2010年01月10日 「現代若者宿考」
ラフ族のお祭り
新年そうそう、さくらエコホームでまたしても退寮者が出てしまった。しかも一挙に4人、全員がラフ族の中学生女子である 。エコホームとはさくらプロジェクトの運営する寮のひとつで、さくら寮から20キロほど離れたルアミット村というところにある寮生20名あまりの小さな寄宿舎である
。
ことの起こりは年末年始に行われたN村でのラフ族の正月祭り。通常、ラフ・ニ族の祭りは中国正月の時期(今年は2月14日から)に行われるのだが、なぜかN村だけは毎年12月31日から1月7日ぐらいまで、西暦のカレンダーに則って行われる。この時期、他で祭りはやっていないものだから、近隣のラフの村から若者たちがヤミハ(若い娘さんのこと)を求めて大挙して集まってくる。花一輪に蝶100匹という感じである。血の気の多い年頃、女の奪い合いで祭りそっちのけで殴り合いのけんかになることもある。だから祭りの会場はけっこうぶっそうなのである。
4名の寮生がチョハ(若い青年のこと)を求めてかどうかはさだかではないが、この祭りに遊びに出かけたのは1月4日のことだった。すでにタイでは1月4日から学校の授業は始まっているので、寮は当然夜間外出禁止。ところが4名は、深夜10時過ぎに寮の塀を乗り越えて脱出し、外で待機していたアッシー君たちのバイクにまたがって20キロ離れたN村に向かい、どこかで一夜を過ごしたあげく、午前様どころか翌日の夕方になってしれっとした顔で寮に帰ってきたのである。もうスタッフはカンカン。
ちなみにこの4名はこれまでに何度も無断外泊、無断帰宅などを繰り返して警告を受けており、あと一枚でレッドカードに変わるという、イエロー・カードが累積した状態だった。今度規則を破ったら一発退寮である。
全員、徳俵いっぱいという自分の置かれた立場を自覚していたはずだから、今度やっちまえばどういう結果が待ち受けているかはわかりきっていたのに、いったい何を考えての行動なのか。どうせいずれ退寮になるんだからいいやと開き直っての確信犯なのか。それとも今度だけは運よく見つからないと思ったのか。はたまたそんな後先のことは一切考えずに、生物としての本能のおもむくままに欲望の一本道を突っ走ったのか。どうも最後の本能説が濃厚である。ただでさえムラムラきやすい年頃、よくもあしくも野生児たちである。自制心などというものを期待するのがむずかしい。
ラフ族の正月祭り
さっそく4人の保護者が呼ばれ、処遇について話し合われた。プロジェクト側の通告は「退寮」である。これまで温情に温情を重ねてきたが、今度ばかりは堪忍袋の緒が切れたというのがスタッフ全員の本音である。
こういう場面では保護者も当人も、「もう二度と寮の規則を破ったりしませんから、今回だけは寛大な処分をお願いします」と涙ながらに懇願し、それに対してプロジェクト側も条件付で処分を保留するというのがひとつのパターンになっていたのだが、今回はそうならなかった。
4人はあっさりと「寮を出る」と言い出したのだ。寮を出てどうするかというと、学校の近くにアパートを借りて友人と共同生活しながら今までどおり学校に通学するというのである。横で聞いていた親たちは「どこにそんな金があると思ってんだ。さくら寮にいるから経費がかからずに勉強させることができるってのに」とわが子を罵り、取り乱す。しかし、結局は親も子どもには甘い。寮を追い出された子どもに請われるままに、無理をしても仕送りをすることにケースも多い。
さくら寮のラフ族の女の子たち。寮の車で村に遊びにきた。
ひと昔まで、山の子どもたち学校に通うということは、タイ政府やNGO支援団体などの運営する寮に入って町の学校で勉学するか、さもなくば山の学校で勉学するかの二者択一しかなかった。保護者たちには子どもにアパートを借りてやって毎月数千バーツもの生活費を仕送りするような経済的余裕はないから、さくら寮のように寮費が1年2000バーツほどですむNGO支援の寮に受け入れられなければ、町の学校に通うことなどかなわぬ夢だったわけだ。素行が悪くてその寮を追い出されたら、村に帰るか、学校をやめて働きに出るかしかない。だから子どもたちもまじめに勉強した。
ところが今では選択肢がは広がった。生活に余裕が出てきた家庭の子どもは援助団体の寄宿舎に入らなくても、民間のアパートを借りて生活ができるようになった。子どもにしてみれば、寮費が安くても携帯使用禁止、テレビの視聴時間制限あり、夜間外出禁止といった規則に縛られた寄宿舎の生活よりも貸家暮らしのほうがずっと自由で気楽である。
実をいうとここ数年、さくら寮やエコホームの周辺にはこうして寮を追い出されたり、自分から飛び出した子どもたちが部屋を借りて生活しながら学校に通う事例が増えてきている。
当然ながら監督者もなく何も規制がないので、女の子たちの部屋には夜ごと若い男の子たちが集まってきて、飲めや歌えやの宴会とまではいかずとも、テレビやビデオを見たり、バイクで遊びに出かけたり、ときにはニャンニャンしたり(死語か)といった展開にもなる。
かつて、アカ族にも村の広場に「若者宿」のようなものがあって、夜になると若い男女が集って、恋を語り合った。このアパート暮らしの子どもたちの生態は、現代に蘇った若者宿の変形ということになるのかもしれない。ただ、かつての若者宿がつらい畑仕事から戻ってきた勤労青年たちのつかのまの楽しみだったのに対して、現代のそれは親のすねをかじって中学校に通いながらのものである。
山の人々の生活も豊かになって、子どもの勉学のスタイルの選択肢が増えたのはよいことかもしれない。が、こういった現代の若者宿が非行の温床になりがちなのも事実だ。。まじめに品行方正に勉強していた寮生たちがこのような若者宿グループの甘い誘惑に負けて、また寮則をやぶり、結局追い出されてアパート暮らしの仲間入りをするという悪循環が起こり始めている。頭の痛いところである。
結局、件の4人のうち二人がアパート暮らしで勉学を続け、二人は親に連れられて村に帰った。
こちらはリス族の正月祭り。やはり女の子の争奪戦が激しい
2010年02月23日 「それぞれの生き方」
近頃のリスの娘たち。リスでは茶髪ブーム
さくら寮を巣立っていった子どもたちは、開寮以来19年間で300名を超える。今や100を越える村にさくら寮のOBたちが住んでいる。中学卒の子もいれば、高校、大学を卒業した子もいる。中学中退、いや小学校中退の子もいる。
先日の旧暦の正月の時期はラフ族やリス族の村でも新年祭でにぎわい、私もスタッフや生徒たちと祭りのはしごしをしてまわったが、どこの村でも温かく出迎えてくれるのはかつての寮生たちだった。もつべきは教え子である。「隆兄さんは山のお茶が大好きだったわね。父が入れたお茶を飲んでいって」「私が料理を作るから、うちでご飯を食べていきなさいよ」「今夜はうちに泊まっていいわよ」「もしまだ結婚してないのなら、素敵な子紹介してあげるから」などと、あれこれ世話をしてくれる。
そんなおり、寮生たちのその後の人生の光や影を垣間見て、ときにせつなく、複雑な思いを抱くこともある。
リス族のH村で声をかけてきてくれたSとRは27歳と25歳の姉妹。髪を茶色に染めてはいるが、すっかり見違えるほど大人びて美しくなっていた。さくら寮にいたときは、シャイで目立たない、どちらかといえばどんくさい感じのする二人だったが、ファッションも垢抜け、表情もすっかり明るくなり、口も滑らかである。
中学生時代、彼女たちは生活態度がまじめな模範生だったので、高校、大学まで支援しようと思っていたのだが、中学を卒業した学期休みの間に、私たちに何も告げることなく町に働きに出てしまった。
正月祭りで踊る近頃のラフの娘たち
チェンマイやバンコク、さまざまなところでさまざまな仕事をしたが、今はプーケット市内で働いているという。今回は旧正月の祭りにあわせて10日間の休みをとって帰省しているのだ。
妹のほうは一度若くして結婚して一児をもうけたあと離婚、姉もかつて恋人はいたが、今は独身だという。山の女性は家庭をもって生活に追われると20代後半でもまるで40代ではないかと思えるほどふけこんでしまっている女性も多いが、彼女たちは若々しさを保っていた。
姉妹は力をあわせて一生懸命働いて、昨年、両親のために20万バーツかけて山の村の家を改築した。彼女たちが寮生だった頃よく泊めてもらった茅葺きに竹壁、土間式の家はもうなく、その場所に大きくはないがモルタル壁にリス族の好きな空色のペンキを塗ったブロック壁、スレート葺きの平屋が建っていた。
