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リス族の子供達

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さくら寮日記 2011年

子供たち

2011年01月15日   「人生いろいろ結婚いろいろ」


年末はひさしぶりに休暇をとってミャンマーのチェントンに行ってきた。メーサイからタチレクに入り、イミグレで入域許可証をとり、バスに4時間揺られていくのだが、おととし頃からシステムが変わって必ず全行程、ミャンマー人のガイドを同行させなくてはならなくなった。お金もかかるし、いつも監視されているようで、なんだかなあという感じである。(といってもガイドは三食昼寝付きで、ゲストハウスで昼寝していただけだが)

しかし今回はチェントンの話ではない。

12月31日、5日間のミャンマー旅行を終えて午前中にチェンラーイに戻ってきたら、留守番をしていたスタッフのTが開口一番こう報告した。

「さっき卒業生のオロタイから電話があって、今日、午後から村で結婚式をあげるから万障繰り合わせて出席するようにとの伝言です」

 出席するように、って。唯我独尊のリス族らしい命令口調である。

 オロタイ・レトゥはさくら寮の一期生で、リス族の女性。一期生とはいってもさくら寮に入ったのが6歳のときだから、今もまだ若くて24歳だ。2年前に大学の観光学部ホテル学科を卒業して某リゾートホテルに就職している。小柄だがとても朗らかで快活な女性である。

 おいおい、今日の午後からの結婚式に、当日の午前中のご招待かよー。しかも電話で。それに今日は何月何日だ。タイでもとりあえず今年最後の日だぞ。日本じゃ大晦日に挙式するカップルなんてみんなから「空気の読めないカップル」として、一生ネタにされること間違いない。

 まあタイの場合西暦の新年は、年が変わるカウントダウンの前後数時間にわたって爆竹やら花火などを派手にぶち上げて、酒をくらって近所迷惑も考えずどんちゃん騒ぎするぐらいが関の山で、日本ほど文化的に重要な意味はないのだろう。どさくさにまぎれて結婚式をあげるカップルがいてもなんら不思議はない。まあ大晦日はいいにしても、せめて1週間ぐらい前に知らせてくれたっていいじゃないか!

   などとぶつぶつ文句を言いながらも、やはり卒業生が結婚式に招待してくれるのはうれしいものだ。ミャンマーでタイヤイ族の村などを歩きまわって疲れ切った肉体に鞭打ち、スタッフとともに車で1時間ぐらいのところにあるホイサン村に出かける。

オロタイ家の界隈にはすでに村人が集まっていて宴会の準備が始まっていた。リス族では村の中で披露宴をする場合、親類やご近所の各家からひとりずつ料理や皿洗いなどの労働力を供出しなければならない。村人たちも「寝耳に水だ」などとぼやきながら、それでも淡々と米を炊いたり、大鍋を洗ったり、豚肉をぶった切っていた。まだ若い村長も「今朝知らされた。俺だって村人だって何の準備もしてねえーよ」と口をとんがらせている。

なんと新婦の両親も二人の結婚を知ったのは前日のことだという。

 宴会に使う豚だけはちゃんとこの日のためにオロタイ家で飼われていたので問題はないが、酒、ソフトドリンクその他の食料は午前中、親戚一同であわただしく市場に買出しに行ったという。  新郎新婦はふたりともバンコクで別々の会社で働いているのだが、建設会社で現場監督をやっている旦那が仕事の関係で年末からチェンラーイに出張することになって、オロタイも年末年始の休みがもらえた。最初はこの機会に新婦の親に挨拶して結納の儀でもすませておこうという話だったが、結局、面倒くさいからこの際式も挙げちまおうと、この能天気なカップルは前日の夕方、バンコクのモチット・バスターミナルあたりで決心したらしい。さっそく双方の両親に「明日結婚するからな」と電話を入れた。

  新郎の出身地であるウボンラチャタニー(カンボジアの国境近くである!)から15時間かけて一族郎党を乗せたマイクロバスが到着したのは翌日の夕方、つまり披露宴もほぼ終わって私たちがオロタイの家を去った後らしい。いやはや人騒がせなカップルだけど、ふたりとも明るく冗談が好きで、とても気が合うカップルのようだ。

新郎26歳、新婦24歳、お幸せに
新郎26歳、新婦24歳、お幸せに

こういう言い方も変だが、このふたりの結婚はいたってノーマルな部類である。寮生の中には何が何だかわからないうちに結婚していたというケースがいくらでもある。

数年前、当時さくら寮にいたモン族の15歳の少女Sが正月のために数日間村に帰っていた。モンの正月が終わっても寮に戻ってこないので心配していたら、同じ村出身の寮生からSはもう結婚したとの情報が。Sはある夜、新郎の友人たちによって突然拉致され、新郎宅に監禁されそのまま結婚することを余儀なくされたのだという。いわゆる「嫁さらい婚」というやつで、当人同士納得済みに場合もあれば、男性のほうが一方的に目をつけた相手を強引に連れて行ってしまうケースもある。Sの場合も最終的には合意となったけれども、特に意識もしていなかった相手に、まったく唐突に連れていかれたらしい。日本なら未成年者誘拐の重罪である。いまだにこんな風習が残っていたのか。

ま、民族もいろいろ、結婚もいろいろである。

結婚式はいたってシンプルに行われた
結婚式はいたってシンプルに行われた

リス族の宴席
リス族の宴席


2011年02月10日   「20周年記念イベント」


新寄宿舎開館セレモニーの様子
新寄宿舎開館セレモニーの様子

1月28日、チェンラーイのさくら寮にてさくらプロジェクト20周年記念のイベントが開催された。新しく完成した新男子寮「せいほく館」の竣工式典も兼ねており、日本からは新寄宿舎の建設費を提供してくださった東京西北ロータリークラブのメンバー12名をはじめ子どもたちの里親、支援者など総勢50名の日本人が訪タイして式典に参加してくださった。タイ国内からはチェンラーイ県副知事、 在チェンマイ日本国総領事館の佐藤領事にもご出席いただき、ご祝辞をいただいた。またチェンラーイ社会開発人間保護省のお役人、各NGO、地域住民の代表者、子どもたちの通う学校の関係者の来賓、それにさくら寮卒業生、OBも多数駆けつけてくれ、なかなかの盛況のうちに終わった。

こうした記念イベントを開催するのはさくらプロジェクト20年の歴史の中では初めてのことである。10周年を迎える頃はあわただしく、なんとなく機を逸してしまい、15周年が過ぎる頃は さくら寮の大黒柱だったジョイさんの闘病やスタッフ不足など諸事情が重なってそんなことを考える余裕さえなかった。そもそも私自身はこの手のセレモニーを執り行うのも、また参加するのも苦手だ。形式的で堅苦しいことが嫌いなのである。一年じゅうTシャツと短パンでギターでもつま弾いているのが至福だと思う人間である。できるかぎり肩肘張ったことは避けてとおりたい。

 しかし、この先、さくらプロジェクトに30周年を迎える日はくるのだろうか、そもそもそれまで私自身は生きているのだろうかと考えると、20周年のこの節目をやり過ごしたら、もう永遠に○○周年イベントなんてことをやることはないだろうという予感を抱いた私は、なりゆき婚で長年挙げそびれていた古女房との結婚式を挙げるような気持ちで、重い腰をあげ、えいと気合を入れてこのイベントを企画したのだった。

 予算も限られているので、式典準備はすべて手作りで行った。お客さまにふるまう料理はもちろんのこと、20周年記念会報(タイ語版)の編集や印刷、記念品の選定や包装、プログラムの作成、招待状の作成、会場の設営から装飾、垂れ幕のレタリング、パネル展示、庭の整備、司会進行、PAにいたるまですべてさくらのスタッフと寮生、卒業生の協力によって行った。あまり見栄えがよくない出来のものもあったが、外部のイベント屋に依頼すればすむことも自力ですべてをこなしたことは、スタッフや寮生には大きな自信と経験になったのではないだろうか。

