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リス族の子供達

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さくら寮日記 2012年

子供たち







2012年01月20日   「スタッフ旅行・ムアンシン・ルアンパバーンへ」


クリスマス会もちつき大会
クリスマス会もちつき大会

12月24日には、恒例の寮内クリスマス会が開催され、子どもたちやスタッフ、ゲストのみなさんの出し物で盛り上がった。午前中には、チェンラーイ日本人会のかたがたがさくら寮生でもちつき大会を開いてくださり、寮生たちはおいしいあんころ餅をおなかいっぱいいただいた。ステージでのスタッフかくし芸では、期待にたがわずボランティアのK嬢(21歳)が膝上20センチの真っ赤なスケスケドレスでレディ・ガガの『バッド・ロマンス』を踊り、昨年の夏に結成された日本人オヤジバンドも、さくらホールのステージで吠えまくった。

そのクリスマス会が終わり、子どもたちが村へと帰っていった年末の数日間、リーマンショック以来4年ぶりにスタッフ慰安旅行を敢行した。4年前のスタッフ旅行も行き先は同じラオスだったが、当時のスタッフとは顔ぶれがほぼ一新しているため、私以外のスタッフはみなラオス初体験である、なかにはこれが人生初の外国旅行というスタッフもいる。ちなみに参加7名のうち、5名が女性である。

 私の旅のスタイルはこの年齢になってもいまだ風の向くまま気の向くままのバックパッカー方式で、今回の旅行もまったく同様、車の手配も宿の予約もなにもしていない。とりあえず北部ラオスの小さな町、ムアンシンと定番のルアンプラバンへ行くということ以外は何も具体的な計画がなく、その巡行ルートさえも決めていなかった。一人旅ならまだしも、総勢7名ものおのぼりさんを引き連れてそんなことで大丈夫なのかとスタッフから不安や疑問の声のひとつも出そうなものだが、不満をもらす者は誰一人いない。そもそもまったくラオスの文化も地理も歴史も予備知識がなく、また調べるつもりもさらさらないような不勉強な連中(そもそも地図が読めない)であるから、どこを引き回されようと文句の言いようもなく、一切の段取りを私に依存しきっているのだ。日本人なら自分がこれから旅する場所についてガイドブックでも仕入れて、多少の知識や薀蓄ぐらい仕入れていくものであろうが、タイでは完全お任せ団体見物ツアーがほとんどで、自分で旅をプランニングするという発想がないのだろう。まあ、予算をけちって安ホテルに泊まらせてもクレームが出ないのは実にありがたいことだが。

さて第一日目は、チェンコンからボートでメコン川を渡ってラオスのフエサイに渡り、そこでワゴン車をチャーターして、ルアンナムター経由でムアンシンに行くことになった。ムアンシンはアカ族、モン族など山地民の村も多く、ちょうどモン族の正月祭りたけなわの時期でもある。今から15年ほど前、私は初めてこの地を訪れた帰り、やむにやまれぬ事情によりシェンコックから3日間メコン川沿いの岩場を歩いてチェンセンまでたどり着き、帰ってきたらマラリアにかかって瀕死の重態に陥ったという因縁の土地でもある。
ルアンナムターで昼食。15年前に来たときにバス停の近くで見つけた中華料理屋を探し出す。古びた建物で、老夫婦が営む簡易旅社を兼ねた小さな食堂である。

クリスマス会 子どもたちの演技
クリスマス会 子どもたちの演技

クリスマス会 K嬢(右)の怪しい踊り
クリスマス会 K嬢(右)の怪しい踊り

M大学日本語学科の学生さんも飛び入りでコスプレ・ショー
M大学日本語学科の学生さんも飛び入りでコスプレ・ショー

いきなりここでスタッフたちが不満な表情を露わにした。言葉には出さぬが、「旅の初日からこんな小汚い食堂で私たちにご飯を食べさせるわけ?」と目が訴えている。テーブルには埃がたまり、お茶を出すオヤジの手はなぜか小刻みに震えている。しかし、出てきた料理を恐る恐る食べ始めてから、彼女たちの表情が一変した。予想外においしかったのである。四川料理、あなどるなかれ。料理屋は外見で判断してはいけない。以来スタッフたちは旅の先々で中華料理を食べたいとせがむようになった。

