さくら寮日記2007年のページ
リス族の子供達

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さくら寮日記 2007年

子供たち

  2007年01月30日   「タイ流写真術」

  2007年03月27日   「ラーメン地獄」

  2007年05月10日   「スタッフ慰安旅行メーホンソン編」

  2007年06月28日   「ランチバイキング」

  2007年08月28日   「生と死の閾」

  2007年09月28日   「携帯電話問題」

  2007年10月24日   「ノーパンとポストモダン」

  2007年11月28日   「中村さん南方に死す」

  2007年12月28日   「13歳の決断」



2007年01月30日   「タイ流写真術」


タイの人のお花畑における正しい写真の構図

タイの人のお花畑における正しい写真の構図

ちょっと古い話題になってしまって申し訳ないが、1月初旬、さくら寮の子供たちを連れてチェンマイで開催中の国際園芸博を見学に行ってきた。さくら寮としては8年ぶりぐらいの遠足である。簡単に遠足といっても、数人のスタッフで子供140人を引率して行くというのはなかなか大変な作業である。

ふだん大型バスに乗りなれていないので、すぐに車酔いする。小便が近いので、いたるところで緊急停車しなければならない。女子たちには緊急時に路上でいつでも用が足せるよう、プリーツ式ロングスカートの着用を奨励した、というのは冗談である。(モン族のおばさんたちは村の中でよくスカートをはいたまま立って小便をしていたっけ)

案の定、チェンマイにつく頃にはバスの中はゲロの海と化し、そのゲロの匂いでさらに酔うというゲロ二次感染者も出て、大騒ぎだった。

出発前、子どもたちが、園芸博にもって行きたいので私にカメラを貸してくれと言ってきた。私はカメラマニアである。カメラならいくらでも持っている。といっても残念ながらこのごろ流行のデジカメは2台しかなく、あとはフィルム式のアナログカメラである。要するに貧乏性で、もう使わなくなったのに捨てられないでいるカメラがいっぱいもっているのである。そんな私も、少しでも金になるならとそれまで使っていたアナログの一眼レフカメラをチェンライの中古カメラ店に売りに行ったことはある。しかし、ボディ3台、レンズ3本、フラッシュ2本(新品購入時総額70万円以上)の買取総額が、2000バーツと見積もられ、逆上して帰ってきた。馬車馬のように働き、思い出のたくさんつまった愛器が2000バーツと聞いて、急に不憫になったのである。まあ現実は、さすがチェンライでも、アナログカメラをこれからやろうというような酔狂な人はいないのであろう。

タイの人のお花畑における構図

しかし、子供たちはアナログカメラでもかまわないから貸してほしいという。おう、この謙虚な姿勢! カメラを捨てたり叩き売らないでとっておいてよかった。ふたたび喜んで使ってくれる人が現れたのだ。

「じゃあ、フィルムもおまけして貸しちゃうから、みんな園芸博では、きれいな花、珍しい植物を見つけたら、バシバシ撮って来るんだよ」と送り出した。

 さて、その園芸博であるが、当初はどうせ「ナイトサファリ」などとおなじで評判倒れに終わるのではと噂されていたが、どうしてどうして、予想をはるかに超える人出で、年末年始は前売り券もすべて売り切れとか。南タイ、イサーン、タイ全土からの団体客も連日観光バスを連ねてどっと押し寄せているのだ。外国から来た旅行者でさえ当日券も買えずにあきらめて帰っていかざるをえないほど連日満員札止め盛況ぶりらしい。 私たちもやっとのことで団体入場券150枚分を確保したのだった。

入場してみて、人気の理由がわかったような気がした。これはまさに、タイ人のタイ人によるタイ人のための、どこからどこまでタイ人好みのイベントなのだ。いたるところに美しく手入れされた庭やお花畑があり、その前でみなさん、記念写真を撮っている。

タイの人の観光の三種の神器といえば、滝、温泉、お花畑である。

タイ人ほどお花畑の前で写真を撮りたがる人々を私は見たことがない。花畑の前に立てば、10人中9人までは、パブロフの犬のごとく写真を撮るという行為に走るのである。しかもお花と一緒に写真を撮るなんてものではなく、お花をバックにフレームのど真ん中を占拠し、ドーンときめのポーズをとるのだ。あくまで主役は自分で、花は引き立て役、人物が写りこんでいない写真は写真にあらずとといった感じ。花だけをしみじみと撮るというような自然愛好家は、まず100人にひとりぐらいしかいない。

 案の定、園芸博から帰って、さくらの子供たちが撮影した写真を見せてもらったら、数百枚すべてが、自分たちが中央に陣取ってピースサインやらポーズをとっているものばかりだった。しかし、なんでみんなこんなにナルシストばかりなんだ?

先日など、中3の寮生数名が、卒業前に友達と写真を撮りたいからデジカメを貸してくれといってきた。そしてものの2時間もしないうちに、メモリーカードいっぱいの360枚を撮りきってきたのである。すべて自分たちが派手な衣装に着替えてファッションモデル風のポーズをとっている写真だった。この撮影枚数はいったいなんなんだ。35ミリフィルムに換算して10本分じゃあないか!

フィルム時代から 写真を撮っている私たちにとっては、ワン・シャッターはとても重いものである。リバーサルフィルムなんかは36枚撮り1本で現像代を含めると1600円もかかったのである。だから構図からアングル、露出に至るまでワンカット、ワンカットに気を使いながら、慎重にシャッターを押したものだ。

だが、いくらでも消せるデジカメというのは、安易にシャッターを押すから、マグレでいいものは撮れても写真の腕は上達しないぞ、などと説教してみても無駄である。そもそも、しかし子供たちは写真がうまくなりたいなんて思っているわけではない。芸術的な写真が撮りたいと思っているわけでもない。彼女たちにとって、うまい写真、下手な写真の区別があるのではない。自分が写っている写真とそうでない写真の区別があるだけなのだ。

タイの人のお花畑における構図

タイの人のお花畑における構図
寮内演芸会にて

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2007年03月27日   「ラーメン地獄」


チェンライの町のやや郊外、サマーキー高校やカンチャナ専門学校などへ向かう道沿いに、「ジャッカン」という名の安食堂がある。バーミー・ナム(ラーメン)とかカオ・カームー(豚足煮込みかけご飯)、カオマンカイ(鶏蒸しご飯)、カオパット(焼き飯)などのメニューがあり、どれも一皿20バーツ程度の大衆的値段である。学生などもよく利用している。

私は以前、山へ行く途中で偶然ここに入って、ラーメンを注文したのだった。でてきたラーメンを見て少しぎょっとした。異様に量が多いのである。一般的にタイのバーミー・ナムの麺の量は日本の半分程度で、ちょっと小腹がすいたときの夜食にちょうどよいぐらいの量だ。メインディッシュとしては2杯ぐらい食べないと満腹にはならない。しかしこの店のラーメンは、日本のラーメンに匹敵するボリュームで、私も一杯食べて満腹になってしまった。味はまあそこそこといったところで、特別うまいというわけではないが、これで20バーツはなかなかお得だと思った記憶がある。

そのとき同行したカンポン君によれば、実はこの店は、ラーメンを三杯食べたらただになるということで有名な店なのだそうである。日本でもギョーザ、ラーメンなどの店にこういう企画は多いが、チェンライではまだ珍しく、新聞にも紹介されたことがあるらしい。

店の壁には、これまでに三杯を達成した人々の名前が掲示されている。見るとその数はまだ5本の指に満たない。開店してどのぐらいたつか知らないが、やけに少ないではないか。タイの人に大食いの人は少ないのか。それともプライド高いタイ人はみな、たかだか60バーツのラーメン代をただにするために、そんな馬鹿馬鹿しいことに挑戦しないのか?