新寄宿舎の開館式典会場
新寄宿舎の開館式典会場

 思いおこせば1991年の3月の暑期まっさかりの時期に、熱中症で倒れそうになりながら、手作業での最初の木造のさくら寮寄宿舎建設が始まってから20年。あっという間だった。

 確かこのコラムの最初の回にも書いたと思うが、さくらプロジェクトを始めたのはちょっとした偶然の出会いときっかけが重なってのことだった。最初は2、3年お手伝いしたらあとは現地に人にまかせて、ふたたび放浪の旅にでも出る計画であった。しかし、次から次と待ち受ける艱難辛苦のトラブルと格闘しているうちに、簡単に現地の人にまかせてトンズラできる状況ではなくなってしまった。途中からはなんだか変な意地もでてきて、さらにその後は責任とか義理とか人情とかいろいろなしがらみがくっついてきた。で、気がついてみたら「タイで骨を埋められるんですか」と聞かれるまでどっぷりとこの地にはまりこむことになった。

 ここまでやってこられたのは、日本の支援者のかたがたの経済的なバックアップ、歴代のスタッフ、ボランティアのみなさんの努力の結果であることはもちろんだが、最初にプロジェクトをたちあげた土地がこのナムラット村だったということも、大きな要因だったと思う。

 ナムラット村は、山岳民族の子どもたちを受け入れる私立の学校としてはタイ北部でも最大規模のサハサートスクサー・スクール(現在の生徒児童数は2000人を超える)を擁し、この学校を中心に日本、韓国、台湾、オランダ、シンガポールなどのNGOが運営する大小20以上の寄宿舎がひしめく、いわば「NGO銀座」である。まさにかつてサハサートスクサー・スクールの英語名だった「United Village」であり、ある意味特殊な環境の村なのである。50年以上前から、遠く離れた村からやてきた山岳民族の子どもたちが寄宿舎生活をして、村の一員としてなじんでいた。住民の約半分もカレン族など少数民族の人たちで、仏教を信仰する平地タイ族の住民の方々もこうした異文化の存在を受容する寛容さを身につけているのである。子どもたちが多少騒いでも目をつぶってくれるし、クリスマス会や運動会などのイベントで大音響を鳴らしても大目に見てくれる。 このことが地域の活性化にも役立っており、共存共栄というわけでもあるが、仮にさくら寮を建てたのがナムラット村でなく、コンムアン(平地タイ族)100%の村の中だったりしたら、少なくとも私はここまで続けることはできなかったと思う。

写真展示場での寮生たち
写真展示場での寮生たち

 今回の式典開催で一番うれしかったのは、多数のさくら寮OBが駆けつけてくれたことである。さくら寮の歴代入寮者数はこれまでに439名。卒業生は中途退寮を含め約340名。難関の試験を突破して国家公務員になった3名を含め、学校の教員、日系企業に勤める者、村の役員をやっている者などいわゆる出世組も多数輩出している。

 出席者の中には一人でぽんと5000バーツもの寄付金をおいて帰ったOBもいた。いや、出世していようといまいと、寄付金も手土産もなかろうとも、とにかくさくら寮を忘れずにいてくれて、平日の開催であったにもかかわらず仕事を休んでバンコクやチェンマイから駆けつけ、顔を出してくれただけでも私としてはうれしかった。

式典が終わって、夕食後のさくら寮生との交流会では、OBたちが次々と自発的にステージに上がって、さくら寮での思い出やさくらプロジェクトに対する思いを語ってくれた。これまでの苦労が報われ、ボランティア冥利に尽きるひとときであった。やっぱ少し疲れたけどね。

壇上に上がって記念写真を撮るさくらOBたち
壇上に上がって記念写真を撮るさくらOBたち


2011年05月23日   「新学期は繰り返す」


今年のさくら寮生たち
今年のさくら寮生たち

タイは新学期である。さくら寮でも毎年この時期は、てんやわんやである。さまざまな問題やハプニングが続発する。ハプニングといっても、毎年恒例の想定内の出来事なのでもう驚きはしないが。今年もやはり起こった。まるでデ・ジャ・ヴ(既視現象)でも見ているようだ。

 まずは14歳で中学2年進級する予定だったラフ族の少女C。学期休み中に結婚していた。相手は40代のバツイチの男だそうで、何やら怪しいビジネスで稼いだアブク銭で囲われたのではないかと勝手に想像してしまうが、うーむ、許可した保護者も何を考えているのか。

 学期休み中のある日、Cがひょっこり寮に現れて、部屋の自分の荷物をまとめて運び出していたので、問い詰めると、「来年度はもう寮にはいません。学校もやめます」という。では学校をやめてどうするのかと聞くと、「母親が病弱なので家にいて面倒をみなければならないんです」との答え。だが、彼女の母親が病気がちなのは今に始まったことではない。この時期に彼女が退学しなければならない根拠としては説得力に欠ける。あまりにも説明があいまいなので、あやしいとは感じていたが、やはりその時点ですでに結婚していたのだ。

14歳で結婚。そりゃまあ、初潮が始まったとたんに結婚しちまうというのは生物学的に見れば効率的といおうか、本能的な衝動に従ったある意味自然な行動なのだろうけれど、ラフ族においても、ここまで若くしての結婚は失敗と後悔に終わる確率が非常に高い。人生それぞれ、学歴を積むだけが幸せへの道じゃないとはいうものの、こうしてやめていった子の多くは、あとになって、あのとき早まって退学なんかしなきゃよかったと後悔したり、自分の運命を呪うはめになるのである。わかっちゃいるけどやめられない。一応説得は試みるが、彼女たちには一度決めたら自分の考えを曲げない頑固さがある。傍の誰にも止められない。過去にも先輩たちのそういう失敗例は飽きるほど見ているはずだが、自分だけは例外だと思ってしまう。他人の体験や失敗から何も学べない。まあ、前回からしつこく力説している、他者の存在を自己の存在の鏡として想像できないという一例である

。  高校2年のモン族の少女Rは、明日、姉が結婚するかもしれないので家に帰らせてほしいといってきた。寮に戻ってきてまだ3日なのに、また村に帰るというのだ。

「結婚するかもしれないって、どういうことだよ」

「あの、実は姉に外国人との縁談が持ちあがってるんです。明日はタイ人の結婚仲介業者がその外国人を連れて村に来る日です。外国人の男性は5人ぐらいきて、姉も含めて私の村の女の子たちとお見合いするんです」

 近頃は嫁不足の国に住む外国人に山岳民族の若い嫁を紹介する結婚斡旋会社があるらしい。ラオス国境近くにあるRの村にも、はるばるその集団見合いツアーの一団がやってくる。今回のツアーは日本にも近い某東アジアの国からだとかで、20歳のRの姉の写真やプロフィールは相手方にすでに送られていて、明日がいよいよ最終実物確認、本人同士の集団見合い(品定めといったほうが直截的か)が行われるらしい。

「だけど姉さんの見合いぐらいで、妹がわざわざ100キロも離れた村に帰ってつきそう必要もないんじゃないの」

「それが、もしおたがいに気に入って同意したら、その日のうちに結婚式になるんです」

 なんじゃ、そりゃあ。なんだかあやしい結婚斡旋システムだなあ。

「見合いに来たやつらが、お姉さんじゃなくて君のことを気に入っちゃったらどうすんだよ。 よくあるだろ。タレントのオーディションを受けるのに付き添いでついてきた友達のほうがスカウトされちゃうってやつ」

「いやだー、私まだ結婚なんかしませんよ。まだ17歳ですよ」

「いや、だからあぶないっつーの。その手のお見合いツアーの参加者って、嫁は若けりゃ若いほどいいって手合いばかりだからさあ」

「心配ないですって」

その後、Rは二度と寮に帰ってくることはなかった…という展開になると話のネタ的には面白いかもしれないが、Rは二日後に無事戻ってきた。お姉さんの結婚もまとまらなかったらしい。申し訳ないがなんだかほっとした。