さて、ひさしぶりに訪れた我が青春のムアンシンである。一時期、欧米のバックパッカーのたまり場になって、たいそう賑わっているという噂は聞いていたが、来てみれば予想外にさびれていて、街にも活気が感じられない。昔のようにアカ族の若い人たちが民族衣装で着飾って市場に降りてくるということもなくなっていた。貧乏旅行者のたまり場だったタイルー・ゲストハウスはまだ昔のままだったが、外人さんとのコミュニケーションのすべてをジェスチャーで行なっていた愛想のいいオヤジさんはすでに天に召されたのか姿が見えず、一階のレストランの料理はひどくまずくなっていた。

昔流行っていたサウナもほとんどが潰れていたが、町外れの田んぼの中に一軒だけ細々と営業しているところがあった。ぼろい木造の高床式の一軒家で、ラオス人のオヤジが、床下に潜り込んで咳き込みながら薪をくべているその上の2疊ほどの小さな部屋がサウナであった。

ほかのスタッフたちは、「きゃっ、サウナって裸になんなきゃいけないんでしょ」と尻込みしたが、さすがは好奇心旺盛なボランティアのK嬢、「私いきます」と同行した。照明も裸電球ひとつの薄暗いベランダにある着替え場で、K嬢は着ているものを全部脱いだと思うと「お先に入りまーす」とサウナ室に突入していった。と、中には中国人の若い兄ちゃんが先客として入っていて、じっとりと汗を流していたのだった。私たちは昼間の下見でそこが日本でいえば個室サウナのようなものだと思い込んでいたのだが、狭くてもそれは共同サウナだったのだ。ただしK嫦が全部脱いですっぽんぽんになっていたというのは私の思い込みで、用意周到にも水着を着用していたのだが。

サウナでご満悦のK嬢
サウナでご満悦のK嬢

ルアンプラバンからの帰りはスピードボートでメコン川下りである。ルアンプラバンからフエサイまでは約7時間。乾期の一番肌寒い時期なので、超スピードで水しぶきを上げて爆走するボートの上はかなり冷える。女性たちもほぼ1時間ごとに尿意を催し、船頭に頼んで何度も砂浜にボートを停留させてトイレ休憩をした。トイレといっても隠れるところは岸辺の砂浜の上方にある林の茂みの中しかない。が、このあたりの砂浜は急斜面で、細かい砂がボロボロと崩れ落ちて足をすくわれ、登れど登れど上までたどりつかない。下半身肥満気味のスタッフたちが、すべったり転んだりしながら、砂浜の斜面を駆け上がり、最後は力尽きて砂浜の窪みですませたりする姿に、まるでウミガメの産卵を連想してしまった私は不謹慎だろうか。

砂浜を駆け上がる人たち
砂浜を駆け上がる人たち


2012年03月04日   「K嬢の奇跡(前編)」


その衝撃的な事件の第一報は、3月1日の夜、一本の電話によってもたらされた。

私は自宅でNHKの衛星放送でニュース・ウォッチ9を見ていた。大越キャスターがぼそぼそとした声で井上あさひにシメのコメントをしゃべっていたので、タイ時間で午後8時少し前だったと思う。

電話はスタッフのペンからだった。なんだか声が遠い。早口で何か必死にまくしたてているのだが、周囲の雑音がひどくてよく聞き取れない。彼女の声を遮っていたのは「ピーポーピーポー」というけたたましいサイレンの音だ。「Kちゃんとプンが事故に…。車にはねられた…。今、救急車の中、…病院に…」

 断片的に聞こえてくる彼女の言葉に耳を疑った。プンとはさくらプロジェクトの若い女性スタッフで、Kちゃんとはこれまでに何度もこのコラムで登場した日本人ボランティアのK嬢(21歳)である。まさか。どこで。救急車の中にいるらしいペンにこちらの声はまったく聞こえていないようで、彼女はほとんど一方的に話して一方的に電話を切った。事情はよくわからないが一大事であることは間違いない。とにかく寮へ戻ろうと車を車庫から出したとき、今度はスタッフのラッポンから携帯に電話が入る。K嬢とプンの二人乗りバイクが、ナムラット村の車道でトラックにはねられたのだという。そこは寮からも私の家からも300メートルと離れていないところだ。寮ではなく、そのまま現場に直行することにした。