後日、このことをさくら寮のボランティア、茅賀宏君(仮名)に話したら、かなり乗り気の姿勢を見せた。茅賀君は知る人ぞ知る大食漢である。いつもさくらの食事では、並みの人よりも大食いのこの私のさらに2~3倍の量のご飯を食べている。中華料理など、4人ぐらいのコースのものをひとりで平らげてしまう実力者である。特にステーキなど肉系のものは無敵である。

「三輪さん、今度ぜひ連れてってください。挑戦してみます。僕、日本のラーメンでも3倍ぐらいは軽く食べられますから。体調さえよければ、間違いなく3倍食べられますよ」

私も思った。茅賀ならできる!われわれは綿密に計画を練り、決行の日を待った。

で、本日、その日が来たのである。

今日は一緒に行く予定だったカンポンが、今朝亡くなってしまったお爺さんの葬儀に出るためいけなくなったので、ラッポン、三輪、茅賀の3人が挑戦することになった。

正午近く、われわれ三人はジョイさんが愛乗していたセダンで安食堂の前に乗り付けた。もちろん茅賀は昨夜早めに就寝してたっぷり休養をとり、もちろん今朝は朝食抜きである。

ラッポンは寮生兼スタッフ見習いで、かつて日本へ研修旅行に行ったときは、岐阜の伊藤みね子さん宅で出された約10人分の飛騨牛の焼肉(余裕を見てかなり大量に用意されていたのだが)をすべて平らげてしまったというさくら寮屈指の大食漢である。

すでに店の中には数組の客がいて、何人かの客がこのラーメン三杯タダ企画に挑戦している様子だった。

われわれがテーブルについたとき、ちょっとしたプロレスの選手並みに体格のいい若い男が(それは飲料水のタンクを配達するトラックの運転手さんだった)が、店を出ようとしていた。彼も三杯ラーメンに挑戦し、敗れ去ったものらしい。その兄ちゃんは「マイワイ(無理だよ~)」と店の人としゃべりながら照れ笑いをうかべ、肩を落として去っていったのだ。

それを見たわれわれは少しひるんだ。こんなガタイのいい兄ちゃんに食べられなくて、本当にわれわれは3杯食べることができるのか。

shigasanラーメン
 2杯目に挑戦中

われわれはとりあえず疑問に感じていた項目を確認した。

「あのー、汁も全部飲まなきゃいけないんですか」

すると、汁は適当に残してもかまわない、とにかく麺を残らず食べればよいという返事。そうか、麺勝負か。勝算はあるぞ。

さて、注目の一杯目が出てきた。茅賀君は、「ふーん、この程度ですか。思ったより少ないです。普通に三杯いけるんじゃないですか」と自信ありげだ。

その滑らかな口調どおり、1杯目はものの2、3分で食べ終わった。快調なペースである。マネージャー代わりの私が厨房に向かって告げる。「二杯目ください!」

ラッポンも1杯目を食べ終わった。

私のほうもなんとか一杯目を食べ終わって、2杯目に挑むべきかどうか少しためらったが、どうがんばっても3杯は無理とあきらめ、どうせ金を払うのなら、ラーメンじゃなくてご飯物にしようと、焼き豚ライスを注文した。この時点で私はとりあえず棄権である。

茅賀君は2杯目もかなりのハイペースで平らげた。所要時間何約5分。まだ表情には余裕がある。「なかなかうまいですよ、このラーメン」相手を称える余裕さえある。しかしこういうのは、間をおきすぎるとかえって満腹感がやってくるから、一気にいったほうがよい。早く3杯目に着手しなければ。マネージャーの私は茅賀君に代わって厨房のおばさんにむかって叫んだ。「三杯目!」

厨房のおばさんは平静な顔で頷く。なぜか向こうもさして動揺の気配はない。おそらくここまではこの店では見慣れた光景なのであろう。

しかし予想に反して3杯目はなかなかテーブルにやってこない。痺れを切らした私は、厨房のほうに歩み寄り、ラーメンをゆでたり延ばしているおばさんに、「あの、三杯目は・・・」と声をかけた。

三杯目のラーメンを催促するために厨房に近づいた私は、その光景を見て息を呑んだ。

ラーメン
厚化粧の風吹ジュンのようなおばさんと、もうひとりのさっきまで給仕係をやっていた醤油顔の女性が二人がかりで、10人分はあろうかと思われるほどのおびただしい量の麺を茹で、ほぐし、さらにどんぶりの中にギュウギュウと必死に押しつけていたのである。ふたりの表情はさきほどとうってかわって、山姥のような形相になっている。すでに麺だけでてんこ盛りになったどんぶりに、さらに上から執拗に麺を押し付け、新たに茹で上がった麺を盛り、さらにそれを上から全力で圧縮しようとしているのだ。これにどうやってスープを入れるわけ?

私はこの、見てはいけなかったかもしれない恐ろしい光景を目の当たりにして驚愕に打ち震えながらも、思わず噴出しそうになり、必死で笑いをこらえながら、席に戻った。

テーブルでは茅賀が無邪気な顔をして「三杯目、まだあ?」と私に聞いている。

私は笑いをかみ殺しながら、「もうすぐくる。でも、本当に大丈夫かい」という。茅賀は「大丈夫です。いけそうですよ」と自信満々だ。

やがて、ラーメンが運ばれてきた。汁はなく麺だけてんこ盛りで、上のほうに申し訳程度に野菜と薄っぺらな焼き豚が数枚トッピングしてある。スープは別にやってきた。

この巨大なソフトクリームのように聳え立った麺の山を前に茅賀は目 をむいた。私は我慢できなくなって笑いころげた。

「なんですか、これ。詐欺です!」

茅賀はそう言いながらも、果敢にも三杯目に挑戦しはじめた。ラッポンは茅賀の三杯目のどんぶりを見て、すでに戦意を喪失し、挑戦を放棄している。

しかし、さすがの茅賀も、この圧縮率300%のラーメンを食べきれるわけがない。食べても食べても、圧縮された麺が下からモコモコと盛り上がってきて、いっこうに減っていく感じがしないのである。おそらく器の下のほうは麺が固まっているのではないかと思うほどである。麺地獄である。それでも茅賀は淡々と食べ続けている。悲壮感さえただよってきた。先が見えず、ほとんど希望のない不毛な戦いだ。まるで「シジフォスの神話」のような話である。10分、20分が経過した。

最初の頃、「誘惑に負けて汁を飲むやつはかえって満腹になるのが早くて負け組」といっていた彼もついに「これじゃあ、のどが詰まる」といってスープや水に手を出しはじめた。

ラーメン
3杯目はこんな感じ

茅賀の顔面が蒼白になり、苦痛の表情が色濃くなった。

「もうなんだか、粉を食べているような気分になってきました。ラーメンの味じゃないです」

「拷問です」

「もう、のどを通りません。これ以上食べたら、はきそう」

限界である。ドクターストップだ。セコンドがタオルを投げた。

やっとどんぶりの水平線ぐらいまで麺の高度が下がったあたりで、茅賀は敗戦を認めた。

公正取引委員会に訴えるべきですね、これは。三杯目はこんな量だって、あらかじめ知らせておくべきなのに。こんなんじゃ、誰が食べられるんですか」

確かにこのやり方はアンフェアである。だが、きっとタイでは60バーツごときで「騙された」と目くじらをたたる人はいないのあろう。洒落ですむのであろう。

それに、この軽く10人分はあろうかと思われる三杯目のラーメンの残したぶんは、スープつきで持ち帰りができることがわかった。果敢な挑戦者同様、店側もまた麺を大量につぎ込まなければならないというリスクと経済的損失を強いられているのである。逆に言えば、60バーツでこんなにたくさんラーメンをお土産にもって帰れるのは得だという考え方もできる。確信犯でこれをやる人がたくさん現れたら、店はつぶれてしまうかもしれない。

