしまった。ジャクー君が着替えをしている間、お母さんは「間に合わないから早くして! もう出るー。生まれるー」と叫びながら苦しそうに息んでいる。しかしここで産むからと言われても、まわりを取り囲んでいるのはにきび面の男の子ばかりで、医師も助産婦もいないし、産湯も沸かしてない。やはり病院でないと都合が悪いのではないか。

結局、先日自分の子どもが生まれたばかりのスタッフのラッポンが、さくらのピックアップトラックの荷台に乗っけて病院まで送っていき、ジャクー君のお母さんはまもなく無事に待望の女児を出産した。あのとき男子寮の前で出産していたら、名前は寮の名前をとって「ひまわり」に決定するところだった。

山地民の人たちも最近は町の病院で出産する人が増えてきた。政府の医療援助があるので公立病院ならば費用はほとんどかからない。しかし山の人たちは10年ほど前まではほとんどが村の自宅で出産していた。遠く離れた山の畑から家まで帰る猶予さえなくて、畑の出作り小屋で生まれてしまった赤ちゃんも多い。出産の直前まで畑仕事をし、出産後も子どもはじいちゃん、ばあちゃんに預けてすぐに働き出す。それが日常的な姿だった。

ニューウエーブ和服のファッション・ショーもあった

ニューウエーブ和服のファッション・ショーもあった


ニューウエーブ和服のファッション・ショーもあった

ところで、性教育のカリキュラムが未確立だった時代に育った私などは、性に関する知識は超オクテで、赤ちゃんはどうやったらできて、どこから生まれてくるかという事実を知ったのは、中学2年ぐらいになって悪友に教えられたのがはじめてだった。そのときのショックたるや、世の中にそんな理不尽で不潔なことがあってなるものかとしばらくは現実を受け入れることができなかった。その点、山地民の子どもたちはとてもませていて、7歳か8歳の少女でさえ生殖の秘密を知っている。しかもあっけらかんとしていて、寮の前で犬が交尾などしていると、みんなで指をさしてケタケタ笑っている。小さい頃から家畜の交尾や出産などを見慣れているからだろうか。コウノトリが運んでくるなどと信じている者はいない。

タイ・ルー族のろうそくの舞
タイ・ルー族のろうそくの舞

夏恒例の日本人ボランティアによるお芝居の鑑賞会。今年の出し物は「おむすびコロリン」だった。子どもたちもねずみ役で共演

夏恒例の日本人ボランティアによるお芝居の鑑賞会。今年の出し物は「おむすびコロリン」だった。子どもたちもねずみ役で共演
夏恒例の日本人ボランティアによるお芝居の鑑賞会。今年の出し物は「おむすびコロリン」だった。子どもたちもねずみ役で共演


2009年09月10日   「J村のサプライズ


こんなこともありえるのかと驚くような、 キツネにつままれたような出来事が起こった。今回はさくら寮の話ではない。

8月のなかばから、東京・芝浦工業大学建築学科の学生7名がチェンラーイに滞在していた。芝浦工大の畑研究室には19年前にさくらプロジェクトが発足した当時から事務局をやっていただいており、私たち現地スタッフはそこの学生が調査でタイにきたときにフィールドワークのお手伝いをするという相互扶助的な関係にあった。今回はその畑研究室のOBで今年から芝浦工大准教授として着任した清水郁郎先生の学生さんたちがはじめてタイの山地民族の集落調査に訪れたのだ。

今年の集落調査のフィールドはラフ族のJ村である。さくらプロジェクトとして16年前から、寮生の受け入れのみならず、村の小学校の校舎を建設したり、教員を派遣したりとあれこれ支援を続けている村だが、長年支援しているわりに、村人の自立や発展への意識や自覚が希薄な、ちょっとトホホな村である。これまで何人もの生徒がさくら寮に入ってきたが多くが寮を中退し、早期に結婚して子どもをポンポン作ったあとで生活が破綻し、今度は息子や娘を寮に入れてほしいと懇願にくるといった、貧困のスパイラルが二代にわたって続いているというような状況だ。