 事故現場は静かなナムラット村の中にあっては一番賑やかな通りで、つい最近オープンしたばかりのコンビニの近くだった。寮の子どもたちが通う学校の校門とも目と鼻の先だ。夜8時すぎというのに一帯は騒然とし、野次馬による黒山の人だかりができていた。さくら寮生たちも多数集まってきて、心配そうに見ている。

 先に到着していた寮生のMが状況を説明してくれた。

「ここでプン姉さんたちのバイクが、あっちから走ってきたトラックと正面衝突したの。トラックはそのまま逃げたって。二人とももう救急車で運ばれていったわ」

転倒し破損したプンのバイクもすでに警察の車が回収していくところだった。道路中央にはバイクかトラックのものかわからないが、粉ごなになったヘッドライトのガラスが散乱し、暗くてよく見えないが、路面に何かの液体が飛散した跡が点々としていた。思わず目を背けた。

 私とラッポンはすぐに車で病院に駆けつけることにした。
嗚呼、いったい、なんでこんなことに!

K嬢はあと5日でさくら寮での10か月間のボランティアを終えて日本に帰国する予定で、2日後に寮内で盛大なお別れ会を予定していた矢先だった。今日は最後の休暇をとって、仲のいいエコホームの寮母のプンとナイトバザールに食事と買い物に出かけ、その帰りに事故に遭ったようだ。寮に到着する300メートル手前だ。つい1時間ほど前そのプンから私に「今、ナイトバザールにいるんだけど、クアイッテオかなにか、お土産、要る?」と電話があったばかりだ。普段私にあまりかかってこないプンからの電話に、かすだが不吉な予感がしたのも事実だが。虫の知らせだったのだろうか。

病院に着くまでにいろんなことが頭をよぎった。大阪のご両親に連絡しなければ。それからことによっては日本領事館、重傷の場合はイミグレに滞在許可の延長手続き、保険会社への連絡、考えたくもないけれど、最悪の事態になったら…、彼女、宗教はなんだったっけ?

つい昨日まで一緒に仕事をしていたK嬢の10か月間の思い出が、脳裏を駆け巡る。

私が疲れているというと、チェンマイで学校に入って免状まで取得したという古式マッサージをしてくれたK嬢、夜遅く急な仕事を頼むために部屋に電話すると、「すみません、私、もう服を脱いでキャミソールとパンティという姿になっておりますので、すぐには外へ出られないのです」などと、別にそこまで克明に状況を説明しなくてもというようなとぼけた返答で私をなごませてくれたK嬢。その若くて未来もあるK嬢が、よりによってなんでこんなときに事故に遭わなきゃならんのだ。ああ、彼女にもうちょっとやさしくしておけばよかった。

運ばれた公立のタイ福祉病院の救急治療室に駆け込むと、スタッフのペンがいた。

「Kちゃんとプンは?」

ペンが指さした診察室の片隅に、k嬢がぽつんと立っていた。

あれ、なんでそこに立ってるの?

K嬢の顔色は青ざめ、表情が失われているが、怪我している様子はない。顔もかすり傷なくきれいで、衣服もいつものままだ。
もしかして幽霊? いや化けて出るのはいくらなんでも早すぎる。本物のK嬢だ。私の顔を見ると少しホッとしたのか、彼女は一瞬微笑もうとしたが、表情がこわばって微笑にもならなかった。ふだんなら「三輪さーん」といって駆け寄ってくるところだが、言葉も出てこない。視線が宙をさまよっている感じだ。

「よかった、無事だったんだ」

K嬢はぼんやり私を見て、うなずいた。少し涙ぐんでいる。

プンのほうはベッドに寝かせられて、お腹が痛い痛いと唸っていた。しかし、K嬢よりやや症状は重そうとはいえ、目立った外傷は少なく、意識もしっかりしている。

二人の話から事故の状況が少しずつわかってきた。二人はちょうど寮に戻るためにナムラット小学校へ入る三叉路を右折する直前で、ウインカーをつけながら、二車線道路の中央やや左側を走っていた。そこに、前方からトラックがかなりのスピード突っ走ってきて、あっという間もなく正面衝突したのだという。相手の車は自分の車線を完全に逸脱して道路の右側を走ってきたのだという。ひどい話だ。