なお、お持ち帰りしたラーメンは、2杯目できりあげたラッポンが全部平らげたといううわさであるから、むしろラッポンが挑戦していたら、達成できていたかもしれない。

後日、この話を年長の寮生たちにしたら、みなこの店のことは知っていて、「ああ、昔の三杯目はもっと常識的な量だった」という。そりゃ、今日のような量じゃ、琴欧州のような力士でもない限り、誰も食べられはしない。店側も開店当初は加減がわからず、達成者が続出したため、これでは採算が合わないとばかりに徐々に量を増やしていったのかもしれない。

なお、その日の午後、茅賀は具合を悪くして寝込んでしまった。血糖値があがり、心臓がバクバクと打って死にそうだったという。

「こんなことで命を落としたら、むっちゃ恥ずかしいですわ。葬式のときに親類縁者にはどうやって説明するんですか?」

私はすかさず、年末の「NHK紅白歌合戦」で流れていた『千の風になって』とかいう曲のメロディーにあわせて、

「私のお墓の前で、笑わないでください~」と歌ったものだった。

ギブアップ
ギブアップ!

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2007年05月10日   「スタッフ慰安旅行メーホンソン編」

「どこでもいいから連れて行け!」という主体性のない要望にこたえ、5月初旬、さくらプロジェクトのスタッフ慰安旅行が敢行された。

さくらプロジェクトは超零細NGOなので、スタッフ全員合わせても両手の指に満たない。今回は不参加者も3名あり、参加者はたまたま日本から来ていた私の友人であるKさんも合わせて計7名。このKさん、熱狂的な蝶コレクターで、最近はタイのみならず、ラオス北部やスラウェシ、ボルネオ、はては南米まで遠征している。蝶を採っているときは人格が変貌してトランス状態となるので、珍蝶を追いかけて昆虫網を持ったまま橋の上をオーバーランし、10メートル下の川に転落するなど、数々の武勇伝の持ち主である。

 メーホンソンでは森の中のコテージに宿泊
メーホンソンでは森の中のコテージに宿泊

さて毎年恒例のスタッフ慰安旅行、一昨年はラオスのヴィエンチャン、昨年はミャンマーのチェントンと2年続けて「パスポート不要だけど一応、外国」だったが、今年は円安バーツ高による運営予算不足が懸念されるおり、節約モードで国内旅行となり、チェンダオからパイへ抜け、メーホンソンからクンユアム、メーサリアンをまわって、チェンマイを経由してチェンライに戻ってくるという、安宿B級グルメ6日間の旅ということに落ち着いた。とりあえずなんとなくリゾート気分に浸りたいという女性スタッフと、ギャルのいそうなスポットが希望のカンポン、Kさんの秘境蝶採集ポイント、それに国境オタク茅賀宏の国境貿易の現状査察などというさまざまな要望を取り入れねばならないので、調整は難航をきわめた。そして初日からいきなり車がパンクである。

それにしてもあきれたのは、うちの女性スタッフたち、そろいもそろってよく眠るということである。カンポン運転のハイエースがチェンライを出発して走り出した途端、みな最後部でいびきをかいて眠り始めた。車酔い防止のためには眠りにつくのが手っ取り早いというのが彼女たちのいい訳であるが、車窓から刻々と変わり行く風景を見てしみじみと旅情にふけるなどという態度は毛頭見られない。しかし、飯の時間になるときっちりと起きてきて豪快に食べ、満腹になったあとはまた車の定位置に戻り、大口を開いてガーガーと眠っていた。いったいこの人たちにとって、旅する意味がどこにあるのか。

そんなわけで、M150などを飲みながらひたすら運転を続けるカンポン、蝶のいそうなポイントにさしかかると、車を飛び降りて狂ったように網を振りまわすKさん、そんなときもあいかわらず後部座席でいびきをかく女性スタッフたちという構図は、終始変わることがなかった。

ところで今回のこのルートには個人的な思い入れがあった、あれは20年近く前のこと、私はランプーン在住の元日本兵、藤田松吉さんと一緒に、日本兵の遺骨探しの旅にきたことがあったのだ。

藤田さんは当時70歳。第二次世界大戦中、インパール作戦に従軍し、敗戦後の混乱の中でタイに取り残され、数々の辛酸をなめながらもタイで家庭をもって永住する決意をした。暮らしぶりは少しずつよくなったが、戦後10年ほどたったある日、ビルマ戦線で亡くなった多くの戦友たちの霊が何千人も夢枕に立ち、「苦しい、水をくれ」と迫ってきた。いてもたってもいられなくなった藤田さんは、以来、かつて「白骨街道」と呼ばれたこのパイ~メーホンソン~メーサリアンにかけての一帯をまわって、遺骨を回収するようになったというのは有名な話だ。

戦争博物館
クンユアムの町の中には「戦争博物館」なるものもできていた。

20年前の乾期、日本のあるローカルテレビ局が、その藤田さんの遺骨回収の旅を追うドキュメンタリー番組の取材するためにタイを訪れ、私はひょんなことからボランティアのタイ語通訳および穴掘り人夫として同行させていただいたことがあるのだ。約10日間の旅だった。まださくらプロジェクトをはじめるずっと前の話だ。

乾期とはいえ日中は気温が30度以上に上昇した。炎天下の中、私たちは朝から夕方まで、地元の住民雄のかたがたから情報を得ながら、森の中や住民の家の庭、道路わきなど、遺骨が埋まっていると思われる場所を掘り続けた。人生初のボランティア体験であったが、日本でもあんまり肉体労働したことのなかった私は当然ながらすぐにバテてしまい、ほとんど使い物にならなかった。

当時すでに戦後50年近くたっており、もう日本兵の墓のことを正確に記憶している人も少なく、藤田さんの発掘は難航していた。遺骨の近くには銃剣などの遺品が一緒に埋められているはずだということで金属探知機も使ったが、探知機が感応して、必死に掘り続けても、出てくるのは空き缶ばかりということも多かった。

それでも藤田さんは休むことなく掘り続けた。掘って、掘って、掘り続けた。その一心不乱の形相は、まるでなにかにとりつかれているかのようだった。もう遺骨が出てくるかどうかという問題を超えて、掘ること自体がなにかの祈りの姿勢であるような気がしたのだ。 クンユアムの安宿に泊まった夜、私たちは藤田さんからさまざまな思い出話を聞いた。

敗走する途中で、道沿いにはマラリヤや負傷で動けなくなった戦友たちが折り重なるように息絶えていた。自分も傷口が化膿して蛆がわき、それをナイフで抉り取りながら、道端で亡くなった戦友たちのポケットから「すまない」といって薬をもらい、やっとタイに逃げ延びてきたという。

町の中には、帰国した旧日本兵の子供もだという人もいて、なんとかマスコミに頼んで日本にいる自分の父親を探してほしいと涙ながらに訴えかける人もいた。日本兵の遺品を見せに持ってくる人もいた。 20年前に見たクンユアムはさびれた田舎町という感じで、まだ日本人の亡霊が漂っているような雰囲気があったが、今回久しぶりに訪れて、その変貌ぶりに驚いた。