それはともかく、7名の学生たちはJ村の民家にホームステイしながら、50世帯以上ある村のすべての家屋の寸法から間取り、家の内外に置かれている設備、家具、道具すべてを巻尺を使って実測して図面に起こし、家族構成や親戚関係などもすべて聞き取り記録にとるという気の遠くなるような作業を黙々と行っていた。炎天下の中、熱射病で倒れそうになりながら、10日かけて終了する予定だった。

調査を始めて3日目の午後、異変が起こった。女子学生A子さんの財布がなくなっているのに気づいたのだ。財布には彼女が今回の海外調査のためにアルバイトをして貯めてきた虎の子の約5万円(正確には日本円3万3千円と4500バーツほどのタイのお金)、それに運転免許証、クレジットカード、学生証などが入っていた。A子さんは途方にくれていた。最後に財布の所在を確認したのが前日の朝のため、いつ、どこで紛失したのか彼女にも確信がもてなかったのだが、思いあたるふしとして、実測調査中に、財布の入ったウエストポーチを民家の玄関前に置いたまま作業をしていたことがあり、このときに誰かに抜き去られた可能性も否定できないという。

紛失したお金の額が額だけに、私たちは村長にすぐさま報告し、相談した。

30代の若い村長R氏は、さっそく村内の拡声器を使って放送してくれた。「学生さんの財布を見つけた人はすみやかに○○さん(学生たちが宿泊していたホストファミリーの名前)の家まで届けるように」 予想外にも事態は急速に進展した。翌朝まだ薄暗い頃、宿泊していた民家の玄関先に、Aさんの財布がぽつんと置かれていたのだ。中身を調べると、クレジットカードや学生証などがそのまま入っていた。ただ現金は20バーツ札一枚をのぞいてなくなっていた。

「帰りの交通費に20バーツ残してくれるなんてちょっとはナムチャイ(思いやり)のある泥棒ですなあ」と私たちは冗談とも本気ともなく話した。夜のうちに空の財布を置いておくのは、盗んだにせよ、拾ったにせよ、中身を抜いたやましさがあってこそだろう。でも、大事な身分証やカードをちゃんと返してくれるあたり、多少の罪悪感は感じていて、まったくの悪人というわけでもなさそう。とはいえ、現金はもう帰ってこないだろうと私たち日本人一同は半ばあきらめていた。

しかし誠実そうな村長は「このままお金が戻ってこなかったら、村の恥です。J村は泥棒の村として日本のみなさんの記憶に刻まれます。村の沽券にかけても、断固として犯人を見つけて、全額返還させなければなりません。それとも警察に届けますか。あなた方しだいですが」

「いやいや、海外旅行の鉄則を守らず貴重品をほっぽらしておいた学生のほうも不注意だったのだから、まあ、そこまでは。カード類が返ってきただけでもよしとせねばなりません」

「犯人が名乗り出ることができなくても、お金は返されるべきです。ひとつ方法があります」

村長が提案した。

「村の中の小川のほとりにある大木の幹に、袋をぶら下げれておくんです。で、お金を盗った人は、夜の間にでもいいからそこにお金を入れておく」

「そんなあ、財布を空っぽにして届けたやつが、わざわざもう一度、人に見つかるリスクを犯してまで、木に登ってお金を入れたりしますかいな」

私は村長のそのアイデアを鼻で笑った。お金はもう戻ってこないよ。

ところがまたしても、翌朝、木に吊り下げられたその袋の中に現金が入れられていたのである。(よくも二次被害にあわなかったものだ) 1万円札が2枚と千円札が2枚。2万2千円も返ってきた。一夜明けて犯人(?)は反省したのか? それとも村長の拡声器を使っての脅し、いや説得が功を奏したのか。村長はどんな言葉で村人を脅したのか、いや犯人の良心の呵責を促したのか。謎だった。