プンは「ごめんなさい、みんなに迷惑をかけてしまって」とつぶやいた。

「心配しなくていい、大事に至らなくて何よりだ。今は何も考えず、安静にしてろ」

K嬢は簡単な問診の結果、入院の必要なしと診断されたが、診察室の椅子に座って、肩を震わせてずっとすすり泣いている。怪我の大きさそのものよりも、事故に遭ったときの恐怖やショックの方が大きいのだろう。

事故当時の目撃者の話では、衝突後、K嬢はすぐに近くの売店に駆け込んで、救急車が到着するまでずっと体を震わせて号泣していたという。また事故を起こしたトラックの運転手は事故後も朦朧とした様子で、明らかな酩酊運転のようだったという。

さっそく警察署に行くことにした。被害の大きさはともかく、大勢の目撃者の眼前でこれだけの事故を起こしておきながら逃亡したトラックの運転手を探し出し、なんとしても事故の原因と経緯を究明しなければ。(続く)


普段の道路風景
ふだんのナムラット通り。事故はここで起きた。

事故現場
一番乗りしたスタッフが撮影した事故後の現場写真。


2012年03月25日   「K嬢の奇跡(後編)」


さくら寮近くの道路でバイクに乗っていて、暴走してきたトラックに衝突され、ひき逃げされたさくら寮ボランティアのK嬢とスタッフのプン。奇跡的に無傷だったが、その事故の真相を知りたい私たちは、チェンラーイの警察署に向かった。

夜もふけており、夜勤明けで眠そうな40代の交通事故担当の警察官は、私たちの説明にあまり真剣にとりあってくれなかった。

「あのね、私ももう15年このかた交通事故の処理を担当してるんだ。現場をちょっと見れば、たいていの状況は推察できるんだよ。十中八九は右折中のバイクの前方不注意か強引な割り込みだよ。間違いない。そりゃ当てたトラックも、逃げた点では当然過失があるけどな。事故自体はどっちに非があるかは、なんとも言えんなあ」

警察官は他にもさしせまった事案をいっぱい抱えているから、そんな軽微な事故に関わっておられないというような迷惑そうな顔つきだったが、私たちが「被害の大小の問題ではない」となおも食い下がると「まあ、車のナンバーの目撃者もいることだし、今、陸運局に問い合わせてるから、車のオーナーはすぐに抑えられるさ。明日には少なくとも車の持ち主は見つかるよ」と言った。

私たちはあまりやる気の感じられない警察をあてにせず、自分たちで目撃者と証拠探しをすることにした。事故現場の周辺は村では一番賑やかなところで、目撃者も多かった。現場に帰って聞き込みをすると、複数の目撃者が車のナンバーを正確に覚えていることがわかった。目と鼻の先にふたつあるコンビニの監視カメラも見せてもらったが、事故現場までの画角は及んでいなかった。

ふたたび現場に戻って写真を撮っていると、さくら寮の子どもたちが通っている学校の夜警の男性が寄ってきて、「この向かいの建築資材店も監視カメラが設置されていて、そこに事故の一部始終が写っているはずだよ」と教えてくれた。

翌朝、私たちはその建築資材店の監視カメラのハードディスクに残っていたビデオ映像を見せてもらった。その防犯ビデオにはまさに測ったようにどんピシャのフレーミングで、事故の一部始終が映し出されていた。
それは身震いするほど衝撃的な映像だった。

画像に記録された時計では、事故が起ったのは19時47分43秒。彼女たちの証言どおり、バイクは約20メートル先の三叉路を右折するため、ウインカーを出しながら道路の中央やや左(まだまったく反対車線には侵入していない)を徐行していた。そこに前方から、完全に自分の車線を逸脱して二車線道路の右側をトラックが突っ走ってきた。時速40?50キロは出ているだろうか。ものすごい衝撃でトラックとバイクは正面衝突し、バイクに積んであった荷物がいくつかの塊に別れて後ろに7メートルほど飛び散リ、路上に叩きつけられているのがわかる。あとで聞いたところではバイクの前籠にはナイトバザールで買った衣類や夜食用のクイッテオが入っていたという。事故現場で飛び散っていたのはこのクイッテオの汁だったのである。