かくして、スタッフ慰安旅行は終わり、さくら寮はにぎやかな新学期を迎える。

メーサムレップにてミャンマー国境を望む
メーサムレップにてミャンマー国境を望む

チェンマイでは一部同好の志の希望によりバタフライ・ファームにも立ち寄る
チェンマイでは一部同好の志の希望によりバタフライ・ファームにも立ち寄る

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2007年06月28日   「ランチバイキング」

民族衣装で集合した今年のさくら寮生
民族衣装で集合した今年のさくら寮生

 日本人Mご夫妻の好意で、さくら寮生全員がホテルのビュッフェ・レストランに招待されることになった。これは毎年来寮されているM夫妻によって3年前から毎年続いている企画で、今年はスタッフ、さくらエコホーム寮生も含め180名がその恩恵にあずかった。

チェンラーイにある中級~上級クラスの多くのホテルのレストランでは、ランチタイム・サービスとして一人130バーツから140バーツほどの低価格でバイキングスタイルの昼食を提供している。洋食もあればタイ料理もあり、やや怪しげだがお寿司やお刺身もあり、麺類やソムタムもある。またデザートにもタイ風カキ氷、ケーキ、フルーツ、アイスクリームなど盛りだくさんである。子供にホテルのレストランなんて贅沢な、と思われるかもしれないが、1年に一度ぐらいはいいではないか。バーツ高のご時世とはいえ、130バーツは日本ではコンビニ弁当が買えるかどうかというような金額である。500円で、普段食べたくても食べられないようなご馳走を心ゆくまで食べられるのだし、これだけのメニューを市場で買出しして寮で調理したとしても数倍の予算がかかってしまうから、考えようによっては安いものである。

ところで一昔前までは山岳民族の人がホテルのレストランに入るなんてこと自体考えられもしなかったし、もしうっかり入ってしまったとしても、従業員や他の客からなんとなく「招かれざる客」という目で見られたこともあったと聞く。

しかし、今ではどこのホテルも山岳民族の子供だからといって入店を拒否したりしないし、いやな顔をされることもない。タイ社会の少数民族に対する差別や偏見が少なくなり、意識がそれだけ向上したということで、けっこうなことである。とはいえ、ものごとにはTPOというものもある。一流とはいえないまでもそこそこの格のホテルのレストランに、よれよれのジャージにサンダルというのもよろしくない。女子生徒にはロングスカートを推奨し、にわかお嬢さん風を装ってもらうことにした。最低限のテープルマナーも教えなければならない。

ランチバイキング

さて、レストランには2日間、3つのホテルに分かれていった。今年はリムコック・リゾート、ウィアング・イン・ホテル、ワンカムホテルである。なぜ一度に全員を連れて行かないのか。それはワゴン車1台とピックアップ・トラック1台しかないさくらプロジェクトの輸送事情というほかにも大きな理由がある。

数年前、やはりある日本人のはからいで寮生100数十人全員をLホテルのビュッフェ・レストランに招待していただいたことがある。

ランチバイキング
ウィアング・イン・ホテルでの食事風景

うれしいことに、Lホテルのマネージャーは「貧しい山岳民族の子供たちですか! それは大変よいことです。うちとしてもタンブンのつもりで、半額に まけちゃいます」と快くディスカウントに応じてくれた。

しかし、Lホテルは慈悲の心がすぎて、自らを苦境に追い込むことになった。さくら寮の子供たちの食欲は尋常ではなく、ホテル側の想像をはるかに超えていたのである。

このLホテルのレストランはチェンライでも最大規模で、ゆうに300席はあり、メニューのほうも質量ともに充実していることで有名だったが、さくら寮の子どもたちが入って30分後には、ビュッフェ以内のトレイにあった食べ物はすっかり空っぽになっていた。後から入ってきた一般客も、バッタの大群が去った畑に立ち尽くす農民のような面持ちで呆然としていた。ふだん一食一品の粗食に甘んじている子供たちは、ここぞとばかりに怒涛の勢いで食べ続けたのである。普通の大人と同じどころか、その2倍も、いや3倍も。それ以来Lホテルが一切ディスカウントに応じてくれなくなったのは当然の話である。

まあ、値引きが期待できないのは当然として、申し訳ないのは、そんな間の悪いときに何も知らずにレストランに入ってしまったほかの食事客に対してであった。

ピックアップトラック
ホテルにはピックアップトラックの荷台に鈴なりになって乗りつけた

そこで、幾度にもわたるそれらの苦い経験から私たちが確立していったのが、「分離して一挙に撃て」というゲリラ作戦である。180人全員が一挙にひとつのレストランに押し寄せるから目立つのである。複数のレストランに分散し、それぞれ一ヶ所につき30名程度の人員ならば、皿を抱えた長い行列ができることもないし、食べ物が底をつくこともない。 子供たちが大食いなこともばれることはないだろう(ばれてるか)。

そんな事情をうすうす知りながらも、ワンカム・ホテルの太っ腹美人女性マネージャーは、さくらの子供たちをあいかわらず半額で食べさせてくれた。ありがたいことである。

子供たちの食べ方は私たちの予想をも裏切っている。いきなりケーキを山盛りもってくるやつ。いきなりソムタム、クイッテオというコストパフォーマンスを無視したコースをたどるやつもいる。まあ一番好きなものからということであろうか。お菓子やデザートを散々食べた後にやっとメインディッシュである。

それにしても若いということは本当にうらやましい。満腹になっても30分も休憩すればすぐにまた腹の空きができ、第二ラウンドで再びソムタムやらクイッテオやら、アイスクリームやらを食べだす始末。

M夫妻も「子供たちの幸せそうな顔を見られるだけで、私たちも幸せになります」と目を細めておられた。



2007年08月28日   「生と死の閾」


ラフ族の寮生Nが、祖母が危篤になったので村に帰らせてほしいという。私もNの家にはよく泊まらせてもらったことがあり、そのおばあさんとも面識があるが、とてもいい人だった。末期のガンだという。これまで市内の病院に入院していたのだが、もう医師も手の施しようがなく、村で最期を看取ることにしたので、親戚たちと一緒に車で村に帰るという。ラフ族では村の外で人が亡くなるのはよくないこととされているのだ。回復の見込みがないとなると、家に連れて帰ることが多い。

「お葬式、もし隆兄さんも時間があればきてくださいね」とNは言った。

「ああ、もし時間がとれたら、後を追っていくよ」

あいにく私は所用が重なって、葬儀に参列することはできなかった。数日してNは帰ってきた。お葬式はどうだったかと尋ねると、Nから意外な答えが返ってきた。

「いえ、まだ祖母は亡くなっていないんです」

なんでもその後、奇跡的な回復力でもちなおして、今は小康状態を保っているとのこと。それはとりあえずよかったじゃないか。喪服など着て、のこのこ出かけていかなくてよかった。

 だが、それから1週間ほどして、またNが切羽詰った声で、「祖母が亡くなったので村に帰らせてほしい」といってきた。

「そうか、今度はついに、亡くなったのか。じゃ、身支度して早く村に帰りな」

「隆兄さん、お葬式にこられますか」

「うーん、確約はできないけれど、できるだけ努力する」

翌日、Nは帰ってきた。あれ、もうお葬式が終わったの。ずいぶん早いな。普通、ラフ族のお年寄りが亡くなった場合、通夜に2、3日費やすのだけれど、どうなってるんだろうと思って聞くと、Nは少し申しわけなさそうにいった。

「あの、祖母はまだ生きているんです。」

「え、キミ、帰る前に、おばあさんは亡くなったと言ったよね。だから家に帰ったんじゃ…」

Nは少し口ごもりながら、

「はい、一度亡くなったのは亡くなったのだけど、しばらくしてまた生き返ったのです」

 本当かいな。笑っている場合ではないのだが、思わず私は笑ってしまい、つられてNもにっと笑った。

 生き返るって、ゾンビじゃあるまいし。本当は死にかけていただけだろう。いくら山の人々だって、通常の死の判定ぐらいはできるだろうに。いや、Nが2度目に帰るときも、実はまだ祖母が危篤の状態で、亡くなってはいないことを知っていたのだが、正直に私にそう言うと帰らせてくれないと思って、つい、死んだことにしてしまったのかもしれない。で、結果的に亡くならなかったので、しょうがないから生き返ったことにしようと…。まあいいや。一命をとりとめたのはめでたいことだから。