私もこの村との付き合いは長いので、村の中に何人か手癖の悪いのがいるのは知っているが、こういうかたちでお金が戻ってくるというのは初めての経験だ。

「なくなった額には少し足りないけど、もうこれだけお金が返ってくれば十分だと思います。あとのお金はたぶんもう使ってしまったのでしょう」私は村長に言った。

「いやいや、残りのお金もまだこの村の中にあると私は信じています」

「えっ?」  村長はやけに自信たっぷりだった。まるで誰が犯人の心理や行動を熟知しているかのような口ぶりだった。 もしかして村長は犯人を知っているのか。

「明日村民会議を開きましょう」村長は言った。

6日目、村人全員を集めて、緊急集会が行われた。学生、そして私たちさくらのスタッフも同席した。私と村長が事情を説明し、この件にどう対処していくか村人に意見を求めた。

集まってきた100人もの村人たちは口々に意見をした。

「シャーマンに占ってもらえば犯人がわかるんじゃないか」

「盗んだやつは罰が当たって必ず死ぬじゃろう」

「このままですませたら霊のたたりがあるぞ

予言目めいた恐ろしいことを言う者まで出てきた。実際山地民の間でも、熱湯に指を入れ、やけどをした者が犯人だと裁く儀礼がある民族もある。

「では、こうしよう」

ある村の幹部が提案した。すでに氷などを入れるプラスティックの保温箱のようなものが用意されていた。

「みなひとりづつ、なんでもいいからバナナの葉っぱに包んでこの箱に投函する。お金を取った人は、誰にも知られないようにその中にとったお金を入れておく。身に覚えのない人は何もいれなくていい」

「そうだ、そうだ、それがいい」

 村人たちは合意し、とりあえず解散しておのおのの家に戻った。村の役員がこの保温箱をもって一軒一軒をまわり、バナナの葉や木の葉を折りたたんで紐で結んだチマキ状のものを入れさせた。こういった方法は過去にもとられたことがあるのだろうか。妙に手際がいい。

 ふたたび村の集会所に人々が集まり、村人たちが見守るなか、葉っぱの包みがひとつひとつ開封されていく。こんなことして本当にお金が戻ってくるのかよー、と私はまたしてもタカをくくっていた。ところがである!

20個ほどの包みが開けられた頃、ひときわ小さな葉っぱの包みが箱からつまみあげられた。まわりにいた誰かが「出るぞ」と小さく叫んだ。

集められたチマキ状の包みの山。中から餅が出てきそう
集められたチマキ状の包みの山。中から餅が出てきそう

開封作業をする村の役員たち
開封作業をする村の役員たち

 もうひとりの誰かが「うん、これだ」とつぶやいた。他の人々も頷いている。まだ包みが開封される前だった。 息を呑んだ。その包みが開けられると、なんとそこから折りたたまれたお札が出てきた。1万円札1枚と千円札1枚、それに2500バーツ。私はその瞬間を、なにか手品を見せられているような、魔法にかけられたような気持ちであんぐりと口をあけたまま眺めていた。呪術的な、超越的な、奇妙な集団幻視を見たのではないかという思いが残った。それは本当に不思議な体験だった。

 これで前日の2万2千円とあわせて計3万3千円と2500バーツ。足りないのはタイのお金で2000バーツほどだけ。これはさすがにもう使ってしまったのだろう。日本円のほうは完璧に戻ってきたことになる。

盗みや麻薬、不倫に夫婦喧嘩、トラブルの多いJ村であるが、まだまだ住民の心は完全には腐っていないのだろうなと思った。それとも霊のたたりがよほど怖かったのだろうか。一方で、少しづつちびちびと返すのがいかにもラフ族の性格らしいとも思った。盗人に対して微笑ましいという表現は不適切だけども。