寮内の総選挙(?)によって寮のリーダーが選ばれた
寮内の総選挙(?)によって寮のリーダーが選ばれた

 今年は14名の新入寮生が入ってきたが、早くも入寮して2日目、中1の男子が夜中に脱走してそのまま退寮してしまった。村まで40キロの距離を歩いて帰ったという。こんなところにとうてい3年間もいられないと思ったのだろう。40キロ歩く根性があれば寮生活にだって耐えられると思うのだが。決断がはやすぎる気がしないでもないが、まあしょうがない。あきらめの速さも彼らは一流だ。

 在寮5年目を迎える小学5年のリス族の少女は、村から寮に戻ってきた数日間、泣いてばかりいた。単なるホームスックだとは思うのだが、心配した両親が迎えにきて、「悪霊がとりついているかもしれないので、村で悪霊払いの儀礼をやらなければならない」といって連れ帰ってしまった。入寮したら一ヶ月に一度しか帰宅することができないというさくら寮の規則も、泣く子と悪霊には勝てないのである。

まあ以上のようなことは日常茶飯事なのだが、今年はひとつだけちょっと深刻なニュースがもたらされた。小学4年生のラフ族女子、M(10歳)学期が休み中に村で体調を崩し、病院に担ぎ込まれた。極度の疲労感と呼吸困難で、一時は危険な状態に陥ったという。精密検査の結果、ASD(心房中隔欠損)という心臓病の一種であることが判明した。左右の心房を隔てる壁(心房中隔)に穴があく病気で、完治させるには、その穴をふさぐ手術が必要だという。チェンマイの病院に転送されることになった。心配だ。


2011年06月10日   「空白の5日間」


さくらエコホームの子どもたち
さくらエコホームの子どもたち

新学期早々、新入寮生のPにはすっかり振りまわされてしまった。

Pはアカ族の16歳の少女で今年から市内の専門学校の1年生である。入寮試験の成績もよく、面接での受け答えもしっかりしていて、いかにも聡明そうな生徒だった。

だが、応募時の入寮案内や入寮時のオリエンテーリングでさくら寮が携帯電話の持ち込みや使用を禁止していることを了解していたはずなのに、入寮早々、携帯電話をいきなり寮内に持ち込んで使っていたことでさっそく寮母に目をつけられた。

入寮してまだ数日後のこと、彼女が進学予定の職業専門学校の授業開始までにはまだ数日間あるというので、Pはちょっと家に帰ってきますとスタッフに一時帰宅届けを出して寮を出た。木曜日のことである。そしてそのまま6日間行方不明になってしまったのである。

ことが発覚したのは、帰っているはずの実家の父親から、娘に取り次いでくれと電話がかかってきたためだ。父親によれば家には帰ってきていないという。それは大変だということになり、Pが家にいたとき使っていたという携帯電話の番号を父親から聞き出して電話を入れて見た。

電話に出たのはP本人だった。いきなりさくらのスタッフから電話が入ってちょっと驚いたようだが、落ち着いた声で「今、風邪をひいてメースアイ病院に入院しているんです」と言う。メースアイ病院はさくら寮から約50キロ離れた公立病院で、彼女の村へ帰る途中に位置しており、近隣の山地民の人たちもよく利用している。

「さっき、お父さんから電話があったんだよ。親御さんは君が病気で入院していることを知らないのか」

「いえ。家は山中にあるので携帯の電波がつながりにくいんです。それに心配かけるといけないから…」

だけど16歳の少女が親にも連絡もせず自分の判断で入院なんて、なんか不自然だ。風邪ぐらいの症状なら、まずは村の実家に帰ってパラセタモールでも飲んで安心できる親の元で休養するというのがたいていのさくら寮生が選択するだろう行動パターンだ。だが、Pは自分が寝ている病室番号とベッドの番号まで告げてきたので、さくらのスタッフは「心配だからメースアイ病院に出向いて見てきましょうか」と提案した。私は直感的にPが嘘をついていると見抜き、スタッフに「無駄足になる可能性大だから、まずはメースアイ病院に直接問い合わせてみたら」とアドバイスした。案の定、病院のスタッフからはそんな名前の少女は入院していないという答えが返ってきた。

再び彼女に電話して、「本当に病院にいるのか。病院で調べてもらったらここ3日間に君の名前での入院履歴は見当たらないと言われたぜ」と追及すると、Pはしばらく沈黙を保ったあと「すみません。本当は今、バンコクにいるんです、いろいろ事情があって。詳しいことは帰ってから話します」

と答えた。

「とにかくすぐに帰ってきなさい。スタッフも君のお父さんお母さんも心配してるんだからね。それにもう明後日から授業だろ」

「わかりました。明日の朝、チェンラーイ行きのバスに乗りますから」

そう言って彼女は電話を切ったが、それ以後しばらく、こちらから彼女の携帯にはつながらなくなってしまった。親のほうにも連絡はないという。本当に彼女はバンコクにいるのか。誰とどこで過ごしているのか。
翌日の午後、電話がつながった。

「今、まだバスの中にいます。実は今朝、モチットに着いたのが遅くて、バンコクからチェンラーイ行きのバスがなくなってしまったので、チェンマイ行きのバスに乗りました。で、明日、チェンマイからバスに乗ってチェンラーイに帰ることにしました」

「おいおい、何考えてんだ。だったらわざわざチェンマイに行かなくったって、夕方の夜行便でチェンラーイに帰ってくるっていう手があるだろう」

やれやれである。結局その日はチェンマイの知り合いの家に泊まるという電話が入ったまま、再び連絡は途切れた。ときどきつながっては途切れる携帯電話での短いやりとりだけが頼りの追跡劇。だんだん、サスペンスドラマを見ているような気になってきた。

5日目の昼ごろ、Pはようやく寮に戻ってきた。寮母とともにさっそく調書作成開始である。

Pの口からよどみなく出てくる5日間の行動の軌跡はなかなか衝撃的で興味深いものだった。そこで出てきた固有名詞は伏せるが、すべて実在するものである。

「新学期が始まる前、S財団(山地民の人は誰でも知っている著名な支援財団である)のスタッフというMさんから電話がかかってきて、バンコクで奨学生の集まりがあってそこに招待するからきなさいといわれていたんです。それで私はそれに参加することにして、寮を出た木曜日、まずバスでメースアイに行って、そこからソンティオに乗り換えて村の実家に立ち寄って―家には誰にもいなかったんです―預金通帳をもってワウィのS銀行に預けていた奨学金を引き出して、夕方、チェンラーイに戻ってきました。でもチェンラーイに着いたのが遅くてバンコク行きのバスがもう終わってしまっていたので、その日はチェンラーイの友人の家に一泊して、翌日の夕方、夜行バスでバンコクに向かいました。利用したバス会社ですか、ナムカムツアーです。

翌朝、バンコクイのモチットバスターミナルに着いたのですが、待ち合わせしていたS財団のMさんは現れず、電話をかけても「代理の者が迎えに行くので待っていてくれ」と言われたきり、その電話もつながらなくなってしまいました。午後3時ぐらいまで待っていても誰も迎えに来てくれず途方に暮れていたら、30代ぐらいのお姉さんが私に声をかけてきて、「もし今晩泊まるところがないようだったら、私のところへ泊まっていきなさい」といって、私をタクシーに乗せて彼女のアパートまで連れて行ってくれました。そこに二日間泊めてもらい、月曜の朝、モチットのバス停までバイクで送ってもらってチェンマイ行きのバスに乗ったのです。その女の人の電話番号ですか? 知りません。一人暮らしで、昼間はお仕事をしている様子でした。その間、私はアパートで留守番をしていたんです。その人のことは職業も、名前も、住所も何も知りません。S財団の人とも無関係です」

ありえねー。

「普通、二日間もお世話になったら、別れ際に名前と電話番号ぐらい聞くだろ。で、チェンマイではどこに泊まったの」

「もうチェンラーイ行きのバスもなかったし、知り合いもいないので、アーケード・バスステーションの待合室で一夜を過ごしました。で、朝いちばんのバスでチェンラーイ行きの切符を買って帰ってきたんです」

  そういう彼女が差し出した唯一の物的証拠は、チェンマイからチェンラーイまでのグリーンバスの片道切符の半券であった。木曜日の夕方に泊めてもらったというチェンラーイの友人の証言と、彼女が火曜日の朝にチェンマイからチェンラーイ行きのバスに乗ったらしいということだけが信憑性ある状況だった。それ以外の金曜日夕方から火曜日の朝までの空白の5日間、彼女はいったい、どこで何をしていたのか。Pの説明はおそらくすべて作り話であろう。自分の数少ない体験から得たあらゆるディティールをつなぎ合わせて編集したフィクションに違いない。が、なんのために?