 しかしNの祖母のように、こうして親類一族が協力し合って重病の患者を病院に搬送したり、また村に連れ帰ったりと懸命にケアしてもらえる例は幸福なほうである。悲惨としかいえないケースもある。

ラフ族の葬儀風景
ラフ族の葬儀風景

エコホームの寮生、Iの父親が肺炎や腫瘍など多臓器不全の症状でタイ病院に入院し、誰も親戚が見舞いに来ないというので、小学校6年生のIがずっとつきそって看病をしている。プライバシーの保護のためか、医師は父親の病名を明言しなかったが、父親が寝ているドミトリーのその病棟は地元の人々の間ではひそかに「エイズ病棟」の名で知られていた。Iはラフ族の少女で、3年前に母親をエイズで亡くしている。父親がなくなればもう誰も彼女の面倒を見るものはいなくなる。

 ラフ族の人々にとっては、今は農繁期で畑仕事が忙しいし、親戚兄弟が入院したからといってずっとつきそいをすることはできない。そこで子供が借り出される。子供には拒否権がないのだ。それにさくら寮の子供であれば、スタッフが車で送り迎えしてくれ、食事代まで子供に渡してくれる。実をいうと、大人たちは時間がないわけではない。お金を使いたくないから付き添いにきたくないのだ。病院で付き添いをすれば食事代とか交通費とか、何かと金がかかる。自分の家族で精一杯で、兄弟や親戚のことまで手がまわらないという。

「プアン・キンカウ(食事友達)」というタイの言葉は、食べるときだけの友達という意味だ。食事に誘うときは喜んでやってくるが、困ったときはさっと潮が引くように離れていってしまう友達のことだ。親戚も同様で、「ヤート・キンカウ(食事親戚)」である。結婚式やお祭りで飯や酒にありつけるときは。みな親戚面をさげてやってくるけれど、いざ困ったときには、兄弟親戚であっても見てみぬふりで、誰も助けに来てくれない。面倒なこと、都合の悪いことは全部子供におしつけてしまう。

タイの公立病院は、IDカードさえ持っていればほとんど無料(30バーツ)で治療を受けられる。Iの父親の場合も入院費を請求されるわけではない。親類たちは交通費と手弁当代を惜しんでいるだけなのだ。実のところ、Iの父親には6人の兄弟姉妹がいて、何人かは四駆のピックアップトラックを所有しており、ガソリン代も出せないほど生活には困っていない。

 Iも、本当は勉強が遅れるのが心配なので早く学校に戻りたいという気持ちもあるが、自分が父親の世話をしなければ、誰も代わって父親の世話をする人がいないため、ずっと病院で寝泊りしていた。熱帯の野戦病棟のように蒸し暑く、末期的な症状を呈している数十人の患者とその家族たちでひしめいているドミトリーのベッドの下の茣蓙一枚の寝具で毎日寝泊りしながら、父親の面倒を見ていた。親戚の人は1バーツたりともお金をくれないという。それではIはご飯も食べられないではないか。要するにIとIの父親は親戚一同から完全に見放されているのだった。

私たちにできることは、ただ、Iに食費を支援し、Iが寂しくないように寮の友人を一緒につきそわせることだけだ。が、Iにしても、そう長く学校を休むわけにはいかない。苦しそうな呼吸を続ける父親と、泣きそうな顔でその手を握り続けるIのやせた小さな肩を見ながら、つらい気持ちになった。

結局、Iが父親を連続5晩看病したところで、私たちスタッフはIを寮に帰らせた。小6の彼女をいつまでも病院で寝泊りさせるわけにはいかないし、彼女自身も父親のことは心配ながら、疲れがたまって限界のようだった。

それから1週間後、病院で父親は誰にも看取られることなく死んでいった。5日たっても親戚は誰一人遺体を引き取りにこなかった。自分のバイクは借金してでも買うが、人の棺桶のために借金するのは惜しいのだろうか。12歳のIの意向を聞き、さくらのスタッフがすべての手続きをして、父親の遺体を荼毘にふし、お骨を村に持ち帰り、埋めることにした。

山岳民族の人たちは兄弟親戚の絆が強く、貧しいながらも互いに助け合って生きている、というのが私たちの一般的なイメージだ。もちろん大半の人は今もそうに違いないけれども、そんなイメージの修正を迫られるようなケースも出始めた。

ラフ族の葬儀風景
ラフ族の葬儀風景

白熱の女子サッカー
2、8月半ば、さくら寮では恒例の寮内スポーツ大会が行われた。白熱の女子サッカー。

運動会

運動会
運動会


2007年09月28日   「携帯電話問題」


さくら寮ではたまに、寮生の所持品抜き打ち検査なるものを実施している。

支援によって寮費の負担が少ないぶん、集団生活上の規律が課される寮生活であるから、当然、門限やら当番仕事やら、いろいろと規則がある。ドライヤーやアイロンやポータブルテレビなどの電化製品は使用禁止である(ちなみにアイロンは共同のアイロンは使用可、電池式のポータブルCDプレーヤーやMP3プレーヤーは使用可)。そこで、そうした禁制品を所持していないかどうかを調べるのである。たいていは自己申告制であるが、悪質な隠匿が疑われるような場合は、ロッカーを開けての捜査(?)も必要になってくる。

このところ目立つのが携帯電話の所持である。さくら寮では寮生の携帯電話の使用は禁止されている。しかし最近になって、年長の生徒の多くがひそかに所持、使用するようになった。先日の検査でも10台あまりの携帯電話が押収された。隠し場所はロッカーの服の中、布団の下、ゴミ箱の中(?)などいろいろ。男子では巧妙にも本体や充電器を天井裏に隠している者もいた。

なす
これ、ぜんぶナスです。きれいでしょう?

携帯電話は不鳴動着信が可能なので、深夜などにこっそりとベランダなどに出て小声で話せばスタッフにも知られずにすむ。もちろん同室のルームメートたちにはばれているが、結束が固い場合はスタッフにたれこんだりはしない。しかし、 反目しあっている寮生同士の場合、運悪く所持がばれた生徒が、腹いせに「自分だけじゃない、あの子も、この子も・・」などとちくり、芋づる式に使用が発覚することもある。そんなことで友情には亀裂が入り、寮生同士が疑心暗鬼に陥り、寮内の人間関係が一気に悪化することもある。

寮内では使わないが、学校など外で使用している寮生も多い。寮で見つかって没収されないように、電話機と充電器を下校時に友達の家に預かっておいてもらうのである。携帯を使用する寮生の年齢も低年齢化しつつある。さくら寮内の携帯電話問題は、もはや放置しておけないような段階にきている。

ついに先日には、寮生たちからスタッフに、携帯電話使用の解禁を要望する嘆願書が提出された。寮生たちの言い分は、学校の友達と宿題をアドバイスしあったり、先生からの連絡を受けたりするのに必要だからというのだが、さくら寮でも、時間の制限はあるが電話の取次ぎはしている。ホンネのところは、携帯を使う最大の目的は、恋人や異性の友人と連絡をとることであろう。

さて、ここで読者の多くは「あれ?」と思われているかもしれない。さくら寮は貧しい山岳民族の子供たちを支援している寄宿舎なのに、なんで生徒に携帯電話が買える経済力があるわけ? 当然の疑問である。しかしさくら寮に限らず、寄宿舎を運営するNGO はどこでも携帯の使用禁止にもかかわらず、このごろは同様の問題を抱えていると聞く。