レストランで働いているというが、実のところ彼女たちの職業は「モー・ヌアド」つまり古式マッサージ師である。もちろんマッサージ師という職業は世の中になくてはならない大事な仕事である。しかし、タイにはまじめなマッサージ店もあるけれども、なかには性的なサービスを奨励したり、同伴連れ出しを許可してマージンを稼ぐ店もある。だからマッサージ店で働いているというだけで村の中でも眉をひそめたり後ろ指をさす人がいることも事実だ。だから村では、SとRの表向きの職業はレストランのウェイトレスということになっている。まあ、カラオケ・バーにしてもレストランにしても怪しげなところはたくさんあるのだが(まじめなカラオケ・バーというのがタイにあるのかどうかは知らない)。
「本当はもっと勉強を続けたかったけれど」という言葉とは裏腹に、彼女たちは自分の現在の境遇にそれほど後悔の念や不満を抱いているようには見えない。それは自信に満ちた彼女たちの表情や言動がものがたっている。もう少しがんばって学歴を積んで、教師になるとか看護士になるとか、村の男と結婚して生姜やトマトを作るとか、他にも人生の選択肢はいろいろあっただろうけれど、父親が障害者で生活が極度に瀕し、成績もさほどぱっとしなかった彼女たちにとっては、きっとあの時点ではあの選択こそが親孝行をする最善の策だったのだろうと思う。
さくら寮卒業生のオロタイさん。大学を出て現在、リゾートホテル勤務
この村にはプーケット島でマッサージ師として働いている女性が約10人おり、チェンマイやバンコクで働いている子も含めればこの村出身のマッサージ師は30人を超える。姉妹の家の隣の若い女性は、「友人以上恋人未満」という南タイの男を同伴して里帰りしていた。村にはマッサージの仕事を通じて知り合った日本人や西洋人と結婚している女性も何人かいる。
「村のリスの男の人でいい人はいないの?」
「アル中に賭博好きばかり、村に結婚に値する男なんていないわ」と彼女たちははき捨てるように答える。
「もし、今の仕事をやめることになったら、さくらで働いてみるかい?」
私がRに半分本気、半分冗談で尋ねると、彼女は「ええ、私のようなのでも採用してくれるのなら喜んで働くわよ」と微笑んだ。
しかし、実際には彼女はさくらに応募に来ることはないだろう。現にさくらの給料の何倍ものお金を稼いでいるのだ。
他の村で再会したモン族のMは、以前さくらプロジェクトのスタッフをしていたこともあるが、現在はバンコクの有名ゴルフ場でキャディーとして働いている。「日本人客からの一日のチップだけで、さくら寮の1か月分の給料と同じぐらいになる日もあるのよ」と言っていた。
現さくらのスタッフの女性たちの何名かも、ちゃんと大学まで出ているにもかかわらず、「もしさくらをやめたらホテルつきのマッサージ師になって、客の日本人かファランのいい男を捕まえて結婚したいわ」などと本気で言っている。
お金の魔力には誰も抗うことができない。
でもまあ、とりあえずみんな、たくましく生き抜いていってくれ。
リス族の正月祭りの踊り
(※写真はすべて本文とは直接関係がありません)
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2010年03月22日 「ジコチューとナルシズム」
中学を卒業したさくら寮生たち。やっとのことで集合させた
卒業シーズンである。さくらの子どもたちが通う中学校でも先日、卒業式があった。以前は私も欠かさず出席していたものだが、学校まで歩いてたった3分の距離にもかかわらず最近はめっきり顔を出さなくなった。しらじらとした疎外感を味わうだけだからである。
卒業式にはそれぞれの卒業生の保護者、親族たちが花束やプレゼント片手に大挙してやってきているのだが、その目的は、式典のあとの校庭での記念撮影会である。花やリボンで飾りつけらたセットをバックに寮生たちも一族郎党との記念写真の撮影に余念がなく、「さくら寮卒業生だけで里親さんに送る記念写真を撮るから集まれよー」と号令をかけても、もうさくら寮のことなんてさらさら頭にない。家族、親族、友人たちと写真を撮り終わると、さっさと食堂などに昼食を食べに行ってしまうのである。寮という人生の一通過点にすぎないう仮のコミュニティーへの帰属意識なんてみじんもないかのように。もちろんタイにも「同じ釜の飯を食った仲」という言い回しはあるけれど、家族、親族以上に強固な絆、コミュニティーなど彼らにとっては存在しない。つくづくタイはまだ血縁共同体最優先社会なのだと思う。
さくらプロジェクトを始めた20年ほど前の頃、タイではカメラはほんの一部の金持ちの道楽で、一般の山岳民族の人々は郡役所で撮られるIDカード用の顔写真以外には、家族で記念写真を撮る機会さえほとんどなかった。当時、さくらプロジェクトの周辺でもちゃんとした写真機(当時は35ミリフィルムの一眼レフカメラだったが)を持っているのは私一人だった。なので学校の卒業式の会場に行くと、さくら寮生のみならず他の生徒、保護者から「記念写真撮ってくださーい」と撮影依頼が殺到して、撮影無料のボランティア写真屋は大繁盛でてんてこまいだった。そしてできあがった写真をプレゼントすると大喜びされた。
それが20年たち、タイは経済発展を遂げ、カメラもパソコンも携帯電話も大衆のものとなった。今ではデジカメ、カメラつき携帯、ハイビジョンビデオカメラもあたりまえ。デジタル一眼レフをぶら下げている人の姿もちらほら見かける。さくら寮の子どもたちの中にも日本製や韓国製の最新式のコンパクトデジカメを持っている子がいる。そのため私も持ち出しばかりのボランティア写真屋などという余計な仕事をしなくてもよくなったのは助かる。
が、子どもたちを見ていてちょっと奇異に思うことがある。これだけデジカメが普及すれば、さぞかし写真に対する芸術的感性は研ぎ澄まされて、とんがった作品を撮っていると思いきや、生活のスナップや風景、静物、ドキュメントなどを撮っている様子はまったくない。判で押したように自分の肖像の撮影オンリーなのである。最新ファッションで決め、念入りに化粧をして自分だけ(もしくは友人との)のアップの写真を撮り、それをパソコンで加工して、1インチ大のステッカーにするのだ。つまりいわゆる彼女たちのデジカメの存在意義はいわゆる「プリクラ」用途オンリーなのである。
さくら寮生たちのステッカー写真
さくら寮生たちのステッカー写真
ステッカーの使途は、卒業シーズンになると誰もが勉学よりも熱心に、寝る間も惜しんで作成する「フレンドシップ」(友人たちがメッセージを書き込む自分専用の思い出寄せ書きノートのこと。タイ語では「フェンチップ」に聞こえる)である。卒業していく友人や先輩たちのそれぞれの寄せ書き帖にメッセージとともに、自分の「勝負写真」を貼りつけるのである。特に女の子のそれは男の子たちの寄せ書き帖に引く手あまただから、ステッカーは数十枚単位で大量生産しなければならない。まあ、これはボーイフレンド募集のための宣伝広告の意味もあり、見合い写真をばら撒いているようなものだ。
自分をいかに美しく見せ、いかにいい男たちに売り込むか。当然、彼女たちにとって写真の被写体というのは「自分」以外何も考えられない。自分が写っていない写真など、写真とは呼ばないのである。きれいなお花畑も雄大な滝もその中心に自分が微笑んでいてこそ「写真」なのである。
そんなわけで寮生たちがなんとかの一つ覚えのように日夜パソコンに向かってこのステッカー作りに励んでいるのを横目で見ながら、「せっかく高性能の最新デジカメとパソコンをもたせても、やることはこれだけなのかよー」と私などはつい嫌味を言ってしまうのである。
日本人はもうちょっと豊かな写真生活を送っているのではないか。と思ったら、最近は日本でもカメラを自分に向けて至近距離で撮影する「自分撮り」というのがはやっているらしいから、いずこの国でもこの年代の女の子たちのナルシズムは共通しているようで。「自己愛もたいがいにして、もうちょっと自分以外のものに関心を持てよなあ」と鼓舞してみても、いっこうに「外部」への関心は見られない。
蛇足だが、この徹底した「ジコチュー」ぶりは寮生活の中でも広範に見受けられる。
たとえば清潔の感覚。寮の女の子たちはみなとても清潔好きで、毎晩念入りにシャワーを浴びる。朝シャンをする子もいる。もちろん衣類は毎日着替え、洗濯し、丁寧にアイロンをかけ、きちんとロッカーの中にハンガーでつるしてある。
ところが同じ布類でも、共有のものとなると悲惨な状態だ。たとえば各部屋のカーテン。言われなければ1年でも2年でも洗濯しないので、もう全面手垢だらけである。掃除のモップや足拭きマットも同様だ。