映像を見る限り、なぜこれだけのガチの衝突で、二人がかすり傷程度のケガですんだのか信じられないほどの激しさだった。

衝突から約2秒後、K嬢が路面に尻餅をついたあと、車道の左側に小走りに逃げて最寄りの雑貨商店に走り込む姿、そしてバイクを運転していたプンさんが反対側の路肩に逃げ込む姿が写っていた。タイではこうした事故の後、たとえ安静が必要であろうとも道路の上に倒れたままの状態にしていては絶対にいけない。もう一度同じ車に轢かれたり、前後からきた別の車にはねられてとどめを刺されるといったケースが多いということを二人とも聞き知っているからだった。実際、そのトラックは事故後、少しバックした(勢いをつけるためか?)あと、おもむろにアクセルをふかして逃走している。もしK嬢が道路に倒れたままにしていたら、「轢き直し」をされていたかもしれない。恐ろしい話だ。

衝突の瞬間からの約1、5秒間、二人がどのような角度で宙に舞い、どのような姿勢で着地したのか、監視カメラの映像では暗くてよく検証できない。というか、映像ではK嬢とプンは暗がりのなかで一瞬姿を消し、約2秒後、衝突地点から5メートルほど後方の道路に落下している。 K嬢によれば、衝突した瞬間、「ああ、これで自分は死んだ」と思ったという。あの空白の1、5秒間については、体が一回転したような気がしたという。衝突した車のネッドライトの明かりが弧を描くように視界で一回転したからだという。バイクの後部座席からそのままバック転をしてちょうど360度回転してお尻から着地したという感じだろうか。バイクの前籠に衣類があったこと、K嬢の身体が頑強であったこと、バイクを運転していたプンさんがふくよかな体をしていて、後ろのK嬢の衝突の衝撃を和らげた(つまりエアバッグの役割を果たした)ことと、まるまる一回転してのスーパーE難度での着地が10点満点の出来だったのが、奇跡的な無傷につながったのだろうか。皮下脂肪もたまには役に立つのか。

 その約1、5秒間の奇跡の宙返りの瞬間がまるで神かくしのごとく、ビデオ映像からブラックアウトしていることも不思議だ。

私はこうも考えた。衝突後、ふたりの体はそこに偶然できたブラック・ホールから異次元の世界に迷い込み、1、5秒後にもとの世界に帰ってきた。もしくは私たち全体がもうひとつの世界(パラレルワールド)と入れ替わり、その世界を生きている。向こう側のもうひとつの世界では、彼女たちの葬儀がしめやかに行われている。なんてSF小説の読みすぎだろうか。

それにしても、あの衝撃でコンクリートの路面に放り出され、二人ともお尻すら打撲すらしないなどいう幸運は、科学的に考えても天文学的な確率でしか起こり得ないような気がする。

 周囲のタイ人は言う。

「彼女たちが無傷だったのは、(さくら寮のような」人のために尽くすボランティアの仕事をして徳を積んでいたことの賜物ですよ」

  そこまでいくともう信仰の世界であるので、なんともいえない。が、無神論者の私でさえ、この事故の顛末を見てから、もしかしたら神も仏もいるのではないかと思うようになった。それほどこれは不可思議な出来事に思えた。

いずれせよこのビデオ映像は、プンさんの運転にまったく非がなかったことの動かぬ証拠だ。私たちは建築資材店の人の好意でこの映像をコピーさせてもらい、USBメモリーに入れて警察署に向かった。昨夜の警察官もこれを見ると、さすがにうなり、「ありゃー、反対車線を速度も緩めずに走ってきてるな。100%相手の過失だね」と少し申し訳なさそうに言った。