タイでも携帯電話は安いものは1000バーツ程度で売られるようになった。

約10年前に私がはじめてタイで携帯電話を買ったとき、値段は5万バーツあまりだった。私自身は携帯電話が大嫌いで、今でもめったに持ち歩かないのであるが、そのときちょうど郷里の母が脳卒中で倒れ、万一のときのために、「天国と地獄以外はどこにでも通じる」というふれこみの強力な周波数帯の方式のものを買ったのだ。(なのにちょっと山に入るとさっぱり通じなかった。山の中が天国だったか地獄だったかは知らないが、明らかな誇大広告である)

この10年間で値段は50分の一に下がったのである。携帯電話は必需品とはいかなくても、すくなくともぜいたく品とは呼べなくなってしまった。

職業専門学校に通うある寮生女子は、私にもらす。

「だって私のクラスの生徒で携帯を持っていないのは私一人なんですよ。恥ずかしくて、恥ずかしくて」

高校、専門学校では、すでにどこでも授業中の使用以外は携帯の使用を黙認しているという。ちなみに縫製を学ぶ彼女のクラスの大半は山岳民族である。それほど山岳民族の社会でも携帯が普及してしまっているのだ。いや、電話線やインターネットや道路網などのインフラが整備されていない山岳地帯においては、携帯電話だけがコミュニケーションの唯一の命綱になりつつある。

 では、すでにタイのほとんどの若者が使っており、ぜいたく品とは呼べない携帯電話を、なぜさくら寮のようなNGO系の寄宿舎の寮生だけが使ってはいけないのか。これをきちんと寮生たちに説明するのは意外に難しい。

まず、さくら寮に入寮する資格のあるのは、親に経済力がなく、貧しい家庭の子供のみであり、日本の支援者から援助を受けていること。日本の支援者のイメージでは、タイではまだまだ携帯は高価なものである。わずかなお小遣いの中から日本でタバコや酒代を倹約して支援金を送っている里親のかたがたが、寮生の携帯電話を使用していると知ったら、気分を害するに違いない。怒って支援をやめてしまう人もいるかもしれない。たとえ電話機自体が安くなったとはいえ、電話代など月々の出費は確実にかさむ。携帯電話を使えるような経済的余裕があるならば、そもそも支援の必要などないと判断されてもしかたがないことだ。

 しかし、ここでも寮生たちは反駁する。

 「電話も友達から安く譲ってもらったものだし、電話のカード代は(男)友達が支援してくれているんです。受けるほうがほとんどだし。だからお金はかからないんです」ここで友達というのは、女子の場合、男友達、つまり恋人もしくは援助交際の相手のことを意味ずる。そうかそうか、主食とおやつは別腹で、学費のほうは親のすねをかじり、遊興費は恋人からってわけだ。なるほどね、それなら問題ないな。

なんて、納得していてはいけない。

実はここが問題なのである。携帯電話を持っていれば外部との個人的なコミュニケーションが容易かつ緊密になり、恋人や外部の友人たちとの待ち合わせも簡単にできる。それはやがて非行や不純異性交遊(死語?)に結びつく温床となり、結果的には結婚、退寮などによって勉学の機会を失ってしまう確率を上げるのではないかという心配である。

すなわち、「携帯電話=ぜいたく品のイメージ、だから使用不可」という説明は、実は建前であって、真の問題は携帯電話を使うこと自体にあるのではなく、むしろ携帯を使うことによって引き起こされるかもしれない、売春、援助交際など寮生の行動や風紀の乱れを危惧しての禁止措置というのが実はスタッフの偽らざるホンネなのである。

でも、本当にそれだけなのか。できればこの世から携帯電話を撲滅させたいと願うほど忌々しく感じている私の意固地な抵抗の深奥には、世界のグローバル化と高度消費経済の侵食によってこのチェンライのような辺境までが「ケータイ的文化」と電磁波にとりこまれつつあることへの焦燥があるのではないか。

携帯問題、退寮者問題、バーツ高による経営難、さまざまな問題を抱えて、さくらプロジェクト自身も運営上の岐路に差しかかっている。次回からは、そんなさくら寮の今後の行方やNGO支援のありかたについて真面目に考察していきたいと考えている。

なす

なす
クリスマス会でのさくらっこたちの演技
(ちゃーお38号より転載)


2007年10月24日   「ノーパンとポストモダン」


ちょっと前の話になるが、新聞の三面記事を読むのが毎朝の日課であるスタッフのカンポンが教えてくれた(もっとも、タイの新聞の三面記事はいきなり一面から始まる)。タイではついに女子高生や専門学校生のスカートの長さが極限まで短くなり、さらに悪いことに、パンツをはかずに通学する女子学生が増えているという。これは、ナコンシタマラートでバイク事故を起こした女子学生の多くがパンツをはいていなかったという警察のコメントが発端になったニュースで、新聞、テレビなどでもかなり話題になったのでご存知のかたもあろうと思う。そればかりか、いまどきの女子学生の中には、陰毛を赤や紫に染め(アメリカの某女性タレントの真似とか)、わざと運転者や交通巡査官に見えるように挑発するものまでいるという。まあ、文化大臣、教育大臣ならずとも、とんでもない世の中になったと良識あるタイ人が嘆くのはわかる。

さくら寮にもラジャパッド・チェンラーイ(旧チェンラーイ教育大学)で学ぶ女子大生が数人いて、寮からバイクで大学に通っているが、確かに年々スカートの丈が短くなってきているのがわかる。超ミニスカートのまま豪快にバイクにまたがってエンジンをふかしながら寮を出て行く彼女たちを見ていると、「おいおい、もうちょっと膝を閉じたほうががいいんじゃないの」ひやひやするときがある。幸い、まだパンツはちゃんとはいているようだが。

ひと昔前までは、服装のモラルの厳しいタイでは、ミニスカートすらご法度で、そういう露出度の高い服を平気で身に着けて町を歩いているのはプロフェッショナル関係の女性だけだとみなされていたものだが、それがさらにノーパン、染め毛、刺青とは。

スカートの丈の長さ程度ならまだファッションの問題ですませられるが、その背後に深刻な事情が存在するとすれば、タイの若者たちの意識や道徳観、それにともなう行動や生活様式がここ10年ほどの間に恐るべきスピードで変化してしまったことだろう。

パソコン、インターネット、携帯電話が爆発的に普及し、コミュニケーションのありかたは革命的に変わった。経済発展、情報文化のグローバル化、高度消費社会の成熟の果てにある、単に記号的な差異だけに感応し、欲望し、その対象が横滑りしていくだけの社会。依拠すべき共同体や歴史観、いわばイデオロギーも大きな「物語」も共有できない「ポストモダン」世代が、タイにも都市部を中心にして登場し始めた。

テレクラ、援助交際、ブルセラ女子高生といった、日本で1980年以降爆発的な広がりを見せた現象が、タイでも20年ほど遅れて現実のものになりつつある。現にチェンラーイの某専門学校(多くの山岳民族の少女たちも通っている)の女子学生はそのほぼ100%が恋人もしくはステディな関係にある異性の支援者をもち、自分が援交している相手から月々いくらお手当てをもらっているか、その額を自慢しあうといった風潮さえあるという。相手を見つけるツールはやはり携帯、メール、チャット、友人の紹介…。

性も恋愛でさえもただ消費され、あらゆる価値観が相対化され、絶対的な意味を剥奪された社会では、ましてやキリスト教文化圏のように内なる倫理規範の縛りがない社会においては、「それのどこが悪いの」という問いに対して、誰も自信に満ちた明快な答えを出せなくなっている。