たとえば水道の蛇口が壊れて水が出っ放しになっていても、見てみぬふりをして誰も修理しようとしない。修理どころかスタッフに報告にさえ来ない。たとえばトイレが三室あったとして、そのうち二室のトイレの便器が詰まっていたとしても、最後のひとつの便器が詰まって使えなくなるまでは、その残ったひとつの便器を不便を承知で使い続ける以外、なんの対策も講じようとしない(がまん強いという言い方もできるが)。
個人の所有物に対する愛情と、公共の物に対してのぞんざいな態度。この落差はいったいなんなのか。
なんて今回も、オチもなにもない、ただのぼやきに終始してしまった。
さくら寮生たちのステッカー写真
さくら寮生たちのステッカー写真
さくら寮生たちのステッカー写真
2010年04月20日 「命のバトン」
さくら寮生が母の日に書いた絵
今回はさくら寮の話題からそれてしまうが、4月11日、母が82歳で他界した。
何千キロも離れた異国に暮らす身、親の死に目にはあえないだろうとは覚悟していたが、母親は誰もいない深夜の病院でひっそりと逝ってしまったので、家族は誰一人として最期を看取ることができず、結果的には物理的な距離というのはあまり関係なかった。郷里の岐阜以外の町で暮らす兄弟、甥たちの中で実家にたどり着いたのが一番早かったのは、なんとチェンラーイから飛んできた私だった。
母は4月の初め頃から重篤な病状に陥っていたので、とにかく仕事が一区切りしたらすぐに帰国しようと考えていた。が、4月8日までに支援者に発送を完了しなければならない「さくら通信」(さくらプロジェクトの会報である)の印刷が納期をまったく守らないタイ人仕事の印刷屋のせいで遅れに遅れていたり、私の長期ビザ延長の関係で4月8日に必ずイミグレーションに出頭しなければいけないといういささか面倒な事情があったりで、8日までは帰れそうになく、とりあえず9日帰国を目標にチケットを探した。
ところがどこの代理店に問い合わせてもタイ航空の中部国際空港行きは9日から12日までずっと満席。無理もない。駐在員たちがこぞって里帰りするソンクラーン休みの直前だし、バンコクではタクシン派のデモで日々騒ぎが大きくなりつつあった。おそらくこの時期、多くの日本人駐在員や長期旅行者が、バンコクでの騒乱を避けるために日本に一時帰国するのだろう。
軍とデモ隊の衝突で多数の死傷者が出て、日本人カメラマンが取材中に銃撃されて死亡したというニュースが流れていた11日の未明、父から国際電話で母の訃報がもたらされた。すぐに帰ってこられるかという。空港での正規料金チケットの直買いは私の懐には厳しいので最後の手段にするとして、まずは格安チケットを探さねばと、夜が明けてすぐにチェンラーイの街にチケットを求めに出かけたが、ソンクラーン前の日曜日である。開いている旅行代理店などあるはずもない。
ところが、ほとんどあきらめかけて最後に立ち寄った、利用したことのない旅行代理店がなんと朝からオープンしていた。まるで砂漠に中にオアシスの思いで店に飛び込むと、カウンターには天使の微笑を浮かべた若い女性スタッフが、まるで私を待っていたかのように座っていて、「ああ、タイ航空の名古屋行きなら一席だけあいていますよ」というのである。こちらの切迫した事情などなにも説明しないにもかかわらず、親切に対応してくれたこの女性スタッフが私には本当に菩薩か天使に思えた。それは今でも思い出すたびに、奇妙な夢のワンシーンのように脳裏に浮かんでくる。あれは本当に現実のできごとだったのか。今度もう一度その旅行代理店を訪れたらそこは3ヶ月前から空き店舗だったなんてことはないのだろうか。そんな小説みたいな展開がありそうなほど、それは奇妙に現実感のない朝だった。
寮生が母の日に書いた絵
きっとこれは母の力が奇跡を起こして私を日本に帰してくれたのだろう、と感じた。私は信仰心などこれぽっちもないけれど、殺伐としたこの世の中にはこれぐらいのささやかな不可思議というか非科学が入りこむ余地があっても許されるのではないかと思った。
母親には迷惑と心配をかけっぱなしだったが、最後まで親不孝な息子の都合に配慮して(こんな言い方はなんだが)とてもいいタイミングで逝ってくれた。寮の仕事がそれほどたてこんでいないタイの学期休みの時期である。亡くなるのがもう少し早くても私はタイを動けなかっただろうし、もう少し遅れてもゴールデンウィークの真っ只中でチケットの確保は絶望的だったろう。まるで私のために配慮して自分の死期を調整してくれたかのようだ。人に迷惑をかけるのが何よりも嫌いだった母らしい最後だった。感謝の一言である。
タイでは葬式に参列するのは日常茶飯事だが、日本の葬儀はずいぶん久しぶりだ。親戚の人たちと顔をあわせるのも30年ぶりぐらいである。当然私は浦島太郎状態で、弟や甥から「隆君、オレのこと覚えてる?」などと聞かれても、まったく思い出せない。みなが口をそろえて言うのは、「隆ちゃん、顔までタイ人になっちゃったねえ」だ。顔までって、性格がタイ人化しているのはすでに見抜かれていたのか。
驚いたのは日本では昔と比べて田舎の葬儀といえどもずいぶんコンパクトかつシステマチックになっていたことだ。だらだらと何日も続く山岳民族の葬儀と違い、すべてがてきぱきと過不足なく淡々と進行していく。まあ、みんな忙しいから、そうそう他人の葬儀につきあってはいられないし、葬儀屋さんだってサラリーマンだったりする。
今回、通夜も告別式の段取りも、JA(農協)に取り仕切っていただいたのだが、まるで時報にあわせるように式が始まり、ぴたりと予定の時刻に出棺となった。すべての段取りが粛々と執り行われたが、やはりハプニングもある。厳粛な雰囲気に包まれて僧侶の読経が始まったとき、誰かの携帯電話がけたたましく鳴った。今年88歳になる澄子おばちゃんの携帯だった。一人暮らしで耳が遠いので音量が最大に設定されていたのだ。着メロは氷川きよしの『ズンドコ節』だった。
ところで私は今年、54歳にして初めて人の子の親になったのであるが、孫の顔(実物)を母親に見せられなかったのが唯一の心残りである。しかし「ちゃーお」編集部のTさんからも言われたことだが、これは「命の繋がり」というものかもしれない。生命力などおよそ枯れ始めている老体の私に子宝を授けてくれたのも母親の超自然的なパワーだったのかもしれない。などと、タイに戻る飛行機の中で、発売されたばかりの村上春樹の『1Q84 BOOK3』を読みながら考えたものだった。
とまあ、今回は身内の死をネタにしてしまったが、天国の母親も笑って許してくれることだろう。合掌。
雄司君
雄司君
2010年05月28日 「子どもたちからの手紙」
いつも子どもたちのことをけなしてばかりの私だが、たまには感心させられることもある。先日、子どもたちが里親にあてて手紙を書いた。その中にもちょっとウルッときたり、考えさせられる手紙が何通かあったので紹介したい。
寮生が母の日に書いたイラスト
まずは中学2年のヤオ族の女子の手紙だ。
「日本のお母さんへ。お母さん、こんにちは。日本の気候はいかがですか。タイは、涼しい季節に入ろうとしています。
私は10月のお休みは帰省して家族と2週間過ごしました。今回の帰省中にはいろいろなことがありました。今日はそのときのことをお母さんにお話ししたいと思います。
帰省中は、母の手伝いをしました。父は私たちに送金するために外国に出稼ぎに出たので、家には母しかいません。
今回の帰省では葬式にも参列しました。それは、私の兄の葬式でした。兄は、兄を捨て新しい恋人のもとへ去ってしまった恋人に落胆し、悩んだ末、川に身を投げて自殺してしまいました。去って行った恋人のお姉さんが、「あなたの恋人(私の兄)は貧しいのに、妹はなぜがそんな貧しい男と結婚したいのか」となじったことにもがっかりしたようです。兄を捨てた恋人の新しい相手は銀行員で兄よりも裕福なので、自分たちが貧乏なことを棚に上げて兄のことを見下したのだそうです。私の母は、兄を捨てた恋人のせいで何ということになってしまったのかと嘆きました。誰もがこんな葬式を挙げたくありませんでした。葬式は3、4日続き、私も夜も寝ず、ずっとご飯を炊いたり、料理を作ったり、水を汲んだり、まきを準備したりして手伝いました。 お母さん、こんな私の話を最後まで聞いてくださり、どうもありがとうございました。
最後になりましたが、お母さんのご幸せとご健康をお祈りしています。愛をこめて。お母さんの里子より」
17年間住んだスミレ館に最後のお別れ
次は中学3年のアカ族の女子の手紙。
こんにちわ。お母様お元気ですか。私はとても元気です。日本の天気はいかがですか。タイでは、乾期に入りました。
9月11日に、父が交通事故に遭い、約1ヶ月入院しました。 私は期末試験が間近だったので、 学校を休みことができず、月曜日から金曜日までは学校が終わってから、夜に父のいる病院に行きました。そして土曜日と日曜日は病院にいました。休んでいる時間はありませんでした。