開封作業をする村の役員たち
開封作業をする村の役員たちまるで手品のようにお札が・・

出てきたお札、すべて本物
出てきたお札、すべて本物

村長から学生に「返還の儀礼」
村長から学生に「返還の儀礼」


2009年10月28日   「落し物の末路」


9月に行われた寮内スポーツ大会の応援合戦。男の子たちは女装が大好きだ
9月に行われた寮内スポーツ大会の応援合戦。男の子たちは女装が大好きだ

またまたさくら寮生がやらかしてしまった。

ある夜、スタッフのカンポンが深刻そうな声で「MとNがまたやっかいなことを」と私に電話してきた。事務所に出向くと、中2の女生徒、NとMが呼ばれてしょんぼりとうなだれていた。チェンラーイ市に甚大な損害をもたらしかねない過失を犯して、こってりと油を絞られているところだった。

 ことの起こりはその日の午後。チェンラーイの某役所の役人が固定資産税か何かの調査だか徴収だかで市内をまわっていて、その住民の情報やら税額やら領収書やらがはさんであったファイルを途中で紛失してしまった。ある家を訪問しているときピックアップトラックの荷台に置き忘れ、それが運転中に風で飛んで路上に落ちたらしい。個人情報満載の機密書類のファイル丸ごと一冊だ。夕方になってそのことに気づき、これが出てこなかったら首が飛ぶかもしれないと真っ青になったお役人は、自分のたどった道を戻り、血眼になって探しまわった。そしてナムラット村のタム・トゥー・プー(さくら寮から約500メートルほどのところにある洞窟のある寺)にさしかかったところ、路上に落ちている紛失した書類の一部を発見した。ところが書類はすべて無残なまでにずたずたに引き裂かれ、修復不可能と思われるほどに細かくバラバラにちぎられた紙片が散乱していた。半狂乱の悲鳴をあげたお役人、涙目になって拾い集めているうちに、あることに気づく。散乱した紙片が、道なりに規則的な軌跡を描いてある方向に向かって続いていたのだ。そのちりぢりの紙片を拾い集めていくうちに、たどり着いたのはさくら寮の前だったという。

そう、この日の夕方、偶然この書類ファイルを拾ったのは、さくら寮生のMとNの二人である。タム・トゥー・プーまでの一本道は寮生たちの夕食後の散歩コースになっている。二人は何を思ったのか拾った書類を少しづつビリビリ破りながら寮に帰ってきたのだという。紙片は寮内まで残っているから言い逃れもしようがない。スタッフのカンポンは寮生の保護者としてお役人からこっぴどく嫌味と叱責の言葉を頂戴し、MとNが呼び出されたというわけだ。

まあ、重要な書類をうっかり落とすほうも問題ではあるが、ちょっと中身を見れば重要かもしれないとわかる書類を拾って、ちりぢりに破り棄てる神経というのもわからない。スタッフなり警察や役所なりに届けるというのが常識人の発想であろう。

「なんでまたお前たち、こんな馬鹿なことを」と問い詰めると、彼女たちはこの書類は誰かが不要になって棄てたものと思い、その紙を使って恋占いをやりながら寮に戻ってきたのだという。ひと切れひと切れ破っては捨てながら「(好きな相手が自分のことを) 愛している、愛してない、愛してる…」とやるあれだ。唖然である。

「おまえら、いったい何年学校で勉強してるんだ。幼稚園児じゃあるまいし文字を読めないわけじゃないだろう。これが公文書だってことにもわからずにいたのか。大人がやったら公文書損壊毀棄の罪で逮捕されてもおかしくないんだぞ!」

至急、寮生たち全員を集めて訓告である。

寮内スポーツ大会の応援合戦、女装が好きな男子がいれば男装が好きな女子もいる
寮内スポーツ大会の応援合戦、女装が好きな男子がいれば男装が好きな女子もいる

「今回のことを教訓に、落し物を見つけたら、どこかにそれを亡くして困っている落とし主がいると思いなさい」
いまさらのような単純な教訓だが、そんなあたりまえのことも念を押さずにいられないのが異文化の地。ふだんの寮生たちの行動の中に今回のような事件につながる伏線として思いあたるふしはたくさんあった。それは寮生たちの公共性に対する認識の欠如、そして部分から全体を想像する力の欠如である。