幸いにして、さくら寮では、門限破りやヘアスタイル違反、隠れて携帯電話を使用する程度のことはあっても、まだ売春、麻薬、夜遊び、自傷行為などの問題行動には走る子はいない。が、町の学校に通う寮生たちは、クラスメートとの交友関係から常にそうした誘惑と隣り合わせにある。「あの子がやっているなら私も・・・」となる。対岸の火事と言ってはいられない。火の粉は隣の家の軒先まで降りかかっているというのが実感だ。

ならばそんな危うい環境で子どもたちを学ばすのはやめて、みな山に帰してしまったらいいじゃないか。そのほうが子供たちの将来のためには幸せではないか、という意見があるが、それほど簡単な話でもない。帰属すべき山の共同体はかつてのような強度を失い、もうすでにほとんど崩壊しかかっているところもある。これから、住民の自発的な意思で山の村がかつてのような共同体を再構築していくことは困難で、もしそれが新しい形で可能であるとすれば、高い教育を受けた人が村に回帰してその知的リソースをフィードバックさせる以外にないのだ。

先日、日本に帰国したおり、支援者を対象にした毎年恒例の活動報告会があった。このところ私はそこでお話をするのが、憂鬱になりつつある。支援をあおぐために山の子供たちが素朴で純粋無垢な、心優しい子どもたちという愛すべきイメージをある程度アピールしつつも、一方で、情報開示という立場から、生々しい現場の現実を語らなければならないというジレンマからくる憂鬱である。支援者の共感を得、運営を経済的に安定して継続していくためには、従来型のステレオタイプなイメージだけを開示しているほうが無難なのだろうが、ある程度真実を知らせていかないと、支援者と現場の認識のギャップは広がるばかりで、結局それはいつか支援者を失望させることになる。

というわけで、冒頭のような話を報告会で紹介してきたのだが、やはり口をあんぐりあけておられるかたもあった。当然かもしれない。

さくら寮ちびっこチアリーダー
さくら寮ちびっこチアリーダー。こんなミニスカートならかわいいのですが・・・。

そういうニュースを聞くと、さくら寮の女の子たちはみなちゃんとパンツをはいているかどうか少し不安になるが、こちらの生徒たちはスカートの下にパンツどころか、そのままセパタクローをしたり、いたずらな悪ガキにいきなりスカートをまくり上げられても平気なように(?)ぶ厚い短パンを重ね穿きしているほどなので、今のところは心配には及ばないようだ。ではノーパン・ファッションは、数年前に世間を震撼させた「サムライ・ギャング」のようないっときの都市伝説かと思いきや、そうでもなく、都市の若者の一部では実際にはやっているらしい。


2007年11月28日   「中村さん南方に死す」


さくらプロジェクトの発起人であり、名誉顧問とでも言うべき存在だった中村清彌さんが亡くなった。88歳だった。
いつものようにタイを一人で旅行中、バンコクの定宿だったシャングリラ・ホテルにチェック・インしたまま翌日になっても部屋をでられなかったので、なじみになっていたホテルのスタッフがドアを開けて部屋に入ったところ、浴室の中ですでに亡くなっていたとのことだ。心臓発作らしい。

中村清彌さん""
中村清彌さん

中村さんと最後にお会いしたのは昨年の夏だった。その1ヶ月ほど前に亡くなったさくら寮のスタッフ、ジョイさんのお墓参りにチェンラーイまでわざわざきてくださったのだ。ヘルニアの手術をされたばかりで、10メートル歩くのが精一杯というほど体力が衰えていたにもかかわらず、ジョイさんのお墓にどうしても参りたいというお気持ちから、かなり無理をされたようだ。夜にはチェンラーイ市内のレストランにスタッフ、寮生20名を招待してくださり、楽しく食事をした。中村さんがチェンラーイにいらっしゃると、いつもそうしてスタッフを囲んで夕食をされるのがお決まりになっていた。

メーコック川を臨むレストラン、「リムナム」でビールを飲みながら食事をされるのがなによりお好きだった。

 中村さんは、ジョイさんが元気だった頃、ビールを飲んで上機嫌になると「私がもう少し若かったら、ジョイさんにプロポーズしていました」と冗談をいって高笑いされたものだ。そしていつも「私ももう年ですし、心臓に持病も抱えています。チェンラーイにこられるのもこれが最後かもしれませんから」というのが口癖だった。しかし中村さんは100歳まで生きられるのではないかと思えるほどお元気で、私などよりはるかに健康にも気をつけられていた。
中村さんとの出会いは今から17年前にさかのぼる。

30歳になって初めてアジアを旅し、タイ北部の山岳民族と出会った私は、彼らのスローだが地に足のついた生活と文化に魅せられ、その後数年間かけて、タイの山々の村を泊まり歩きながら、写真を撮り続けた。そして約4年間かけて1冊の写真集と1冊のトレッキング案内の本を作り終えた。もうタイでやることは残っていなかったにもかかわらず、なぜか帰る気分になれず、そのままずるずるとタイに長逗留を決め込んでいた。確たる目的も予定もなく、無為に時間がすぎていく日々が続いた。

そんなある日、チェンラーイの安宿で寝転んでいた私のところに、背筋のしゃんとしたスーツ姿の白髪の日本人が訪ねてきた。品のよさそうなその老人は、東京の有楽町にオフィスのある金属関係の会社の社長さんだという。
老人は自分の身の上話を語り始めた。

さくら寮での中村さん
さくら寮での中村さん(2006年秋

) 「私は第二次世界大戦の末期、あのインパール作戦で日本軍に従軍していましたが、白骨街道とまでいわれたあの過酷な戦地からなんとか生きのびて帰ってこられたのは、ビルマ(現在のミャンマー)のジャングルで右往左往していたとき、山岳地帯に住んでいた人々の助けとホスピタリティーがあったからです。今、私は山岳民族の人々に恩返しをしたいのです。私は老人で、もう体力は残ってはいませんが、あなたはまだ若い(当時私は35歳)し、いろいろな山岳民族の言葉ができるともお聞きしました。私の代わりに山の人たちを助ける力になってくれませんか。多少のお金であれば出します」

それは私がかつて愛読したアメリカの作家、ジャック・ケルアックの自伝的小説『路上』の中で、主人公サル・パラダイスの放浪生活の途上、ある日、街角に白髪の老人が現れて「他人のために嘆くようになれ」と言い残して去っていくという一節を髣髴させるような体験だった。この老人(当時すでに71歳だった)すなわち中村清彌さんとの出会いが、「さくらプロジェクト」を立ち上げるきっかけになった。

時を前後して知り合った芝浦工大の畑聡一教授とアカ族の村へ調査に同行したとき、なにか村人のためにできることはないだろうかという話になり、「山の子供たちのための生徒寮をやったらどうでしょうか」という提案をしたのも、その1ヶ月ほど前にお会いした中村さんの「三輪さんがもしなにかおやりになるのであれば、資金は出します」という言葉がぼんやりと私の耳に残っていたからだった。そのとき私はすべてが符号のようにある一つの道筋に向かって用意されているような感覚に包まれていた。

ジョイさんの墓にて
ジョイさんの墓にて(2006年秋)