まもなく車は押収され、ひき逃げ犯も捕まった。運転していたのは宴会の帰りで酒に酔っていた塗装業を営む中年男だった。全面的に非を認め、バイクの修理代とけっして多額ではないものの、タイでは相場とされている程度の賠償金をきっちり支払うことで示談となった。

K嬢はその後、PSTDに悩まされてしばらく不眠に悩まされ、ぼんやりとし、ときどきしくしくと泣いていたが、二日ほどで完全復活して、事故から三日後に行われたホコ天での日本人オヤジバンドにもボーカルとして出演し、予定通りの日程で日本に帰っていった。「K嬢不死身伝説」をさくら寮に残して。

そしてなんと、その2週間後には「埼玉で上空4000メートルからスカイダイビングを楽しんできましたよ」なんてメールを送ってきた。

防犯カメラ
真相判明の決め手となった防犯カメラ




2012年05月31日   「疱瘡譚」


疱瘡
こんな症状にお心あたりのある方はご一報を

 それは5月初旬のことだった。数日前から奇妙な倦怠感を感じてはいたのだが、昼ごろから突然ドーンと高熱が出て、3時間ほどベッドに倒れ込んでそのまま動けないほどになった。夕方、嫌な汗をかいて目覚めると、激しい頭痛がし、背中を何かに突き刺されるような悪寒が走った。この感覚には覚えがある。十数年前に二度もかかったマラリアである。このなんともいえない不快な感覚は、あのマラリア発症時の初期症状そのものだ。

  やばい。その10日ほど前、私はミャンマーのシャン州のチェントンを旅していたのだった。暑期後半のこの時期、ミャンマーやラオスの山地帯、メコン川沿いはマラリアが猛威を振う。過去に二度、ラオスでマラリアにかかったのもまさにこの時期だった。

一度は熱帯熱マラリアで、40度を超える高熱に1週間うなされ、小便が真っ黒になった頃に病院に運び込まれた。治療開始後も熱と薬物投与のせいで嘔吐と不眠、幻覚に数日間うなされ、死線をさまよった。退院したときは5キロほど体重が減っていた。もう二度とマラリアなんかにはかかりたくないと思ったほどだ。それに今度はもう40台前半の頃の体力もない。マラリアが疑われたら早期発見、早期治療に努めなければ命取りになると肝に銘じていたのだ。

すぐに病院に駆け込み検査をうけると、とりあえずマラリアに関してはシロだった。一安心である。

「風邪でしょう」と当直の若い医師が言い、「お泊まりになりますか?」と看護師が何度も尋ねた。しかし、風邪で入院したところで、2、3日解熱剤と点滴を打たれ、まずい病院食を食べさせられるだけである。「泊まっていったらどうですか?」なんとしても私を入院させたいらしい看護師の勧めをさえぎって、解熱剤を打ってもらい、薬を処方してもらって帰った。私は大の病院嫌いである。

ところが、その夜も高熱はおさまらず、全身がしびれるような痛みに襲われ続けた。足先がつったように硬直し、体の節々が痛み、朝まで眠れなかった。

翌日から、これまで体験したことのない奇怪な症状が現れ始めた。まずは足の裏、手のひら、口元、そして頭皮の順に、赤い斑点というか、湿疹のようなものが次々に現れ、それは次第に全身へと広がっていった。頭皮にはあちこちにかさぶたのようなものができていて、はがすと乾いた膿みの塊のようなものが巨大なフケのように剥がれ落ちた。シャワーを浴びると、頭皮だけでなく、顔面も激しく痛む。鏡ではよく確認できないが、顔にも細かな湿疹が出ているようだ。そしてしばらくすると手の平や足の裏に、水疱瘡状のふくらみをもったブツブツができ始めた。

あ、と思った、そういえば私が発熱する数日前、実は2歳半の息子も発熱して手のひらと足の裏に水膨れのようなものができ、病院に連れていったのだ。妻は水疱瘡(タイ語でイスイサイと呼ぶ)を疑ったが、若い医師の診断は「手足口病」ではないかとのことだった。手足口病は日本では夏風邪の一種といわれ、子どもがよくかかるウィル性の疾患だ。通常は放置しても完治するが、EV71とかいうウィルスの場合は重症化することもあり、アジア各地で毎年多くの死者も出ているらしい。