父が事故にあったのは私のせいでもあります。父は私の遠足の参加費用を学校に支払うため、私のところに持ってくる途中で事故にあったのです。私のために父が事故に遭ってしまったことが、私はとても残念でした。
家族は今、みなとても困っています。父は右脚の骨を複雑骨折していて、手術をしなければならず、これから数年は仕事ができないかもしれないからです。母の仕事を手伝う人は誰もいません。兄は父の介護をしなければならないし、私は勉強しにいかなければなりません。病院で父は、起き上がったり座ったりすることさえできませんでした。病院で過ごしていて、父は処方された薬にかぶれて炎症を起こし、かゆみと発疹ができてしまいました。
父が交通事故にあったことで、私は遠足には行かない決心をしました。こういう状況で、遠足に行くことはそれほど重要ではないと感じたからです。
10月1日に父は退院しました。
その日は試験が始まる日でしたが、私はまったく勉強をすることができず、教科書を本を読む時間もありませんでした。試験が終わったあと、家に戻り、両親の家の手伝いを毎日しました。父の入院費は1万9千バーツ(約5万4千円)でしたが、まだ払うことができていません。
今年はトウモロコシの価格が上がらず、よい値段で売れません。今、私の家では稲刈りの仕事が残っています。米の収穫が終われば、兄は町に出て働く準備をします。
今、父は義理の兄の家にいます。私の実家は山奥にあり、道が悪く、ここにいると不便なので、義理の兄家に寄宿しているのです。義理の兄の家は便利なところにあり、病院にも行きやすいからです。
このところ父は、脚が治りはじめてきました。杖なしで歩くことができるようになりました、が、まだ脚が痛いので、今までどおりには歩けません。普通に歩けるようになるまでは、これから何年もかかるだろうとのことです。
私の家はとても困難に陥っています。オートバイもありません。 オートバイは故障だらけで、今、修理工場に預けてあって、修理代が3千バーツもかかってしまうのです。父と母にはまったく貯金がないので、修理代を近所にいる友達に借りなければなりません。弟と妹が家に戻っているので、迎えに行くために親戚の人にバイクを借りに行かなければなりませんでした。
今、私の家にはまったくお金がありません。母は、子どもたち3人のために街に降りて、お金を稼ぐために仕事をしなければならない、と言っています。兄と母は仕事をしていますが。残りの2人は学校に通っています。
来年、妹が卒業します。母は、どうしたら学校に行かせるお金が工面できるかわからないと言いました。父が働けないからです。私は家にいても日雇いの仕事をしていないのでお金がありません。私の家には換金作物を植えられるような土地もありません。
今は人生で一番困難な時期だと思います。父がこんな状態で、私は家で一人、毎日泣いています。
私は一度学校を辞める決心しました。が、父はだれかにお金を借りて学費を作るから、学校をやめる必要はない。中学校3年の卒業まであと何ヶ月もないんだからと言ってくれました。それで私は学校に戻り、勉強を続けて卒業をする決心をしたのです。
進学する望みがなくても、私は努力して勉強を続けようと思っています。今は後期の授業が始まっています。私はできるかぎり一生懸命勉強をします。
もう一度学校に戻ることができて、私はとてもうれしく思っています。お母様、心配なさらないでください。努力して夢に到達するために、一生懸命勉強をすることを私は約束します。
お話が長くなってしまいました。
お母様のほうもご自身の問題が解決され、安心して生活できるよう応援しております。」
ラフ族の住居
中1のカレン族の女子が書いた手紙。
「日本のお父さん、こんにちは。お元気ですか。私は元気です。10月の学期休みには、私は村に帰省していました。祖父と唐辛子の収穫をしたり、稲刈り、まきを背負い運んだりする手伝いをしました。たまに家にいると姉に叱られました。
私は、父のことがとても哀れでなりません。父は「おまえのためなら働いて疲れはてることなど何ともないことだ」と言いますが、私は、この言葉を父から聞くたびに涙が流れます。私は、「疲れたときは休んでね」と父に言いいます。ある雨が降った日、私は、父が倒れてしまうのではないかととても心配でなりませんでした。でも、父は、その日、何ごともなく無事に帰宅し、ほっとしました。両親の負担を少しでも軽くするために私もしっかりと働きたいと思っています。
私はさくら寮にいるとき、父と母が元気にしているかどうかよく考えています。ですから今回帰省して両親と毎日顔を合わせいっしょに過ごすことができて、とても幸せでした。両親に、さくら寮にいるときもよく二人のことを心配しているのだと話すと、父と母は「心配しなくても幸せに過ごしているから大丈夫だ」と言っていましたが、私はそうではないことを知っています。
この私たち家族の状況を日本のお父さんにうまくお伝えできたかどうかわかりませんが、これからも私たちの人生は長く続いていきます。
最後になりましたが、これからもお父さんがお幸せにそしてご健康でたくさんのご成功を収められますようにお祈りしています。
すみれ館でくつろぐエコホームの子供たち
2010年06月29日 「拝啓15の私から」
完成した新寄宿舎「しみず館」の食堂
昨年6月のある日、アンジェラ・アキさんの『手紙―拝啓十五の君に』という曲を寮の子どもたちに教えた。たくさんの子どもたちがそのメロディと歌の内容にとても感動し、自分自身の未来の自分に向けて、手紙を書いた。その中から何通かを紹介したい。
まずは、中学3年生のアカ族女子が、30歳の自分にあてて書いた手紙。
「こんにちは、14歳の私です。あなたは30歳になりましたね。もう家族はできましたか? 幸せにすごしていますか?
私は寮で友だちと楽しくすごしながら、勉強に励んでいるのでとても幸せですよ。学校で出される宿題が多かったり、むずかしかったり、それ以外にもろいろと困難なことに出くわすけど、なんとか自分自身で解決できています。
今、あなたは自由で幸せですか? どんな大人になりましたか? 今の私のように、やりたいことがあっても、面倒くさくてやりとげることができなかったり、愚痴をこぼしたり言い訳ばかりしているようなことはないんでしょうね。
あなたが思うに、私にとって人生で一番よかった時期はいつですか? ぜひ教えてください。
私には将来薬剤師になりたいという夢があります。あなたは今、薬剤師の仕事をしているのでしょうか? 私が望んでいたような人生を歩んでいるのでしょうか?
私は現在のことや将来のことを考えるととめどもなく悩んでしまいます。あまりにもあれこれ考えすぎて、気力もなくなり落ち込んでしまう日さえあります。
私たちの人生はそれほど長いものではありません。愛する人、そして愛してくれる人と一緒に価値のある人生を送らなければならないと思っています。
30歳のあなたはすでに家族をもっていると思いますが、あなたはどんな男性と結婚したのですか? 今、私が思っている男性とですか? 子どもの頃は、好きになった男性とは一緒になれると思っていましたが、14歳の私の頭の中にはすでにこんな馬鹿な考えはありません。
私たちはこの世に生まれてきた以上、健康で価値のある人生を送るべきだと思います。価値があるといっても、お金持ちであるとか、美人であるとか、長生きするということではなく、私と一緒にいる周りの人たちにも幸せになってもらうことが、私たちにとって価値ある人生だといえるのではないでしょうか。
山地民の子どもたちは学がないと馬鹿にされたり、社会的に低く見られることをぜひやめさせたいとも思っています。私たち山地民の多くは粗末な家に住み、土にまみれて農業をしていますが、これからは山地民の人たちには便利で快適な生活を送ってほしいです。私が大人になったときにこのような願いがかなえられているのでしょうか?
他にももっといっぱい話したいことがありますが、このへんで終わりにしますね。あなたの人生が幸せいっぱいであり、素敵な未来が築けますように」
完成した新寄宿舎「しみず館」のドミトリーで
続いて高校3年のラフ族女子の手紙。
「こんにちは。30歳の私。いかがおすごしですか? 元気でやっていますか?
もう結婚はしましたか? まだ独身だなんて言ってほしくないですよ。でもあせって変な相手を見つけないよう気をつけてね(熟慮して相手を決めてね)。
今、どのような仕事をしていますか? もうすぐ私は卒業後の進路を決めなければいけませんが、できることなら航空会社の客室乗務員になるための勉強をしたいと考えています。30歳の私は飛行機の客室乗務員になっているのでしょうか?