たとえば寮内で自分の持ち物が紛失した場合は必死で捜す。が、他人の紛失物にはまったく無頓着である。財布とかお金とかカメラとか見るからに金目のものは別として、落し物を拾っても、それをなくした人が困っているのではないかという認識が希薄だ。タオル、パンティ、スカート、ノートや教科書…、確かにいろんなものが寮内に落ちているのだが、たいていは故意に棄てられたものだとみなされ、履いてゴミ箱に棄てられてしまう。(こちらではゴミはゴミ箱に直接棄てるのではなく、まずそのへんに落として、それから箒などで掃いて後にまとめてゴミ箱に入れるのが習慣になっているからだろうか) 鍵、ピンポン台のナット、ロッカーの取っ手、ドアノブ、扇風機のスイッチ、自転車のペダル、それがなくなれば重大な機能を失う重要な機器の一部品かもしれないという想像力が働かない。私などカメラや楽器など機材の部品、名刺、電話番号のメモ書き領収書など、非情な掃除当番によってどれだけゴミ箱に棄てられたことか。

と、また今回もぼやきで終わってしまった。

寮内スポーツ大会の50メートル競走
寮内スポーツ大会の50メートル競走

日本から送られてきたTシャツを着ている寮生。意味をわかって着ているのだろうか
日本から送られてきたTシャツを着ている寮生。意味をわかって着ているのだろうか


2009年11月28日   「近頃の結婚式」


さくらプロジェクトも設立以来19年がたって、すでに300名以上の卒業生がさくら寮から巣立っている。その進路も人生も千差万別であり、職業も収入もピンキリである。国家公務員になっている者もいるし、バンコクで大学の先生になっている者、日系の大企業に就職した者、看護士や介護士になっている者、サムットプラカンあたりの工場の組み立てラインで労働している者、村に帰って村長やオーポートー(町会議員のようなもの)、村の小学校の教員になっている者、農業一筋で身を立てている者もいる。チェンラーイのガソリンスタンドやコンビニで働いている者もいれば、チェンマイでマッサージ師になっている者もいる。台湾や韓国、ブルネイ、はてはサウジアラビア、リビアなどに出稼ぎに行っている者もいる。国際結婚をしてスイスに渡った女性もいる。

あまり書きたくないけれど、麻薬の売買に手を出してミャンマーの山奥を逃げまわっている者、とっつかまり、服役中の者もいる。不運にも病気や事故で亡くなった寮生もいる。

さて、そんな卒業生たちの中で出世頭の一人がこの人、チュチャート・セイリー君、ヤオ族。27歳。チェンマイ大学法学部を卒業し、昨年警察官の上級職試験に合格して、バンコクの警察に勤める将来の警察幹部候補生である。

その彼が10月、10年ごしの愛を実らせて結婚式をあげた。お相手であるカレン族出身のスパポーンさんは、さくら寮の出身ではないが、新郎とは中学時代からの同級生であり、今はさくら寮生たちの通う中学校の教員をやっている。
よい香りのする封筒に二人の熱々のウェディングドレス姿が刷り込まれたハートマークびっしりのインビテーション・カード。タイの新婚さんたちは結婚式の何日も前に貸衣装屋でこうした記念写真を撮るのだが、ちょっとスタジオで撮影するとこれだけで3万バーツかかるとか。

象に乗って入場するカップル
象に乗って入場するカップル

象に乗って入場するカップル
象に乗って入場するカップル

当然のことながら多くの卒寮生たちがすでに結婚して家庭を持っているが、私やスタッフを結婚式に招待してくれるカップルは意外に少ない。外部から来賓を招くほどの盛大な式を挙げる経済的余裕がない、ちゃんと学校を卒業生せずしてなし崩し的に結婚してしまったことの照れ、昔さんざん叱られた寮のスタッフのことなどになんの恩義も感じちゃいない、そもそも当方にまったく信望も尊敬もないなど理由はさまざまだが、こうしてチュチャート君のような、いわば故郷に錦を飾った「勝ち組」でないと、晴れてかつて関わりのあった人々を結婚式に招待するような気持ちになれないのかもしれない。