 真相はチェンマイの男友達のアパートにでも遊びに行っていたのだろうか。それならそれで素直にそう告白してくれたほうがこちらにとっては精神衛生上よい。実在するS財団を名乗る者からの誘いの電話とか、バンコクで知らないお姉さんに連れられていって二晩を明かすなんてストーリーのほうがよっぽど大ごとに発展しかねない。Pの話には具体的なディティールがちりばめられていてそれなりのリアリティーがあるが、全体としてはやはり破たんしていた。小さな嘘が新たな嘘を紡ぎだし、その嘘を塗り固めるために新たな嘘を思いつく。それが際限なく雪だるま式に荒唐無稽なストーリーに膨張していく。

私は以前読んだ作家・吉岡忍さんの『日本人ごっこ』というルポルタージュ作品を思い出した。貧しい家庭で育った北部出身のある少女がバンコクに出てきて「自分は日本大使館員の娘だ」とふれまわり、それを信じた周囲の大人たちを振り回すという、ある種の虚言癖をもった少女の人生を追った実話である。

その後、Pは自主退寮してしまったが、この先どんな人生が待っているのか、ちょっと気がかりだ。

さくら寮での新入生歓迎会より。奇抜なメイクをさせられる


さくら寮での新入生歓迎会より。奇抜なメイクをさせられる
さくら寮での新入生歓迎会より。奇抜なメイクをさせられる


2011年07月24日   「フェロモン・パワー」


私がタイに足を運ぶようになった最初のきっかけは、昆虫採集だった。

幼少時代は自然豊かな岐阜の片田舎に住んでいたこともあって、近くの山を飛び歩き、蝶やセミ、甲虫などを捕ってコレクションにするのが至高の歓びであった。社会人になった20代の後半の一時期、失われた少年期へのノスタルジーから、突然森の中をさまよいたい衝動にかられて、しばらく蝶採集癖が再燃したことがあった。そんなとき、職場にフィリピンに蝶採集に通いつめているおじさんがいて、その大先輩の手ほどきで東南アジアを採集旅行することになったのだ。そして運命的にたどりついたのがタイ北部の山岳地帯だったのだが、そこで運命的に山地民と出会ってしまってからは、蝶より人の撮影(主に美少女系)や華やかな民族衣装の収集のほうに関心が引き寄せられてしまった。(単に昔からのコレクター的性癖が対象を変えたにすぎないのかもしれないが)

まあ、子どもにとってはゲームなどにうつつを抜かしているよりは、自然に親しむほうがよい。親の趣味を自分の息子にも受け継がせたくて、息子がまだ歩きもしないうちから私はことあるごとに昆虫図鑑を見せたり、ビデオを見せたり、庭で採ってきた蝶を部屋で飛ばせて見せていた。その刷り込みの甲斐あって、7月で1歳半になったわが息子は、庭で蝶が飛んでいると「チョーチョ、チョーチョ」と日本語で叫びながら嬉々として追いかけまわるようになった。

昆虫採集に関しては妻も珍しく協力的で、せっせと庭でトンボやらセミなどを採ってきては息子に献上している。が、妻はなんと、捕ってきたトンボの翅を全部むしってから息子に差し出しているのだ。翅をもがれてみじめな姿になったトンボはか細い足だけを使って床をヨロヨロとはいまわっている。なんじゃこれは。

「だって翅があると逃げるじゃない」

「あのなー、飛ぶからトンボっていうの。昔流行った「あのねのね」の歌じゃないけど、翅をとったらただのアブラムシじゃねーかよ。脚までとったら柿の種だ」

捕虜にも逃げる自由ぐらい与えてやってほしいと私は思う。翅をむしられて一方的にいたぶられるなんて、拷問というか、あまりにもアンフェアだ。

山地民の人たちは、暑期になると林でツクツクボウシぐらいの大きさのセミを大量に採ってきて食用にしている。トリモチを先端に付けた竿で器用に採集するのだが、捕った先からいきなりあの美しく透明な翅をむしり取って、生きたまま、まるで落花生でも収穫するように袋に詰め込んでいるのを見ると、セミとしての尊厳はいったいどこに、とつぶやきたくなることがある。まあいずれすり鉢で生きたまますりつぶされたり、油で揚げて食べられてしまうのだから、尊厳も何もあったものではないのだが。

それはともかく、7月のある日、さくら寮生たちが「タカシ兄さん、女子寮の前の木に大きな蝶がいっぱいいるわよ」と教えてくれた。両手を広げて「こんなに大きいよ」と言っている。いくらなんでもこの世の中にそんなでかい蝶がいるわけないじゃんと半信半疑のまま駆けつけて見ると、高さ5メートルほどのガトーンの木のあちこちに、羽化したばかりの巨大な蛾が十数匹、葉っぱから垂れさがるようにして止まっていた。両手ほどもはないが、確かに子どもたちも驚くのも無理はない巨大さだ。

「これはヨナグニサンという名前の蛾だよ」

yonagunisan
ヨナグニサン

ちなみにタイでは一般的に蝶と蛾を明確に区別した呼び方がない。せいぜい夜飛ぶ蝶というぐらいだ。

ヨナグニサンはヤママユガ科の蛾で、前翅を広げたときの長さが13センチ~14センチにもなり、世界最大の蛾として知られている。日本では名前の通り、与那国島をはじめ沖縄の八重山諸島に分布し、沖縄県の指定天然記念物にも指定されている。タイでも保護種に指定されているようだが、どこでもわりと普通に見ることができ、毎年この時期になるとこのナムラット村でも夕暮れ時にバタバタと不器用に飛んでいるのを見かける。一瞬鳥か蝙蝠かと思うほどだ。さくら寮内でヨナグニサンがこんなに大発生したのは私の記憶にある限り初めてのことだ。

ガトーンというのは英名をサントールといい、センダン科の落葉樹で、雨期に直径10センチほどの薄黄緑色の丸い実をつける。そのままでも食べられるが、めっぽう渋いので、こっちの人たちはたいてい漬物にして食べている。女性の大好物だ。

ヨナグニサンの幼虫がこのガトーンの葉を食べて育ったのか、それとも他の食草から移ってきてここで繭を作ったのか定かでないが、羽化したての十数匹が静かにぶら下がっているのはなかなかに異様な光景だった。

ガトーン
ガトーン

さっそく息子を喜ばせてやろうと思い立った私は、寮の壁にへばりついていたひときわ大きな一匹を素手で捕まえて、プラスチックのバスケットケースに入れて家に持ち帰った。息子は籠に入れられてぶるぶると翅を打ち震わせているそのモスラのような蛾を見てちょっとビビっているようだった。

しかし、驚いたのは息子だけではなかった。

翌朝、寝ている私を妻が「ひえー」という叫び声とともにたたき起しにきた。

「ちょっと、隣の部屋に来てみて。あのでかいチョーチョが、部屋中じゅうに…」

隣の居間の棚の上、昨日もちかえってきたヨナグニサンを入れていた籠にへばりつくかのようにヨナグニサンが十数匹、我先と鈴なりに群がっており、またその周りを数羽が鱗粉をまき散らしながらバタバタと飛びまわっているではないか。私は腰を抜かしそうになった。パニック映画の一シーンのようだ。