知ってますか、私は高校3年生の学年中で4番目、クラスで2番目の成績をとったんですよ。うれしく思ってくれますか?(きっと喜んでくれていることと思います)
18歳になる私が一緒にすごしている家族は経済的に大変です。両親も年をとりはじめ、下の妹たちは大きくなりつつあります。そのため、いろいろと悩んでしまうこともあります。30歳の私はきっと私の両親を楽にさせ、下の妹たちを大学まで勉強するために支援していると思います。
30歳の「私」は、なぜ私が自分自身の恋愛について書いていないのかと思うことでしょうね。私にはそのうちきっといい人が現れて、一生に人生を歩んでいることを信じています。でも、私は恋愛をすると男性に騙されるのではないかと恐れているので、今は積極的に恋愛をしようとは考えていません。30歳の「私」はこのような考えであり続けていますか(あなたがもし独身なら)? それとも、恋愛に対しての考え方は変りましたか? 30歳の私の恋愛観がどうなっているのか教えてくださいね。
18歳になる私にはまだ確実なものは何もありません。将来どうなるのか、はたまた明日はどうなるのかさえ、確信をもって言うことができません。そのため、自分自身の目標を見失ってしまうこともあります。でも、私は私の夢に向かって頑張って勉強しますね。いつの日にか私の夢がかなう日がくると思っていますので。
最後になりましたが、30歳の私が幸せでありますように願っています。もし、何か問題が起こったら心を開いて親しい人に相談してくださいね。そして、両親のことと(もしあれば)家族のことはきちんと面倒を見てくださいね。
それと、学生時代の友だちとまだ連絡をとっているかどうかわかりませんが、友だちのところにも遊びに行ってね。もし、夫がいればお互い理解のある仲のいい夫婦でいてください。もし、子どもがいるなら、子どもを大切に育ててくださいね。そして、あまり怒らないでくださいね(怒ってばかりいると老けますよ)。問題にぶつかっても、くじけないでくださいね。
私は30歳の私がどんな困難をも乗り越え、信じていることが達成でき、素晴らしい人生を歩めるように応援していますよ。30歳になった私はいろいろと変ってしまっていて、失ってしまったものもたくさんあるかと思いますが、30歳になったときも私が恋しく思っている人たちが、過去のような厳しい生活状況に戻らず、元気で素敵な生活を送っていることを願っています。私たちの人生は新しいことを始めるのに遅いということはありませんので、頑張りましょう」(18歳の私より)
上のふたりの手紙にも見受けられることだが、年上の自分に書いているにしては、内容や口調が妙に「上から目線」の説教調になっているのが気になるかもしれない。しかし、私にはこの「背伸び」が意外とすんなりくる。
タイの社会状況や文化、価値観の急激な変貌のさなかにあって、子どもたちは歳を重ねるにつれて退行していく部分がある。私が見る限り、多くの子どもたちが、親や先生の言うこと(つまりタテマエである)を素直に聞く小中学校ぐらいの年齢のときが、一番まっとうで立派な考え方をもっている。倫理的には子どもが人生のピークにいるわけである。高校、大学と進むにつれて、多くの子どもが、その人間性を成長させるどころか、劣化の一途をたどり、汚職やごまかしなど、自己保身のことしか考えないこずるい大人になっていたりする。「これまで受けてきた教育の成果とはいったいなんだったのか」とがっかりさせられることも少なくない。
そんなわけで、15歳の子どもたちには、世俗の垢にまみれてまっとうさを失ってしまった未来の自分に向けて、どんどん「喝!」を入れてほしいと思っている。
卒業予定者の進路指導
最後は専門学校上級課程のラフ族男子からの手紙である。
「こんにちは。 私があなたにこの手紙を書いてから20年たちましたが、いかがおすごしですか? 元気ですごしていますか?
今、あなたは40歳になったのですよね。仕事の方はどうですか? 今頃は、夢だったソニーのテレビ製造の責任者になることができたはずなので、とてもうれしいですよ。
ソニーの製造責任者ともなると仕事の方はきっと大変で、疲れているはずですが、一生懸命頑張って仕事に励んでくださいね。もしかしたら、もう少しすると社長になれるかもしれませんね。あと何年すればあなたの会社を持つことができそうですか? 長い間会社員として働いているから、自分の会社を持ちたい気持ちは強くなっているはずです。
ところで、あなたはすでに家族をもっていますか? きっときれいなお嫁さんをもらっているかと思いますが、もしかするとまだ恋人もいなくて、オカマになっているかもしれませんね(冗談ですが)。
あなたは何歳のときに結婚したのですか? 今、子どもは何人いますか? あなたの奥さんはどこで仕事をしていますか? あなたと同じ職場ですか? 奥さんはどこの村の人ですか? 色白でスタイルはいいですか? あなた自身の家は建てましたか? それとも誰か他の人の家で一緒に生活していますか? 自家用車は持っていますか? そして、子どものときからほしかった物はすべて手に入れることはできましたか? 暖かな家庭を築いていますか? 人生でまだ足りない物は何かありますか? 今のあなたは幸せですか?
いずれにせよ、あなたが家族と幸せにすごすことができ、仕事の方も順調にいき、そして、健康で、長生きできますように。
この手紙を書いている現在、地球は汚染されていて、その結果、世界各地で異常気象が見られます。それ以外にも地球ではいろいろなことが起こっていますが、あなたも気をつけてすごしてくださいね。そして、お金持ちで、有名人にもなれますように」
ところが実はこの男の子、この手紙を書いた数ヵ月後、寮内での度重なる飲酒などが発覚して退寮になってしまい、結局学校も中退してしまった。20年先の夢を思い描くことができても、半年後の自らの体たらくは予想できなかったらしい。20年後にこの手紙を読んだらどう思うだろうか。
この男の子に限らず、寮の多くの子どもたちは、漠然とした夢を抱くことはあっても、その夢の実現に向けて長期的なビジョンをもち、着実に行動していくということが苦手なようである。
2010年07月29日 「54歳からの子育て」
実は昨年タイで結婚した。相手は20代のラフ族の女性である。
どうしてこの歳になって結婚などする気になったかというと、子どもができたからである。と書けば、いわゆる「できちゃった婚」ですねと言われそうだが、意に反して子どもができてしまったのでやむなく結婚するというわけでなく、子どもがほしかったので、とりあえず子どもを作る方向で努力をした結果である。で、まぐれあたりか、神の思し召しか、できたのだ。
これまで、他人の子どもは何百人と面倒を見てきたが、実の子の親になるというのはどんな気持ちなのか、一生のうちに一度ぐらいは経験してみるのもよかろうという思いもあった。恋愛は70歳、80歳になってもできるが、子作り、子育てをするには今がもう限界の年齢であろうし。(いや、すでに限界を超えているか)
で、子どもができたからには、籍を入れ、きちんと日タイ両国において出生届けなどを出しておいたほうが子どもの将来にとっても有利であろうという現実的な判断から結婚を決断した。妻は私の年の半分ぐらいの年齢なので、逆に子どもができることが結婚のひとつの条件だったというのもある。ひとりでも子どもがいれば、すでに体のあちこちにガタがきている私が先に逝ってしまっても、しばらくはさほどさびしい人生を送ることはないだろう。逆に子どもができなければ、妻はまだ若いのだし、戸籍を汚さずにおいといて、私亡きあとの第二の人生を謳歌してもらったほうが本人にとっては幸せなのではなどと都合のいいことを考えていたのだ。
歌う牧師さん
思えば、血気盛んな20代の青年の頃、ある革命思想家の感化を受け、「家庭こそが諸悪の根源である」などというスローガンを固く胸に刻み込んでいたので、革命を志すもの、家庭などもつまいと心に決めていた。30代になるとそんな清廉な理由からでなく単なる放浪癖と独身生活の気楽さから結婚など考えもしないままにずるずると日々が過ぎていった。40代になるともう何もかもがめんどくさくなった。
で、気がつけば54歳である。あと数年すれば世間では還暦といわれる歳。うまくいけば独身のまま人生を逃げ切れるかと思っていたら、なんと最後の最後で思いがけない、といってそれほどドラマチックでもない展開が待っていた。
サッカーでたとえるなら、必死の守備的陣営で0対0で迎えた後半ロスタイム、試合終了寸前、オウンゴールで失点してしまったようなものである。
そして今年の1月に長男が誕生した。54歳と9ヶ月ではじめての子ども(おそらく)である。
日本でも昔は「人生50年」と言ったぐらいで、山岳民族の社会でも54歳 はもう現役引退どころかすでに寿命をまっとうしている年齢だ。うまくして生きていればひ孫がいる歳なのだ。いや日本だってもう中学や高校時代の同窓生の中には孫が小学校に入学したなんてやつもいる。人生をトラック競技でたとえるなら私は周回遅れ、いや2周ぐらい遅れてふらふらと走っている。性への目覚めはクラスで一番早かったのに、人生とはわからないものだ。
晩婚、国際結婚(古い言葉だが)、異文化同士の結婚、歳の差婚、…考えられるすべてのハンディを背負ってスタートした結婚、子育て生活。家庭こそが諸悪の根源であるという「洗脳」は今ではかなり解けてはいるが、家庭こそが諸問題の根源であるという重い事実は、今あらためてひしひしと実感しているところだ。
結婚式