さてチュチャート君夫婦は共稼ぎである上に、奥さんの実家がなかなかの資産家なので、結婚式は歴代のさくら寮卒業生の中にあっては超ド級の規模とゴージャスさだった。

招待客は村人を含めてざっと500人。野原を切り開いた100台ぐらいは停められる特設駐車場が家の入り口近くにどーんと広がっている。

まずは、新郎新婦の入場からしてサプライズだった。白いスーツとウェディングドレスに身を包んだ新郎新婦が従者たちを従え、なんと象に乗っての入場である。日本でこういう演出をやったら象のレンタル料だけでウン十万円どころじゃすまないだろうが、ここは象乗り観光ツアーで名高いルアミット村で、奥さんの実家の親戚が象のオーナーでもあるので、経費は象使いへの謝礼と餌代だけですんだとか。

わざわざこの日のために作られた竹の橋を渡り、花のアーチをくぐり、会場である二人の新居に到着する。両家のご両親、そして本人たちが協力し合って、ルアミット村の見晴らしのよい丘の上に、まさにこの結婚式のために建てられたような燦然と輝く新居が完成していた。この日はその新居のお披露目パーティーも兼ねての大イベントだったのだ。それにしても山の上とはいえ、この敷地の広さはいったい・・・。新婦のお父さんが娘さんのために用意してくれた先祖代々からの土地だとか。 「もしも~私が家を建てたなら・・・」と歌った小坂明子(40代以上人しか知らないと思うが)の『あなた』の歌詞に出てくるような、小さいながらもタイの乙女たちなら誰もが憧れる白とピンクに塗りたてられたおとぎの森の家だ。

しかも、ヤオ族とカレン族というマイノリティー同士の結婚だというのに、まるで申し合わせたかのように、新郎新婦はもとより親族、来賓、見物の人たちの中にも誰一人として民族衣装を着ている人がいないではないか。山岳民族の人同士の結婚式としてはこれはかなり異例のことだ。テレビドラマの影響もあるだろうか、山の人々も究極的にはこうした洋風の結婚式に憧れているのかもしれない 。

その後、11月に近くのカレン族の村で、やはり昨年さくら寮を卒寮した17歳の女の子が結婚式をあげた。こちらもキリスト教式の結婚式ながら、新郎新婦、親族、来賓、ほぼ全員が民族衣装を着ていた。こじんまりとしたささやかな挙式だったが、これはこれでとても心温まる、和やかなセレモニーだった。個人的には、民族衣装で伝統的なスタイルの結婚式をこれからも見ていきたいと思っているのだが。

まあ、なにはともあれ両組とも、お幸せに!

こういう写真を事前に撮影しておくのだ
こういう写真を事前に撮影しておくのだ

白亜の新居に新婦を迎える新郎
白亜の新居に新婦を迎える新郎

家の中で牧師さんのよる儀式
家の中で牧師さんのよる儀式

こちらはもう一組、民族衣装での結婚式
こちらはもう一組、民族衣装での結婚式


2009年12月28日   「クリスマスの芸達者たち」


カラオケ選手権団体の部はバックダンサーを従える
カラオケ選手権団体の部はバックダンサーを従える

今年も年末恒例の寮内クリスマス会が開催された。

 午後2時に始まって深夜12時まで、夕食をはさんで延々10時間におよびさくらプロジェクトの一大イベントで、まあ、クリスマスの名を借りた演芸会である。歌あり、ミュージカルあり、ダンスあり、演劇あり、ファッション・ショーあり、チア・リーディングありと、さくら寮生たちが一番輝く一日だ。