やつらは開けておいた窓から侵入してきたらしい。しかし、どこから、なんのために。ことさら異様だったのは、十数匹のヨナグニサンがほとんど折り重なるようにしてくっつきあいながら、昨日捕ってきた一匹を入れた籠に密着している光景だった。乱交状態である。

どうやら私が捕まえて籠にいれてあったヨナグニサンは雌の個体で、そのフェロモンの香りをかぎつけて、監禁状態にある我が同胞を求めて、オスたちがさくら寮から一斉にここに集結したらしい。蛾は蝶に比べて飛翔能力が弱く、あまり長い距離を飛ぶことができないと言われているが、フェロモンに対する嗅覚は抜群らしい。さくら寮から我が家までは直線距離にして300メートルほどだが、車に乗せて持ち去ったものだ。そのぐらいの距離にいる相手を嗅ぎつけるぐらい朝飯前のことなのであろう。それにしてもメス一匹を奪還するために15匹の雄とは、なかなか壮絶である。すぐに籠をベランダに出し、メスを解放してやった。

数日後、ヨナグニサンの大群はガトーンの木からも我が家のベランダからもあとかたもなく姿を消していた。籠の中にはおびただしい数の白い卵を残して・・・。ヨナグニサンの成虫は1週間ほどの寿命しかないという。セミよりも儚い命だ。

籠の中のメスを求めて折り重なるオスたち
籠の中のメスを求めて折り重なるオスたち


2011年08月24日   「これも何かの縁」


さくら寮内スポーツ大会の応援団。覚えたての日本語で「ゲーム」と書いたつもりだったが、縦横を間違えている
さくら寮内スポーツ大会の応援団。覚えたての日本語で「ゲーム」と書いたつもりだったが、縦横を間違えている

 このところチェンラーイにもロングステイヤーのかたが増えつつあるが、私はさくら寮に引きこもってばかりいるので、日本人の知り合いはあまりいない。

 ところが最近、ひょんなことがきっかけで、チェンラーイの日本人のかたがたと交流の連鎖ができつつある。

 ことの発端は今年4月の初めにさくらプロジェクトに届いた一通のメールだった。

「私は、チェンラーイに住んでいる日本人の山崎といいます。昨年私の知人である神戸のNさんから、私宛に船便にて、6個の品を送ったとの連絡がありました。1月末に5個の品は私宅に届きましたが、1個が届いておりません。郵便局に問い合わせるも、不明のままになっておりましたが、3月末になって、「貴さくらプロジェクトから礼状が届いた」と連絡がありました、彼は「おかしいな? こんなところに送っていないのに」と不審に思い、電話で話しているうちに、私宛に送ったものがそちらに誤配されたのではないかということになりました。あて先届け先も確認されずに受け取られたものと思われます。早急に調べていただき、私の元に届けていただきたいと思います」

 一読して事態を推察した私は、支援物資のチェック担当のボランティア、Tさんに郵便物到着記録の確認をお願いした。Tさんによれば、確かに2月初め、山崎さんの指摘されたNさんというかたから荷物が一箱届いて、古着などが入っていたので、Nさん宛てに丁寧な礼状を書いて送ったとのこと。さくらに配達された段ボールは当然さくらプロジェクト宛の支援物資が入っているという思い込みから、宛名を確認せずに開封してしまったらしい。血の気が引く思いだった。さくらプロジェクト宛には毎月30箱ほども支援物資が届いており、当時はTさんひとりでチェックされていたので、なかなかの重労働である。しかもTさんはこのところ視力が衰えてきている。伝票のカーボンコピーだってかすれて読めないときもある。宛名を見落としたことを責めることはできない。誤配した郵便局にも非はあるとはいえ(これまでにも、しばしば荷物や手紙が間違って届けられることがあったが、開封する前に気づいて郵便局に返していた)、宛先を確認しないまま開封してしまった当方のミスであることは間違いない。しかもその中身の大半はタイ人スタッフの手で内容別に仕分けが完了していて、他から届いた支援物資と混ぜて別の段ボール箱に分散して保管されており、どの品物がNさんから送付された箱に入っていたものだったかをTさんや仕分けしたスタッフに思い出せというのは無理な話である。また一部は村で配布されてしまっているようだった。Nさんが送った荷物の全リストが写真付きで残っているというようなことがない限り、すべてを回収するのは不可能に近い。

 メールというのは相手の表情を見ることはできないし、こちらの先入観もあるのだろうが、最初に数回いただいたメールの文面から、「怒り」が伝わってきていた。

 荷物の内容は山崎さんのほうで使う予定だったソフトボールのユニフォームや運動着などだという。

 スタッフ全員で寮内の倉庫に保管されている支援物資の箱をすべて調べた結果、Tさんのわずかな記憶に残っていたチーム名入りの運動着の一部が発見された。が、それは全内容量の十分の一ぐらいの量だ。残りはまったく消息不明である。探す手がかりすらない。これはもう下手な弁解よりもひたすら平謝りするしかない。

 私たちは山崎さんにメールをし、事情を話して謝罪した。Nさんから送られてきたとおぼしき物資はできる限り回収して返却するつもりだが、100%回収できる可能性は低いので、大変申し訳ないが、回収しきれなかった内容に関しては代替品の衣類や文房具などを寄贈させていただくことで弁償に充てたい、まずはお詫びとご挨拶をかねてお宅に伺いたい、と申し出た。山崎さんはチェンラーイ市内の団地に住んでおられる。

 が、何度かメールをやりとりしているうちにYさんもこちらの事情を理解してくださり、メールの文面は次第におだやかになり、「いや実は以前からさくらプロジェクトのことは知っていて、一度お伺いしようかと思っていたところなので、いい機会だから近いうちに見学がてら、こちらから出向きますよ」とおっしゃってくださった。本来ならこちらから謝罪に出向かねばならない立場だが、恐縮するばかりである。

 数日後、さくら寮でその山崎さんと対面した。山崎さんは元教員で、定年退職後、タイで気ままに暮しながら子どもたちにスポーツを教えるのが生きがいと話され、チェンラーイ在住の日本人を中心にソフボールのチームを作って隔週の日曜日に、ラジャパッド・チェンラーイ大学のグランドを借りて練習をやっているという。たまにチェンマイのチームとも練習試合をやっているそうだ。

「貧しい人を支援している団体に弁償させるつもりはありませんよ。この件に関してはもうなにも心配しないでください。それよりも」

 と山崎さんはおっしゃった。

「一度、さくらの子どもたちにもソフトボールの練習に参加させてみませんか」。

 この提案に日ごろ運動不足で暇をもてあまし気味のTさんも大いに乗り気で、それはぜひともお願いしますということになった。

 新学期が始まって村から帰ってきた子どもたちにさっそく事情を説明してメンバーを募集すると、何人かがいっせいに手を上げ た。もちろん、誰ひとり野球やソフトボールをやったことはおろか見たこともない。

 そんなわけで女子のラサミー、スウィモンを含むさくらっ子たち数名がこのソフトボール練習会に参加するようになったのである。ひょんな経緯から生まれた新たなつながりの端緒だった。

寮内スポーツ大会でのひとこま
寮内スポーツ大会でのひとこま

寮内スポーツ大会でのひとこま
寮内スポーツ大会でのひとこま


2011年09月24日   「これも何かの縁(2)」


 誤配された郵便物を間違って開封してしまったという失態がきっかけで、さくら寮生たちが山崎哲男さん率いるチェンラーイの日本人ソフトボール同好会の練習に参加させてもらうことになったという経緯は前回に書いた。

 さて、ラジャパッド・チェンラーイ大学のグラウンドを借りて月2回行われているというそのソフトボール練習会に一度は参加してみたいと思いつつ、集合時間が日曜日の早朝という私にとっては厳しい時間帯のため、つい朝寝坊してしまったり、珍しく早起きしたと思ったら大雨で中止になったりとかで、やっとその練習風景をこの目で確認できたのは9月に入ってからであった。