結婚式は妻方の信仰によりキリスト教式で。これもまったく人生の想定外の展開だった。
2010年08月29日 「サラセミア」
妻が妊娠した頃の話。
市販の検査薬なども試した結果、妊娠の可能性が高いと判断し、妻はまず一人で病院に行った。チェンラーイ市内の某病院である。公立病院ではなく30バーツ医療制度の対象外の私立病院だが、なぜか山岳民族の人たちはよくこの病院を利用する。それほど待たなくてよいし、キリスト教徒には割引制度があるらしい。ちなみに妻は1年に一回ぐらいしか教会に行かないものぐさクリスチャンである。
検査結果がでて、医師から妊娠が告げられ、血液検査室に行く途中だったか、横につき添っていたひとりの看護師が妻の耳元でそっとささやいたという。「あなたね、産みたくなかったら、堕ろすこともできるのよ」
妻は小柄で、しかも一人できていたから、わけありの不良高校生ぐらいに思われたのかもしれない。医師から赤ちゃんの父親はと問われ日本人だと答えるのを横で聞いていたから、行きずりの恋とか、一夜限りの過ちとか、看護師はあらぬ想像力を働かせたのかもしれない。
「それにしても」とその話をあとで聞いた私は思った。面識もないいち看護師にそんな無神経なことを言われなきゃいけないすじあいがあるのか。大きなお世話ではないか。もしも妻が学校も行っていないタイ語がよくわからない山岳民族の女性で、言われたことの意味もよくわからず「はい」なんて応えちゃって、すぐさま手術室に連れて行かれたらどうなるのか。
まあ、実際問題、妊娠しちゃっても誰にも相談できずに一人で病院に来る学生なんかもきっと多いのだろうし、親切心からなのだろうが、それにしても、なんだかなあと思う。
このような病院で出産をしてもいいものかと一抹の不安を感じたが、まあ家から一番近くて、いざというときに私の下手な運転でもいち早く病院にたどりつけるであろうこの病院にお世話になることに決めた。
生後3週間ごろの息子
それよりも心臓が止まりそうになったのは、妻が初めて診察を受けた日の夜のことだった。
担当の女医から携帯に電話が入ったのだ。
「実は、妊婦さんの血液検査の結果、問題が見つかって、すぐに再検査をしたいので、明日、病院にきてほしいの。そのとき必ずご主人も一緒にきてくださいね」
血液検査の結果に問題? この私も検査が必要? それって、もしかして何か深刻な伝染病かなにかに感染しているってことか。
一瞬、目の前が暗くなった。過去に犯した数々の過ちや悪行のことが頭によぎったのだった。仮に私のほうに原因があるとすれば、妻にもとりかえしのつかないことをしてしまったことになる。
私は悲壮な表情で妻に言った。
「な、万一の宣告を受けたら、キミは現実を受け入れる覚悟があるか。そして子どもを生む覚悟があるか」
「大丈夫。どんな宣告だろうと私はすべてを受け入れるわよ。そして子どもが健康に生まれてくる可能性が少しでもあれば、私は産むわよ」
そう答えた妻のあっけらかんとした表情を見て、私は彼女の度量の広さに打たれ、抱きしめ、抱き合ってしばし泣いた。というのは嘘だが、ずいぶん楽天的、というより脳天気な妻の言葉に救われ、腹をくくることができたのは事実ある。
それでも翌日、どんな宣告を受けるのかと緊張で顔面蒼白になりながら病院へ行くと、医師はこうきりだした。
「奥さんの血液検査の結果、サラセミア(タイ語では「タラセミア」と発音)の遺伝子を持っていることがわかりました、β型のサラセミアのマイナー遺伝子です。ご主人もこの遺伝子を持っている場合、生まれてくる子どもにこの病気が発症する可能性があります。そうなると予防や治療の準備をしなければなりませんから、まずはご主人が血液検査を受けてください」
はあ。で、なんなのそのサラセミアだかタラセミアとかいうのは。
実は私はこの病気についてまったく知識がなかったのだが、家に戻ってインターネットなどでいろいろ調べてみると、以下のようなことがわかった。サラセミアは、地中海貧血とも呼ばれ、ヘモグロビン蛋白の異状によって正常な赤血球が作られない病気で、発病すると重度の貧血や秘蔵の腫れ、黄疸、骨髄過形成などの症状が現れるという。もともとは地中海地方に患者が多かったためにこう呼ばれるようになったのだが、実際にはアフリカや東南アジアなど、熱帯地方に偏在する病気である。α型とβ型の二種類があり、アジアに多いのはβ型という。遺伝子のタイプにはホモ接合(メジャー)とヘテロ接合(マイナー)の二つがあり、たとえばともにヘテロ接合遺伝子を持った夫婦から生まれてくる子どもは4人に一人がホモ接合、二人がヘテロ接合、一人が正常な遺伝子を受け継いで生まれてくる。中学時代に習ったメンデルの遺伝の法則ですね。
ヘテロ接合の遺伝子をもった人は、感染症にたとえるならば「無症状キャリア」のようなもので、健常者とまったく変わりなく、一生普通に生活を送ることができる。注意しなければならないのがホモ接合(メジャー)の遺伝子を受け継いだ人で、幼い頃から発育障害などさまざまな症状が表れ、有効な治療を施さないと多くが思春期ないし成人するまでに亡くなってしまうことが多いという。
一方、夫婦のうち片方がヘテロ接合遺伝子保持者で片方が健常者の場合、生まれてくる子どものうち半分がヘテロ接合遺伝子を受け継ぎ、半分は健常者としして生まれてくるが、いずれの子どもも発症する心配はないとのことだ、検査の結果、私はこの遺伝子をもっていなかった(日本人には稀で1000人に一人ぐらいの確率だそうだ)のでこのケースにあたり、まずはひと安心だったのだが、妻は自分の体が小さく、手足もちょっと短いのはこの病気のせいなのではといらぬ心配をはじめた。
調べてみるとこのサラセミア遺伝子の保持者は、タイ北部では20~25%にもおよぶ。つまり5人に1人から4人に1人はこの遺伝子をもっている計算で、ある意味ではありふれた遺伝子とはいえ、当然この遺伝子をもった者同士の結婚、出産の確率も高く、実はなかなか深刻な状況にあるらしい。そのためタイの病院では妊婦は必ずこの検査を受けるのだそうだ。
さらに興味深いことに、この遺伝子の保持者はなぜか統計的にマラリアに感染しにくいという研究報告があることがわかった。これを読んで私は膝を打った。なぜこの遺伝子の保持者が熱帯地方に多いのか。この遺伝子を受け継ぐことで、貧血のリスクと引き換えに彼らはマラリアに打ち克って生き延びてきたのだ。山岳民族の人々もマラリアと格闘しながら、この遺伝子によって山岳地帯での過酷な生活をサバイバルしてきたのかもしれない。
生物界においては、突然変異などで出現した一見生存には適さないと思われるような形質が、ある局面においては健常者に比べ格段に有利で優秀な形質として働くということはよくあることである。
近頃は地球温暖化のせいか、マラリア蚊の生息限界地域は年々北上し、拡大している。日本にも上陸間近らしい。近い将来、人類はもしかしたらマラリアで滅びるのではないかとさえ言われている。そうなったとき生き残るのは、このサラセミア遺伝子を持った人々ではないか。なんて。
息子がもしサラセミアの遺伝子をもって生まれてきたら、それを武器にして山の中で生き延びてほしいものであると思った。
2010年09月01日 「鶏肉だけで1ヶ月」
今年の正月。妻は出産予定日が過ぎてもまだ陣痛が起こらず、やっと4日ほど過ぎて1月6日の未明に陣痛が始まった。
急いで病院に送り、妻はそのまま分娩室に入ったが、医師によればかなりの難産が予想されるという。あまりに眠かったので、彼女の従姉妹にあたる女性にまかせて一度家に戻って一眠りしていたら、まもなく従姉妹から「生まれたよ」と電話がかかってきた。医師はあれからすぐに帝王切開に切り替えたという。それならそうで、お医者さんも従姉妹も叔母さんもひとこと電話ぐらいしてくれれば。まあ、そもそも睡魔に負けて家に帰ってしまった私が悪いのだが。
3600グラムの男児、母子ともに健康ということで、まずはひと安心。こなきじじいのような顔をして眠っているこの赤ん坊が自分の子どもであるという実感がわいてこない。なにか未知の惑星から送り込まれた生物のようだ。
生まれたばかりの息子
今年、私より4歳下の50歳の友人(タイ人女性と結婚して二十数年の日本人)が「いやー40の恥かきっ子ですよ」と照れながら6歳になる娘さんを連れてきて、この娘が20歳になるときは俺は64歳、定年が延長できたとしてなんとか大学まで出せるどうかのぎりぎりの線なんですよね」と言っていたが、そうか普通の人々はそういう堅実な逆算をして子作りをするわけかと感心しながら、自分の息子が20になったときの自分の年齢を計算すると、なんと75歳だ。生きてねえ! 今の私の健康状態からしてそこまで生きるのは絶対に無理だ。運よく生きていたとしても、仕事なんてできる体じゃないだろうし、どうやって家族を養っているのだろうか。
などといまさら後悔してもしょうがない。なんとか母と子二人住める住処ぐらいは残してやる父親だろうか。
息子の名前は妻の希望で日本風の名前をつけることにした。インターネットの怪しげな無料姓名判断の結果に従い、「雄司」と名づけた。候補は他にもあったが、重視したのは、タイ人にとっても呼びやすい名前ということだ。日本人にとっては立派な名前でもタイの人には正確に発音できなかったり、発音できても変な意味にとられてしまう名前がある。たとえば私の「タカシ」という名前はタイでは「タカチー」としか発音されないし、「ジュンジ」とか「シュンスケ」なんて名前にいたってはタイ人の舌をもつれさせるだけ。息子の誕生のときまだ存命だった母親からは「大志(たいし)なんてどう?」と勧められたのだが、タイ語では「ターイ、シー」(死ね!)となってしまう恐れがあるので却下した。私の友人は「ヒサオ」という名前だが、タイの男たちから「ヒーサオ」「ヒーサオ」と呼ばれてニタニタされている。(意味については説明をはぶくが)