ここ数年定番になっている寮生によるカラオケ選手権には今年30名を超えるエントリーがあり、それぞれ得意の持ち歌で喉と歌唱力、パフォーマンス、そして各自ひそかにこの日のために仕込んできたステージ衣装で得点を競い合った。NHK紅白歌合戦同様、年々出場者のステージ衣装が派手になってきているのが気になる。

いったいどこでこんなハデハデの衣装を手に入れてきたのか。買ったら恐ろしく高そうな豹柄のコートとか、毛皮の襟巻きとか、レザーのミニスカートとか・・・。心配はご無用、さくらプロジェクトには日本の支援者の方々から毎年段ボール箱にして150箱を超える支援物資が届けられる。文房具や日用品もあるが、多くは古着である。古着のほとんどは寮生や山の村の人々に配布するのだが、中には、山の人たちにもっていってもあまりにも派手すぎて受け取ってもらえず、このようなステージでしか活用の機会のなさそうな超派手なキャバクラ嬢風 銀座のママ風、宝塚風衣装、コスプレ用衣装などが紛れ込んでいるのだ。

もちろん、実際に演劇や学芸会などで使用したと思われるステージ衣装を送ってくださるかたもいる。着物あり、浴衣あり、軍服あり、警察官の制服あり、白衣あり、セーラー服あり、メイド服あり、レオタードあり、Tバックあり、六尺ふんどしあり、穴あきパンティあり(誰がはくんだ)、SMプレイの道具あり、天使の羽あり、仮面あり、バーコード親父のカツラあり・・・。この古着からのセレクト品だけでさくら寮内には専用衣裳部屋とその管理担当者ができてしまったほどである。

ミニスカートでがんばる寮生
ミニスカートでがんばる寮生

もう気分はアイドルになりきっている
もう気分はアイドルになりきっている

ちょっと肌の露出が激しすぎるんじゃあ・・・
ちょっと肌の露出が激しすぎるんじゃあ・・・

 そんなわけでカラオケ選手権に限らず寮内の演芸で使う衣装はほとんどお金をかける必要がないので、スタッフとしてはとても助かる。しかも寮生たちはこうしたありあわせの素材を見つけ、活用して出し物をテキトーに作るのが天才的にうまいのである。

 今年からはファッション・コンテストも始まった。寮生がデザイナー、メイク、モデルによるプロジェクト・チームを組み、チーム対抗でそのファッションの斬新さと華麗さを競うものである。こちらも予算は全然与えなかったのに、各チーム、ありあわせの古着や布、ゴミ袋などを利用して、私たち審査員を唸らせる作品に仕上げてきた。さすが、エントリーした3人のデザイナーは、アチワ職業専門学校で服飾を学んでいるだけのことはある。

 それから、目から鱗なのは、ふだん学校の勉強のほうはいまいちだったり、トローンとした目をしてやる気がなさそうだったり、ぜんぜん目立たなかったり、寮の規則を守らず叱られてばかりいる寮生が、こういったイベントのときになると、思いがけず素晴らしい演技やパフォーマンスを披露してはじけることだ。抜群にキレのヒップポップを踊る男の子、コントやコメディをやらせたら、全員を爆笑の渦に引きこむ子。はっとするようなファッション・センスの子、大道具、小道具作りに賭けてはプロはだしの子。こういうのもクリスマス会ならではの発見だ。

人間、ダメダメなようでも誰しもなにか取りえがあるもので、そこをうまく褒めて引き出してあげれば、さらに成長もするし、ちょっと道をはずしていた子も更生することもできる。過去の問題児たちのステージでの活躍を見ると、ああ、あのときこの子を退寮処分にしないでよかったなあなどと思う。

ゴミ袋を素材にしたファッションショーも
ゴミ袋を素材にしたファッションショーも

さくら寮のトップモデル(?)たち
さくら寮のトップモデル(?)たち

ヒップポップ風の踊りを披露する男の子
ヒップポップ風の踊りを披露する男の子

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