 そんな私の代理というわけではないが、今年1年大学を休学してさくらプロジェクトにボランティアにきている木下奈津季(20歳)が、子どもたちの通訳もかねて最初からこの練習に参加してくれていた。

ソフトボールの練習風景
ソフトボールの練習風景

 さくら寮生たちは誰もこれまで野球やソフトボールの試合をテレビでさえ見たことがない。木下さんによれば、まずは基本ルールから説明するのが一苦労だったという。試合形式の練習では、バッターボックスを無視してキャッチャーの真ん前で打席に立ったり、打っていきなり三塁方向に走りだしたり、次打者が打っても一塁でボーッとしていたり、守備の方は走者がいない塁に送球したり、トンネルしたボールを取りにもいかなかったりとか、私は往年の映画『がんばれ!ベアーズ』を連想してしまった。(たとえが古いなー)

 しかしいつかベアーズのように強くなれそうもないのがさくら寮生たる所以である。小学生のスッカムなどは、守備のときボールが飛んでこないのをいいことにグローブを頭にかぶって寝転んでいたという。もともとタイの人はサッカーとかバスケットボールとかセパタクローのようなたえずせわしなく動き回っているようなスポーツが好きである。野球のように体を動かしていない時間が長いと、ついついだれて、いつのまにか芝生で昼寝に入ったり、サッカーボールで遊び始めたりするのだ。数名が予想通りしばらくすると練習にこなくなってしまった。比較的がんばって続けているのはラッサミーとスウィモンの女子高校生コンビである。このふたりはなかなか筋が良くて、ラッサミーなどは私が見学したときはピッチャーをまかされていた。

ソフトボールの練習風景
ソフトボールの練習風景

ソフトボールの練習風景
ソフトボールの練習風景

目指すはナックル姫のラッサミー
目指すはナックル姫のラッサミー

サンダル履きで守備をするスウィモン
サンダル履きで守備をするスウィモン

ある日の練習メンバー
ある日の練習メンバー

   さてここから新たな展開である。

 7月末のある日、そのソフトボールチームの日本人のみなさんがさくら寮を訪問することになった。メンバーの一人、K杉さんが、自家製の手打ちうどんをソフトボール練習に参加している寮生にごちそうしてくださるということになり、その他のメンバーも見学かたがたさくら寮を訪問されることになったのだった。

 腰のあるおいしい冷やしうどんをいただいたあと、さくらホールなどを見学してもらっているとき、訪問メンバーのなかの一人、路傍の地蔵菩薩のような顔立ちをしたヒゲのO寺さんが、チラと私に囁いた。

「今度ね、チェンラーイ在住の日本人でバンドをやることになったんですよ」

「へー、それはいいですね。どんな曲やるんですか」

「LOSOです。来月から毎週日曜の夜、チェンラーイ日本人会が、新しくできた歩行者天国(タノン・コンムアン)にテントを出して、いろいろ出し物をやるんですよ。もちつきとか、空手のパフォーマンスとかね。そこで我々も演奏することになったんです。だけどタイ人の前でやるんだから、日本の歌なんか歌ったってウケないからね、タイの歌をやろうってことでね」

 LOSOの曲なら私もかつて寮生と一緒に組んでいた「LOSU」(LOSOとかけたということもあるが、実際のメンバーのひとりの名前だった)というバンドでよくコピーしたものだ。

 バンドの構成を聞くとボーカル兼ギター、ギター、ベースの3人だという。

「あっ、ドラムがいないんですね。うちにドラムセットがあるから、よかったらうちで練習しませんか。僕も以前さくら寮生たちとバンドやってましてね、担当はギターですけど、ドラムもテンポを取るぐらいならできますよ」

「おー、それはいい。ぜひ一緒にやりましょう」

 実を言うと私は知る人ぞ知る機材マニアである。酒にもゴルフにもギャンブルにも縁のない私は20代の頃から、趣味と言えばAV機器をいじることぐらいで、そうした機材関係のみに小遣いのすべてを投入してきた。ここ10年ぐらいは、さくら寮生のために音楽の機材を調達しているうちに、ミイラとりがミイラになったというか、個人的に楽器やPA関係の機材にはまってしまい、日本に帰ったときには中古のギターやベースを買い集め、タイではドラムやアンプ、スピーカー類を地元の楽器店を通じて取り寄せたりして、気がつくと自宅の部屋にはロックバンド二つぐらい余裕で組めるぐらいの楽器類と、ちょっとしたライブハウスでコンサートができるぐらいのPA機材が山積みになっていたのである。しかし、バンドを組んでいたさくら寮生たちも卒業してバンドは解散してしまい、一緒にやる友達もいなくなり、ドラムセットなどは1歳8ヶ月になる子どものおもちゃになりはてていた。やっと眠っていた機材の数々が日の目を見、社会の役に立つときがきたのである。

「じゃあ、さっそく今週末から三輪さんちで練習始めましょう」

 フットワークの軽いO寺さんのかけ声で毎週土曜日の午後、私の自宅に集まることになった。歌詞はすべてカナ読みで暗記しているというF田さんのレパートリーから「ソムサーン」「チャイサンマー」「パンティップ」「メー」など初期のLOSOのヒット曲を中心に7曲をやることになった。

 集まったメンバーはバンマスでギター担当のO寺さんほか3人、ボーカルのF田さんはチェンラーイのM大学の日本語の先生。一見シャイだが、マイクとギターをもたせると人格が豹変するタイプらしい。ベースのT人君はそのM大学の留学生である。東京出身だが大学は沖縄で、さらにそこからチェンラーイくんだりまで留学してしまったという変わり者である。ベースの腕前はまあそれなりだが、唯一の20代の若者でなかなかのイケメンなので、たちまちさくらの女子寮生たちに注目され、固定ファンができてしまった。しかも彼ひとりでバンドの平均年齢を40代にまで引き下げてくれている。

   こうしてまだ名も決まっていないバンドは産声をあげ、8月27日夜のさくらホールでのデビュー・コンサート、28日のタノン・コンムアン(ホコ天)での路上ライブをめざして練習が始まったのである。


2011年10月23日   「これも何かの縁(3)」


中年バンド、さくら寮でのライブ
中年バンド、さくら寮でのライブ

ひょんなことから突然結成されたチェンラーイ在住日本人による親父バンド。若者一人が加わったことで平均年齢はかろうじて40代後半を保っている。

さくら寮でのデビュー・コンサートとホコ天での路上ライブを目標に私の自宅で練習が始まったのは7月の末のことだった。

歌詞はすべて日本語のカナ読みにして丸暗記しているというボーカル兼ギターのF田さん、チェンラーイの夜店で激安で買ったというネック折れ修理歴のあるフェンダーUSAを担いでやってきたO寺さん、誰もが最初は「日本語のうまいタイ人がやってきた」と勘違いしていたベースのT人君、そしてとりあえずドラム担当の私という4人編成である。 他人の下手さや失敗にはいちいちつっこまないゆるゆるの練習だが、そもそもこれぐらいの年になると、他人からどうこう言われても飛躍的にうまくなったりはしないものだ。

翌週からはF田さんが知人の大工、S武さんを連れてきた。高校時代にボン・ジョヴィのコピー・バンドでドラムを担当していたというが、ドラムを叩くのは20年ぶりという。どんな曲をやるのかもわからないままいきなり連れてこられてドラムの前に座らされ、最初はスティックさばきもぎこちなく、本人も不安そうだったが、しばらくやっているとさすが昔とった杵柄、さまになってきた。さらに枯木も山の賑わいで、応援団のK杉さんがマラカス(何度注意してもK杉氏はマスカラという)を担当することになった。

 1週間で急造ドラマーをクビになった私はO寺さんとともにギター担当に復帰した。サザンロックバンドばりの豪華なツインリード・ギターといえば聞こえがいいが、一方がソロをやっている間にさらに音量を上げて横槍をいれて応戦し、最後は殴りあいの喧嘩・・・といったありがちなパターンにならなければよいのだが。