念のため、妻に「ラフ名とかタイ名とか、つけとかなくていいのか」と聞くと「いらない、日本の名前だけでいいわ」という。え? なんだか妙に殊勝な態度だな。つまり妻は、ラフ族としてのアイデンティティーを捨て、息子を日本文化に親しませ、日本人としての自覚と誇りのもとに、日本人として育てようってつもりなんだな。
さくら寮生たちも病室に駆けつけてくれた
と油断したのが大間違いだった。その後、日本名をつけた意味はいったいなんだったのと問い返したくなるような不可解な行動に妻は突っ走っていくのである。
その最初の兆候。妻は、出産後1ヶ月間、鶏肉以外のものをいっさい口にしなかった。
なんでも、ラフ族の慣習により、産婦は出産後一ヶ月間は鶏肉しか食べてはいけないという決まりになっていて、その教えを忠実に守ったのだった。しかしそれは栄養に人一倍気を使わなければならない出産直後の母親としてはあまりにも不自然で偏った食生活である。
「いくらラフ族の教えだって言ったって、やりすぎだろう」と私が言うと
「ラフ族だけじゃないわよ、アカの人だってリスの人だって、昔からずっとそうしているの」と反駁する。
「それはな」
と私も反撃する。
「昔はどの民族だって貧困のせいで、結婚式や葬式とかの冠婚葬祭でもない限り、日頃は菜っ葉とかかぼちゃとかしか食べることができなかったんだ。肉とか魚、卵なんてのはぜいたく品だから、恒常的に動物性蛋白が不足気味の生活をしてたんだよ。だから産褥婦とか病人とか、特別に体力と栄養をつける必要がある人には「とりあえず鶏肉だけ食わせろ」っていうような極端な教えが流布されたわけ。確かに鶏肉は脂肪もコレステロールも豚肉や牛肉よりは少ないから理にかなってるけど、それは手に入りやすくて栄養価の高い食べものの一例に過ぎないんだって。今の世の中、日常的に豚肉も鶏も卵も食ってんだから、出産後だからって鶏肉だけにこだわる根拠はないんだよ。脂っこいもんじゃなければ、普通にご飯だって魚だって野菜だって海草だって食っていいんだよ。ほら、日本の育児書や、インターネットの子育てサイトにも書いてある。出産直後の母親には低カロリー、高蛋白のバランスの取れた食事をって。鶏肉だけなんてあきらかに偏食だぜ」
「いいの、今までラフ族はそうやって子どもをちゃんと育ててきたんだから」
どれだけ、論理的に説明しても、妻はついに1ヶ月間、鶏肉以外のものを口にすることはなかった。おかげでというべきか、妊娠時56キロまでいった体重はみるみる減ってたちまち45キロぐらいまで落ちた。ダイエットには一役買ったのかもしれないが、もっとバランスのいい食事をしなければ母子ともに健康に育たないし、母乳の味や質にだってかかわってくる。魔よけの札を家の入り口に貼っておくとか、悪霊が頭に入るといけないから帽子をかぶせるとか、そういうレベルならまだ笑って許せるが、こと食事に限っては母子の健康に関わることであるから、一言口を挟みたくなるというものだ。
この一件をはじめとして、妻は子育てに関して、自分の両親や祖父母、親戚の言うことは忠実に守ったが、それ以外の情報については、たとえ、医師のアドバイスであろうとブリタニカ百科事典であろうとネット情報であろうと、なにひとつ耳を傾けようとはしなかった。
妻は小学2年生のときに山を降りて以来15年間、町の学校で学校教育を受けた。一応短大卒業と同程度のポーウォーソー(職業専門学校上級課程)まで出ている。しかし、頭の中はまったく村にいたときのままで、まったく進歩していない。ラフ族の常識こそが世界の常識だと今でも固く信じきっているのである。
西洋医学が万能であるとも思わないし、先祖代々の教えを守り、その知恵を受け継ぐのは決して悪いことではないが、それも度を越して、自分の生まれ育ったコミュニティー以外のアドバイスをまったく受けつけない頭の固さも考えものだとつくづく思う。
寮生たちも次々と見物にくる
2010年10月29日 「第7回寮生訪日雑感」
10月の学期休みを利用して、18日間にわたる寮生日本研修旅行に同行してきた。
さくら寮生の日本研修は今回で7度目だが、これまではたいてい4月頃の実施で、秋に決行したのは初めてだ。10月2日、3日に東京日比谷公園で開催された国際協力の祭典、「グローバルフェスタ・ジャパン2010」にさくら寮生たちを参加させることが、今回の研修旅行の主要なミッションのひとつだった。
「グローバルフェスタ」は外務省主催による、政府機関、国際機関、NGOなど270を超える国際協力団体が出展する年一度のイベントで、さくらプロジェクトも毎年出展し、寮生や山岳民族の人たちが作った民芸品を展示、販売しているが、寮生たちが参加するのは今年が初めて。会場では民族衣装を着用し、ときおり店先で突然太鼓を叩いてラフ族の踊りを披露した。
グローバルフェスタに参加した6人の子供たち
会場では突然路上ライブでラフ族の踊り
今回は東京のほか、千葉、山梨、長野、神戸、岐阜などの各地を訪問してまわったのだが、男子1名、女子5名、引率の私を含めて計7名がほぼ全行程を全員が同じ家にホームステイさせていただくという大所帯での旅となった。日本では一度に7人もの客を泊められるお宅はそうそうあるわけではないが、各地でその条件にかなったホストファミリーが名乗りを上げてくださって実現の運びとなったのだ。
ときには男も女もふすまひとつ隔てて雑魚寝というほとんど修学旅行の夜のような夜もあった。うら若き娘さんたちと雑魚寝なんて楽しいじゃないかと羨ましがられるかもしれないが、大変なことも多々あった。普通のご家庭にはトイレはひとつ、せいぜいふたつしかないから、朝などトイレ争奪戦争が勃発し、便秘気味の生徒たちに長時間占拠されて中高年性頻尿の傾向がある私などは、あやうく小便をちびりそうになったりするのだ。しかしそれでも、毎日何らかのイベントが組まれているので、移動や送迎の便を考えると、全員が同じところに宿泊できるのは実にありがたかった。
集団でのホームステイは気楽で賑やかな反面、問題点もある。寮生たちは出発の半年前から週5日の日本語の特訓を受けてきたのだが、このようなパック旅行的状況では日本語会話の実践的修行を積むのはむずかしい。ホストファミリーより客のほうが人数が多いのだから、茶の間での会話はついついタイ語勢力が優勢となってしまうのだ。「ここは日本なんだから、日本語をしゃべれよ! ホストの方に失礼だろ」と何度怒鳴ったことか。
まあ、短期間での日本語の上達には限界があるとしても、やはり教えておくべきだったのは、「日本人の心」というやつだった。と今にしてつくづく思う。日本語会話の習得に重点をおきすぎて、日本の歴史や文化、なにより日本人の価値観や考え方を伝授するのを怠っていたのだ。
ホームステイ先ではこんな具合に寝ていた
そのことを痛感したエピソードの一例。
ヤオ族の高校2年の女子Sは、まだ幼さの残る16歳。今回の参加メンバー中最年少である。日程の後半、Sは大阪に滞在していたグループと別れ、伊勢市にお住まいの里親さんご夫婦のお宅に一泊だけホームステイさせていただく予定になっていた。
それまで他の寮生たちと元気いっぱいはしゃいでいたSだが、いよいよいたったひとりでタイ語の通じない相手と一昼夜をすごさなければならないということで、かなりプレッシャーを感じているようだった。けれど、これこそがホームステイの本来の姿なのだ。私たちに背中を押されて、SはボランティアのKさんに付き添われて緊張の面持ちホームステイ先の伊勢に旅立っていった。
その夜、里親さんからSの無事到着と、家での様子を伝える電話がかかってきた。どうもホームシックのせいか元気がなく、借りてきた猫のようにしょんぼりとしているという。「どうしたもんでしょうかねえ。やっぱり仲間と別れて寂しいんですかね。もうひとりお友だちにも一緒に来てもらえばよかったのかしら」
言葉も通じないし、里親のかたもどう対処していいのか、途方にくれていらっしゃるようだった。結局Sは、その夜、シャワーを浴びると夕食にも同席せずに寝室に引きこもり、朝まで出てこなかったという。
翌日、集合先の岐阜までSは里親さんに付き添われてやってきた。友人たちと顔をあわせると再び水を得た魚のように元気にタイ語ではしゃぎはじめた。現金なもんだ。 集団でいると気が大きくなって傍若無人に振舞うが、単独行動させたら何もできなくなるというのは、日本人もタイ人も同じかもしれない。
里親さんが帰ったあと、私はSに少し強い口調で説教した。
「なんだって、夕食も食べずに部屋に引きこもって寝ちまったんだ」
「だって昼間いただいたラーメンだけで満腹になっちゃったし、疲れてたんだもん」
「たった一晩のことじゃないか。片言の日本語でも、身振り手振りでもいいから、なんでせっかくの団欒につきあってあげなかったんだ」
そう言うと、勝気な性格のSは、不満そうに早口で私に食ってかかった。
「里親のかたが『疲れていたら先に休んでいいのよ』とおっしゃってくださってるのに、それを拒否しなきゃならない理由があるんですか」
私もこの一言でカチンときて、テンションがあがった。