もしや息子の手足口病がうつったのか。私は朦朧とする頭でパソコンに向かい、いろいろ情報を集めた。水疱瘡も手足口病も稀に成人への感染があること、そして発症すると子どもより重症化する場合があること。が、水疱瘡や手足口病では通常出ないとされる部位に湿疹が出ていて、断定はできない。

一日すると高熱はおさまり、37度台まで落ちたが、疲労感、倦怠感はおさまらず、足裏と手のひらの湿疹、水腫は広がっていった。

翌日、起きて鏡をのぞき込むと、さらに大変なことになっていた。顔面に無数の赤い湿疹ができて、まるで怪奇映画の主人公である。手の甲にも、胸からお腹にかけても真っ赤な斑点が広がっている。加えて舌や喉など、口の中まで炎症が広がり、食べ物が喉を通らない。何かを飲み込むだけで喉が激しく痛むのだ。足の裏の無数の水膨れも紫色に膨張し、圧力を加えると激痛が走る。ついに歩くことも、食べることもできなくなってしまった。

いったいこれはなんなのだ。息子から移った手足口病でも水疱瘡でもないとすれば、原因はやはりあのチェントン旅行の劣悪な環境と疲れで、何か恐ろしい風土病にでも感染したのだろうか。

ミャンマーは電力が圧倒的に不足しているため、電気が使えるのは午後6時?10時ぐらいまでの数時間である。投宿した、建物と門構えだけは立派な国営ホテルには一応エアコンが設置されているが、ほとんど飾り物の状態で、一番暑い日中も、夜間も使えない。せめて扇風機ぐらいあればと思うがそれもない。おまけにシーツには蚤かダニらしきものがいて、痒くてのたうちまくった。あまりの寝苦しさに3日間一睡もできなかった。あの国営ホテルはかつてのシャン王朝諸藩の中でもひときわ栄華を誇っていた藩邸の跡地に立っている。旅人を一睡もさせなかったあの異様な雰囲気は、藩邸を取り壊されたシャン王族の呪いだったのか。

いやいや、冷静に考えると、あのチェントンのホテルでウィルスを伝染する虫に刺されたのが原因かもしれない。発疹と発熱をともなう伝染病をネットで調べると、恐ろしい病気が次々と出てくる。発疹チフス、ツツガムシ病、日本紅班熱、天然痘、ペスト…。症状の画像検索をすると、どの病気も経過や症状が自分のそれと酷似している。ぎゃーーーっ!

再び病院へ駆け込んで、精密検査を依頼する。しかし医師からは、これは水疱瘡でも帯状疱疹でも手足口病でも発疹チフスでも、ましてや天然痘などでもないと一笑に付された。しかしなんらかのウィルスに感染して発疹が起こっている可能性が高いという。そのウィルスの正体が知りたいのだが、医者は検査もしないでありきたりの抗生物質を処方するのみである。

結局1週間後、やっと水膨れの増加は終息に向かい、足の裏や手のひらに出来ていた水膨れのようなものは破裂せず、あずき色の内出血のように扁平に広がりはじめた。痛みやかゆみはない。口内炎も収まったのか。食事も喉を劣るようになった。

しかし、その後、内出血のようなふくらみは自然消失することはなく、ついに足の裏と手のひらの皮膚全体が死んで、ひとまとめに肉から剥がれかかってきた。下から新しい皮膚が再生しつつあるので問題はないが、足の裏の死にかけた皮膚が肉から離れてブラブラしており、しばらくはゴム手袋、ゴムの足袋をまとっているような違和感。このまま死んだ皮膚が全部こんな感じで全身を被ったら…。私は蛹になってしまうのか!

やがて足の裏と手のひらは表皮が丸ごとぺろりと一皮むけ、赤子のような新しい皮膚が再生しつつある。

アフリカから帰ってきたばかりのボランティア・茅賀でさえ、これを見て叫んだ。

「こんな症状、日本の病院だったら確実に隔離されてるレベルですよ!」

幸いにも今のところ家族やスタッフにも二次感染者は出ていない。子どもたちが寮に戻ってくる前でよかった!?
にしても、いったいこの病気はなんだったのか。

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