 いよいよさくら寮でのコンサートである。毎年この時期には大阪からボランティアのかたがたがこども向けのお芝居を上演にきてくださり、さくら寮生も踊りやミュージカルを披露して交流会を開くのだが、そのトリのステージが我らが中年バンドのデビューである。

F田さんが「ヘーイ、ロッケンロール!」と絶叫していきなりパワー全開で歌い始めると、たちまち子どもたちがステージのかぶりつきに殺到して踊りだした。さくら寮生たちはみなとてもやさしいので、とりあえずアップテンポの曲さえやれば、プレイヤーの技量に関係なく、客席総立ちで踊って場を盛り上げてくれるのである。

歩行者天国でのライブ
歩行者天国でのライブ

これですっかり勢いづいた我々は、翌日、サコーン通りの夜の歩行者天国「タノン・コン・ムアン」での路上ライブに乗り込んだ。このホコ天はすでにあるタナライ通りの「タノン・コン・ドーン」に対抗してチェンラーイの新名所にしようという商店街の目論見で最近売り出し中のナイトバザールで、ちょっとおしゃれな若者向けの夜店が立ち並んでいる。ここでチェンラーイ日本人会のみなさんが餅つきや剣道や空手などの実演をして日本文化の紹介をしているのだが、この一角をお借りして、路上ライブをやらせていただくというわけだ。

さくら寮生たちも「行きたーい!」というので、昨夜のように踊りまくってライブを盛り上げてくれることを条件に、ノリのよさそうなのを30名ほどトラックに積んで連れていくことにした。文字通り「さくら」の応援団である。ところがとんだ内弁慶のこやつら、たくさんの通行人や見物客に気おくれしたのか、演奏が始まっても借りてきた猫のようにおとなしく聴いているだけである。おい、話が違うじゃねーかよー。

しかしF田さんはそんな雰囲気もものともせず、「ヘイ、ヘイ、ロッケンロール!」と絶叫しながらLOSOのヒット曲を歌いたおした。やっと後半に入ってさくらのちびっこどももK杉さんの音頭にあわせて踊り始め、盛り上がってきた。そして最後はアンコールの大合唱である。(ここだけが寮生が役に立った)

 初ライブの成功(?)に気をよくしたメンバーは、次なる機会を狙って練習を再開することになった。「この程度の実力だったら私にもできそう」と思ったのだろうか、今度はさくらプロジェクトの無給ボランティア・K嬢がボーカルとして加入することになった。

 K嬢は大学を1年休学してさくらプロジェクトを手伝いに来ているのだが、笑い方も豪快で、エッチな話からスカトロ話までなんでもござれの天然系の21才だ。小学校の3年までお父さんとふたりで銭湯の男湯に通い、1歳年上の姉(こちらは母親と女湯に)の命令で「誰のイチモツが一番でかいか」を観察して逐一報告していたという話とか、小学生の頃、姉妹そろって夜ごと内緒でアダルト映画を見ていたのが親にバレて、ケーブルテレビを解約させられたという話とか、食事の合間にそんなバカバカしい話をしているだけでストレスが発散され、なんだか癒されるから不思議である。

最近では、「三輪さん、ここ数日、うんちにまじって謎の油が出てくるんです」とわざわざデジカメ撮影した自分のウンコの写真を携えて相談にきた。そんなものを見せられても、といいつつ写真をみると確かにオレンジ色のラー油のような油の球がうんこの周囲に浮遊しているのが見える。「うんちから油がでるなんて聞いたことないな。それって肝臓かなんかの病気と違う?」

インターネットの検索サイトをあたると、「中国の重慶でウンコから食用油を製造して販売していたグループが摘発された」というニュースの記事がどっと出てきて、二人で爆笑した。

「これだ! 君の場合、精製しなくてもそのまま売れるな」

「じゃあ売りましょう!」だと。

その後もK嬢は頑固な便秘と格闘して、ついに自分のケツの穴に指を突っ込んで掻き出し、今度は痔になったという話を食事中に披露するなど、あいかわらずネタを欠かさない。

話が大幅にそれてしまったが、なにはともあれ、彼女がバンドに加わったことで平均年齢はさらに40代前半にまで若返ったのだった。

次なる舞台はさくらクリスマス会の大トリである。

さくら寮の交流会の出し物
さくら寮の交流会の出し物


2011年11月23日   「活け花・さくら流」


今年も寮生たちが自作のクラトンをメーコック川に流した
今年も寮生たちが自作のクラトンをメーコック川に流した

今年の11月は寮への来訪者が多かった。観光シーズンで、ローイクラトンなどの祭りがたけなわのせいもあるが、今年は洪水の影響でバンコク観光を断念して、北部に退避してきた日本人のかた、それからバンコクで大学に行ったり就職していて休学・休業状態になり、一時帰省した卒寮生も多かった。

11月の中旬には里親のMさんとその友人のKさんが来寮。Kさんといっても先日来このコラムで登場しているさくら寮ボランティアのK嬢(21歳)ではなく、別のKさんである。

ちなみにボランティアのK嬢も健在で、先日は寮の近くにあるリムコックリゾート・ホテルのプールに泳ぎに行って、すべり台から「ひゃっほー」と勢いよく水の中にすべり飛び込んだのはいいが、ビキニの水着の上の部分がすっぽりと全部脱げてしまい、気がつくと生まれたままの姿でぽっかりと水面に浮いていたとか、あいかわらず爆笑ネタを供給してくれている。

話がそれたが、今回はそんなK嬢の白昼の惨劇の一部始終の報告ではなく、日本からやって来たKさん(こちらは既にお孫さんもいる品のよい熟年女性)の話である。Kさんはいつも日本で古着を集めて送ってくださっているさくらの支援者のひとりで、今回初めてさくら寮を訪問され、4日間、さくら寮のゲストルームに宿泊して子どもたちと交流してくださった。

さくらプロジェクトの訪問者からはたいてい『子どもたちの笑顔が素敵ですねえ』とか、『目がきらきらして、澄んでますねえ』とか、社交辞令も含めた褒め言葉をいただくことが多いけれども、Kさんは日本で池坊流の華道の先生をやっておられるというだけあって、しつけや作法の面から子どもたちを見る目がなかなか厳しかった。
指摘の第一点。まず、靴の脱ぎかたがなっていない。

寮生たちは普段サンダル履きだが、寮の中に上がるとき、入口に無造作にサンダルを脱ぎ捨てたままにする。手で揃えるということをしない。俯瞰するとサンダルの群れが入口に向かって放射状に広がっているイメージだが、なかには駆け込んできたその歩幅のままの状態で、ばらばらに脱ぎ捨てられていたりする。もっとひどいのは、他人のサンダルの上に二段重ねで脱いである。

「日本では、靴を脱いだら玄関のほうを頭にして置くんですよ。まあ日本とタイとは礼儀作法も違うから、そこまで日本式に従えとは言わないけれども、せめて履物はきちんとそろえて玄関の脇に並べておくぐらいのことはしたほうがいいですね」

確かにおっしゃるとおり。子どもたちは足元にはきわめて無とんちゃくである。足元に人格がないというか、足元から下は原始共産主義、いや無政府状態というべきか。私たちスタッフの履物も、ちょっと油断すると消えてなくなっていることがある。誰かが軽い気持ちで履いていって、元に戻さないのである。寮内は広く、靴を脱ぐ場所もたくさんあるので、苦労して探しまわった末、とんでもない場所で発見したりする。まるで銀行強盗後に乗り捨てられた盗難車のような状態だ。靴だけではなく、傘、文房具、アイロンなどすべて同様で、一度借りていくとなかなか戻ってこない。

指摘その2。ご飯を食べ残して捨ててしまう子が多い。これは私もスタッフも以前から気になっていて、しばしば注意もしている。食べきれないと思ったら最初から盛りを少なくしておけばいいのに、そこまで配慮しない。お金がない、貧しいというわりには、食べ物や公共物を粗末に扱う。山の村へ行っても水やご飯は意外にぞんざいに扱われているように感じたことがある。村では残飯は家畜の餌になるので無駄にならないのかもしれないが、寮では捨てる以外にない。村では水は山から引いてきたものでいくら使おうが無料だけれど、寮では電気代(地下水をポンプで汲み上げている)や水道代がかかるのだ。しかし子どもたちは山での暮らしの価値観や常識をそのままもちこんで使っている。これではとうてい大きな社会の規則には適応していけない。