「違う。そうじゃないんだ。それは日本人一流の思いやりの言葉というやつだよ。でも本心は違うんだ。言葉の裏側を読むってことが大事なんだ。里親のかたは君の来訪をそれこそ何ヶ月も前から心待ちにして、君がきたらどこへ遊びに連れていこうとか、何を見せてあげようかとか、夕食には何を食べさせてあげようとか、それこそわくわくしながら、綿密に準備してきたんだ。たとえ満腹で食欲がなくたって、君は一緒に食卓に座って一口でも口をつけるべきだった。それが人間の思いやりってもんだろ。料理が食べられなくても、辞書をひきながら日本語で会話をする努力をすべきだった」
しかし、言い終わって、まだ16歳の子どもにこんなことを説明しても無駄だったかもしれないと思った。日本人の気持ちや行動、言葉の奥や行間を読むということを、一朝一夕に理解することは難しい。
これまでの訪日寮生にもそうした傾向はみられた。たとえば夕食後、シャワーが終わったころを見計らって、ホストファミリーのかたが「お茶でも飲む?」と声をかけてくださる。日本人にとって「お茶でも飲む?」という誘いは、単にお茶やコーヒーを飲みたいかと問うているのではない。「お茶を入れてケーキでも食べながら一緒にお話でもしますか」という団欒への誘いの意味が内包されているのだ。それが理解できないから寮生たちは「今は喉が渇いてないからけっこうです」と断ってしまう。もちろん、それが遠慮というものだと理解している場合もあるのだが、たいていは「お茶をたしなむ文化」がないゆえに、言葉を字義どおりにしか解釈できないのだ。
これが文化の違いというものだ。
相手の立場に立って行動したり、物を考えることのできる数少ない民族である。それは本来誇ってよい美徳であるはずなのだが、そうした文化のない国の人々に対してはまったく理解されなかったり、かえって誤解を招くだけの結果になる。
今回は日本という土俵でのことなので好き勝手なことを書いているが、これがタイでの日本人の行動ということになると、あまりタイ人のことばかり批判できないのかもしれない。
ホームステイ先での食卓
2010年12月23日 「翻訳ソフトは文豪か」
今年のクリスマス会のステージより
12月はとにかくやたら忙しかった。
この時期はウィンパパオの暁寮との親善スポーツ大会、父の日のイベント、それに寮内クリスマス大会など毎週末にイベントが目白押しなのに加え、寮生たちが自分のそれぞれの里親宛てにいっせいに手紙やクリスマスカードを書く時期なので、100通を超える手紙を日本語に訳して発送する作業をこなさなければならない。
さくらプロジェクトにはタイ語の読み書きができる翻訳ボランティアのかたがたが日本やバンコクに8名ほどいらっしゃって、メールのやり取りなどによって子どもたちの手紙の翻訳をお手伝いいただいているのだが、今年はなぜか引き受けてくださるかたが少なく、苦労した。師走はどなたも忙しいというのもあるのだが、もしかしたら翻訳ボランティアのかたも長年寮生たちの手紙を翻訳してきて、そのワンパターンな内容にややうんざりしはじめているのかもしれないとも思った。ボランティアの人だって無償の仕事とはいえ、訳しながら手紙の内容にときめきや感動や新しい発見をしたいのだ。
原因はひとえに寮生たちの作文能力と創造力の貧困にある。
以前にも書いたが、タイの学校の国語の授業方針のせいなのか、はたまた本人の努力が足りないのか、子どもたちには紋切り型の文章は書けても、自分の感想や意見を盛り込んだ自由奔放な作文をする能力が培われていないように見える。学校でも手紙の書き方は教えているとみえて、季節、気候の挨拶や相手の健康への気遣いに始まり、最後は相手の幸運と健康、仕事の活躍と繁栄を願うという定型句はちゃんと書けているのだが、問題はその間に挿入すべき本文である。これがまったくなっていない。あんこの入っていない饅頭、具のないサンドイッチのような状態なのだ。
寮生たちの手紙の内容はどれもが10月の学期休みに村に帰って両親の畑仕事の手伝いをしてきたという話だけである。もうちょっとなんというか、目先を変えて書けないものか。ちょっと気になる異性のことでも、家族や友人に関する悩みでもいい。日々の生活のなかで起こった小さな事件や、揺れ動く自分の心の内面をさりげなく綴ってみるとかさあ。
タイの価値観では、そういう私事を目上の人に対して率直に吐露するのは失礼でもあると教育されているのだろうか。判で押したようにあたりさわりのないきれいごとしか書けないのである。これじゃあ、毎年同じ内容の手紙を読まされる里親のほうだってうんざりしてくる。
と、まあ、愚痴ばかりこぼしていてもしょうがない。とにかく目の前にある手紙の山の翻訳をこなしていかねば、こちらとて安心して年が越せないのである。
そんなとき、10月に日本への研修旅行から帰ってきたばかりのモリラット・ジャトーが「私、隆兄さんの負担にならないように、日本語で手紙を書いてきました。訳する必要はありません。そのまま送ってください」とパソコンでプリントアウトされた手紙を手に嬉々としてやってきた。漢字も使ってある。日本へ行ったからといってまだ彼女に漢字まじりの手紙を書くほどの能力はないはずだ。どうやらインターネットの無料翻訳ソフトを使ったようだ。
一読して私はその珍文に噴き出してしまった。内容は以下のとおりである。宛てたのは日本でお世話になった里親の容子さんというかたである。
私の車にヨーコ市フーミン。
こんにちは、私の市フーミン。罰金かは私の罰金。喜んで私の手紙を探してください。カン市ミン今タイの非常に寒いと日本のことを私は好きです。この時点で、初めて日本への旅。カムは、経験を見つけるのに良い思い出です。日本では今日はない夢を持っていなかった。日本ではそれがすべてのケアは非常によかった、特に兄弟が待って、良い習慣を愛して非常に良い時間をすれば良いのです。ポンは、すべてで厳格な規律、非常に日本の印象的です。利他的な彼らはパーティーに苦難を作成せずに生計を立てていた。ほとんどのタイ人は日本人は日本の町に行きたいです。とても奇妙驚くべき新は、常に非常に暖かい歓迎、天気は寒いですが、しかし、暖かい心に感動され、多く存在するため。私は私のようなタイの人々は、日本が実際に考えたことがない思い出を作成する機会があることを信じることができない。完全に問題はないがそして今日、私は、ほとんど私自身が行うことが幸せにお会いする機会があった。私はまた、私は彼らが本当に感謝して与えているすべてをありがとうございました。
すぐに戻ってからタイに住んでいる。私は日本の生活の中で最初に行くことについて多くの質問を参照してくださいに返されます。それから、彼らは別の場に行くことに興奮して高校の学生のためのマリアムさんの本の最後の学期に私を開始した。日本ではパイフー市は、常にログインそれと医療を考えるように頼まれませんでした。一緒に活動を行う瞬間をいただき、ありがとうございます。非常に楽しさと幸せを感謝しています。
はラットから織り込まれています。
フーミンとは、カンとは、ポンとは(笑)。一見、誤訳だらけの意味不明の文章だが、外国語と格闘されたことのあるかたはその経験から半分ぐらいの内容が想像できると思う。タイ語から日本語への翻訳ソフトを使ったのか、一度英語に翻訳したのを再度日本語に翻訳したのかは定かではないが、「私は罰金」という訳文によって、一度英語を経由しているらしいことが推測できる。英語で「元気」を意味する「fine」という単語には「罰金」という意味もあるからだ。
タイ語、英語に関わらず、翻訳ソフトの迷訳ぶりにはときどきはっとさせられる。そして爆笑させられる。人間の頭脳では思いもつかないような斬新な名文、珍文を紡ぎだしてくれるからだ。天然ボケの大作家である。
スタッフはヘビメタ・バンドに挑戦(?)
おそらく人間の脳内の言語野には、たえずファジーに自己修復を繰り返しながらバランスを保とうとする本能というかホメオスタシスのようなものが備わっているのだろう。あえて支離滅裂なことを書こうとしても、どこかわざとらしい不自然なものになってしまう。論理的なまっとうさを保とうとする知能の回路が働いてしまうのだ。音痴でない人が音痴の人を真似てわざと音程をはずして歌を歌っても、本物の音痴のかたの繰り出すメロディの滑稽さには遠く及ばないのと同じである。普通の人が気のふれた人を演じるのもけっこう演技力を必要とする。
さくら寮ではときどき「宇宙人同士が出会って会話をしたらどうなるか」というテーマでワークショップをする。いろんな星からやってきて一同に会した宇宙人たちに扮し、それぞれが星の代表としてその星の言語を使って宇宙平和について意見を述べ、激論をかわす宇宙円卓会議というような設定である。しかし、子どもたちは結局どんなにでたらめな異星語を操ろうとしても、その発音や語彙の傾向は自分の母言語に引き寄せられてしまう。
作為的に自分の論理や生理に反したランダムネスを作りあげるという作業に人間は適していないのかもしれない。
できの悪い愚直な翻訳ソフトはその点、そのあたりのまっとうさをやすやすと超越して、はからずも意外性に満ちたシュールリアリズム風の文学作品を作ってくれる。コンピューターはもしかしたら新たなる現代文学の傑作の誕生を可能にさせるかもしれない。
里親のかたがたにもこういう奇妙奇天烈な訳文を送りつければ、凡庸な内容の手紙を読まされるよりも、かえってパズルでも楽しむ感覚で読んでいただけるかもしれない。
来年はひとつ、子どもたちの手紙は翻訳ソフトに全部翻訳させて送ってみようか、なんて。
今年のクリスマス会のステージより
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