などなど、Kさんの指摘はいろいろ耳が痛い部分もあったが、私のようにかなりタイ人化が進んでいる日本人がすっかり忘れ、当たり前と思うようになってしまった習慣に対する指摘も多々あり、とてもありがたいことだ。

さて、休日の午前中、Kさんの指南で、「いけばな」に挑戦することになった。

いけばなに挑戦中の子どもたち
いけばなに挑戦中の子どもたち

使用する草花は各自で寮の内外に生えているものを調達し、器は寮内にある花瓶やバスケット、コップ、ペットボトル、竹筒と、ありあわせのものを使用。ただし寮の周辺で手に入りにくい花はチェンラーイ市内の花市場でも購入した。

さくらホールに寮生全員が集まり、5人ひと組みのグループに分かれてスタンバイし、まずはKさんの簡単なレクチャーを受ける。

「いけばなは礼儀作法を重んじます。挨拶が大切です。始める前はおはようございます、よろしくお願いします。終わったら、ありがとうございました、を忘れないでね。お花は活ける人の心を映します。楽しい心で活けてくださいね」

寮生たちが花を活けはじめて数分後、Kさんから最初のダメ出しが。

「いけばなは足し算ではなくて引き算です。よくばってびっしり活けすぎないようにね」

「空気や季節を感じられるように、風が抜ける空間をあけてくださいね」

確かにチェンラーイの花市場で売られている贈答用のお花の盛り合わせは、たとえていえば、大衆食堂のフライ盛り合わせ定食のように満腹感だけをアピールしたようなものが多い。子どもたちもフラワーアレンジメントというと、そのゴージャスなお花盛り合わせのイメージしかないのだろうか、ついついてんこ盛りになりがちだ。

だが、Kさんの指導の成果もあって、約1時間後にできあがった約20作品の中には、なかなかユニークなものもあった。けっこう前衛的なのもあるぞ。おー、みんなけっこうやるじゃないか。

優秀作に選ばれた作品
優秀作に選ばれた作品

これまた独創的な作品
これまた独創的な作品

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2011年12月20日   「なぜベストを尽くさないのか」


集合写真
集合写真

「なぜベストを尽くさないのか(Why not the best?)」

とは第39代アメリカ大統領ジミー・カーターの座右の銘で、氏の自伝のタイトルにもなっている。

ときどき寮生にその言葉を投げつけそうになる自分に、20年以上もタイに住んで身も心もタイ人化したつもりになっていても、「三つ子の魂百まで」の諺どおり、やはり日本的教育の影響や日本人的価値観から脱しきれていないと感じることが多々ある。

もともと私は集団的な規律とか堅苦しいことが性にあわず、出世願望や上昇志向こそが諸悪の根源とばかりに大学を出て早々とドロップアウトし、仕事も自由業を選び、朝寝坊、夜ふかしし放題、いつもTシャツにGパン、短パン姿のサバーイな格好で生活をし、ゆるゆる礼賛の人生を実践してきた。歯を食いしばってがんばるなんてシチュエーションとも無縁だった。だが、その私のさらに上手をいくさくら寮生たちのゆるい生きざま、というか生活態度を目の当たりにすると、つい「喝!」を入れたくなってしまうのだから、人間勝手なものである。

たとえば。12月初旬、さくら寮で、日本からの支援を受けて山岳民族の生徒寮を運営するタイ北部の三つのNGOの子どもたちが集まって恒例の寮対抗スポーツ大会が行われた。寮生相互親善を深める友好スポーツ大会とはいえ、寮を代表する選手たちが寮の名誉をかけてしのぎを削る真剣勝負の場でもある。しかし、どうみても寮生たち(とくにわがさくら寮の生徒たち)にぴりっとしたところがない。

チア・リーダーのダンスが全然そろっていないのはまだご愛嬌だが、違和感を覚えるのは、400メートル走とか800メートル走とかの中距離走のレースなどでよくみられる、ある光景だ。1位、2位を争う選手たちはそれなりに必死の形相でしのぎを削ってゴールインしているけれども、大きく引き離されたり、途中ですっ転んだりしてもはや入賞の見込みがない選手は、照れ隠しのつもりか、へらへらニヤニヤしながらわざとゆっくりと走ったり、ついには途中でトラックをはみ出して棄権してしまったり、まったく真剣味がない。こういう光景を見ると、ついイラっとしてしまうのである。

小学校の頃、体育の授業なんかで先生によく諭されたものだ。「どんなに負けていたって最後まで全力で走りぬけ! それがスポーツマン・シップというものだ。最後まであきらめない気持ちこそが、これからの人生に役立つ。人間、気力だ、根性だ」なーんて。

ところがこっちの子は、勝負がついてしまったレースで、まだ必死に走るのはカッコ悪いと思っている。カッコ悪いのみならず体力の無駄だとさえ感じているかもしれない。本当は3位と順位なしでは、意味も違うはずなのだが。

では、彼らがこだわっているのは勝負なのかというとそうでもない。球技にしても短距離走にしても、勝つために作戦を練ったり、寮内で選考会を開いてベストメンバーを選出するなんてことはいっさいしない。監督もコーチもいない。
そもそも真面目に練習なんてしてなかった。試合直前になってテキトーにメンバーを決めて、普段外で遊んでさえいない下手な奴が厚かましく先発出場し、ミスりまくってニヤニヤしている。おい、そんなんじゃ一生懸命練習してきた相手チームに失礼だろうが!

全然揃ってないさくら寮生のチア・リーディング
全然揃ってないさくら寮生のチア・リーディング

こちらはモン族の生徒寮のみなさんのダンス
こちらはモン族の生徒寮のみなさんのダンス

要するに、勝敗にもベストを尽くすことにもこだわっていないのかな。

昔、ロス五輪の女子マラソンで、スイスのアンデルセン選手が競技場に入ってから脱水症状で朦朧となり、最後は痛々しい姿でゴールしたけれども、ああいう姿に本気で感動して涙する人ってタイには少ないんじゃないかと思ってしまう。

そういえば昨年の広州アジア大会の陸上4×100メートルリレーで、日本男子チームは第2走者と第3走者の間でバトンパスに失敗して、次走者に渡せないままオーバーランしてしまった。この種目でこんなむごいミスをしたらもう最下位は決まったようなもんだけど、二人の走者はちゃんと規定のリレーゾーンまで戻ってバトンを受け取り直し、アンカーも最後まで走り抜いてビリでゴールした。さすが日本人チームだなあと思った。日本以外のチームだったら間違いなく途中で棄権しているケース。無理して走って足を痛めたりしたらなんの得にもならないし、とか。小学校の運動会から国際大会まで、日本人のスタンスは変わらない。駅伝のタスキリレーに象徴されるように、チームプレーでは決して棄権しないし、手を抜かないのだ。

サッカーのアジア杯だったか、予選リーグでの勝ち抜けが決まっていた日本が某中東の国と対戦したとき、すでに予選敗退が決まっている相手チームはまったくやる気がなかった。モチベーションが上がらないのは当然とはいえ、日本のチームが逆の立場だったら、「最後に一矢報いて意地を見せてやるとか」「今後のために頑張ろう」とか言って、ベストを尽くすだろうし、そもそも無気力な試合をしたら、サポーターから水でもぶっかけられるのは間違いない。自分より強い相手にも弱い相手にも、全力でぶつかる、それが日本人の礼儀であり、美徳である。

なんてこんなことをダラダラとぼやいているようじゃあ、そろそろ日本が恋しくなってきたということなんかな。

日本人ボランティアも多いNGO同士の大会で、玉入れも行われた
日本人ボランティアも多いNGO同士の大会で、玉入れも行われた

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