1991年春、さくら寮の建設が始まった。

以来、中村さんは年に数回のペースでタイにいらっしゃるようになった。

ここからは余談であるが、中村さんはさくらプロジェクトだけでなく、他のNGOの支援もされていたので、中村さんをご案内して、しばしばミャンマーとの国境地帯まで足を運んだ。まだカレン族軍とミャンマー政府が紛争状態にあった危険エリアにもたびたびお供した。中村さんの心にはいつもタイの向こう側のミャンマーがあったのだ。メーホンソン、メーサリアン、ターク、フアメカム、国境の向こう側から来た人を見つけると、片言のビルマ語を使って話しかけ、ビルマ語が通じないと悲しげな顔をされた。車で山道を走っているとき、道端で牛が放牧されているのを見ると、大声で「ハイ、ウア! ハイ・ウア!」と叫び「ビルマではこういって牛を追うんですよ」といって上機嫌で懐かしそうに話してくださった。中村さんの心にはいつも60数年前のビルマでの日々の幻影があったようだ。人間は自分の人生を決定的にした出来事やその場所に立ち帰る欲求に駆られるものだ。リアルを感じられる瞬間というのはそれが幸福なときであるかどうかは別として、一生の中でそう多くはない。中村さんにとってのビルマでの日々は、自分の人生を確かめるための深層の場所であり、人生でたち帰るべきイメージの故郷だったのかも知れない。

後日、娘さんの中村恵子さんからメッセージをいただいた。以下はその一部である。 「本人は遺言でも口頭でも『葬儀はしない』と繰り返しておりましたので、社員も黙祷のみで新年度の業務に励んでおります。『人間は裸で生まれて身体ひとつで亡くなり土にかえる。ジャングルのやしの木の下でひっそり旅立てたら本望』と父は申しておりましたが、やはり遺族にしてみればもう少し生きていてほしかったという気持ちもあります」
中村様のご冥福をお祈りする。

ジョイさんの墓にて
さくら寮の生徒ナシー・ジャトーさん(中2)が描いた絵


2007年12月28日   「13歳の決断」


クラトンをメーコック川に流す寮生たち
クラトンをメーコック川に流す寮生たち
11月下旬のローイクラトンの夜、さくら寮の子供たちは、いくつかの小グループに分かれて、それぞれスタッフに誘導され、メーコック川のほとりで開かれているローイクラトンの祭りのイベント会場に遊びに行った。

数年前までは、さくら寮では危険防止のためにイベント会場へ遊びに行くことを禁止していた。しかし、ものごとは禁止してばかりではいたずらに欲望を刺激するばかりで、結局何人かは無断で寮を抜け出して遊びに行ってしまう。中途半端な時間に寮に戻ってきてスタッフに叱られるのを恐れて、あえて朝方に帰ってきたりする。深夜行く場所がなくて外をうろうろしていればよけいに危険度が増す。好奇心旺盛な年代の子供たちである。たまにはガス抜きして、ちゃんと遊ばせてやることも必要だ。というわけで、昨年から子供たちをスタッフ同伴、時間制限付で遊びに行かせることに方針変更したのだった。

実際、祭りから帰って、「遠くから寮の窓越しに聞こえてくるイベント会場の賑やかな音楽や観覧車のイルミネーションを眺めていると、どんなに楽しいことだろうと、いつも行きたくてうずうずしたけど、実際に行ってみたら屋台で食べ物や服や雑貨を売っているだけで、物珍しい物なんてあんまりなくて、期待はずれだったわ」と正直な感想を述べる寮生もいて、これでしばらくは無断外出者も減るだろうと思っていた。

ところが翌日、小学6年生の女子3名と小学4年生の女子1名が、夜8時過ぎた頃になって塀を乗り越え、寮を抜け出して行方不明になってしまった。行方不明といっても、行きそうな場所はこの夜までやっているローイクラトンのお祭り会場ぐらいしかない。昨夜だけでは遊び足りなかったのだろうか。寮に残った友人たちの証言では、4人は、会場の中にあったアトラクションのひとつである「テーク」(ディスコ)にただならぬ関心を抱いていたらしい。やたら大音響の音楽にあわせてステージの上で、客寄せの若いギャルたちがミニスカートで踊りまくる、タイの田舎の祭りでは定番のこの娯楽施設は、18歳未満入場禁止である。4人は昨夜もここに入りたくてうずうずしていたのだが、お金も持ち合わせず、スタッフの目もあって入ることができなかったので、今夜再挑戦にいったのではないかというのが寮生たちの推測だった。

ミボヤイはため息をつきながら、諦めの口調で呟く。「もう私は探しに行かないよ。あれほど子供たちには、ローイクラトン祭りの夜に無断で外出するなら、自分の荷物をまとめて、もう寮には帰ってこなくていいという覚悟で出かけなさいって言っておいたのだから。あれだけ言って聞かない子は、もう鎖で縛りつけておくほかに方法はないわよ」

4人は、午後11時ごろになって寮に帰ってきた。やはり友達にお金を借りて、ディスコに入っていたらしい。

翌日のスタッフ会議で、昨夜抜け出した4人の女子に対する処分について話し合った。とりあえず4人のうちNとAの保護者を呼んで、注意を喚起するということになった。NとAのふたりは直情型の性格というか、理性よりも感覚、官能に従って行動に走ってしまうタイプの子だ。あとのふたりはまだ幼く、子分として誘われてついて行ってしまったらしい。

それにしても18歳未満入場禁止のディスコに10歳から13歳の少女たちがどうやって潜入できたのか。ディスコの入り口には寮生たちの通う学校の生活指導の先生も張り込んでいて、自分の学校の生徒を見つけると即座に補導するという体制がとられていたのに。

しかし、スタッフ会議が終わってこの4人に保護者呼び出しの話をする前に、またしてもNとAが行方不明になってしまった。ローイクラトンの祭りは前夜で終わっており、この夜はイベント会場ではなにも行われていなかった。ふたりはどこへ行ってしまったのか。

午後7時ごろから、私とカンポン、ミボヤイと上級生の男子たちが手分けして、さくら寮の周辺、そしてナイトバザールなど市内の若者が集まりそうな場所を探した。ナムラット村界隈にある彼女たちが立ち寄りそうな寮、アパート、友人の家を訪問し聞き込みをしてまわるが見つからない。私も年長の寮生たちと一緒に探しに出かけ、帰ったのは午前1時だった。タイとはいえこの季節のチェンラーイの夜は凍えそうなほど寒い。

朝方になって、ふたりは帰ってきた。昨日は昼間から学校へも行かず、さくら寮近くの知人の家に身を隠し、夕方から学校の友達の家などを転々としていたという。

さっそく問い詰めると、最初はあれこれ嘘を言っていたが、最後には、ナムラット村のアパートを借りて住んでいる専門学校生の男の子(彼も同じラフ族だった)、Jの部屋で深夜11時ぐらいまでテレビを見たりして遊び、その後、市内の友達の家に泊まらせてもらったと白状した。

しかし、昨夜のその時間帯にはJのアパートにはカンポンとデッスリチャイが訪問しており、Jは玄関口で応対し、カンポンたちに「誰も来ていません」と答えたという。あとになってNとAが「カンポンの兄さんたちが、ドアのところでJさんと『メーコック川の川原とか、バイクでずっといろんなところを探し回っていて、寒くて凍え死にそうだ』と会話しているのを聞いて、奥のほうでケラケラ笑っていたのよ」と親しい寮生にあっけらかんと打ち明けている事実を知って、カンポンたちが激怒したのは無理もない。子供たちがJに口止めしたのか、Jが機転をきかせたのはわからないが、昨夜のチェンラーイは異常に寒く、本当に私たちは凍えるような思いで深夜まで捜索を続けたのだった。おりしもこの日、ニュースで、ローイクラトンの祭りで賑わうスコータイの古寺の中で、日本人の女性が何者かに殺害されるという痛ましい事件を知ったばかりだった。最悪の事態が頭をよぎったりして、心配は募るばかりだった。

バナナの葉でクラトンを作る寮生
バナナの葉でクラトンを作る寮生
会場ではローイクラトン美少女コンテスト(?)も開催されていた
会場ではローイクラトン美少女コンテスト(?)も開催されていた。
数日後、NとAの両親が来寮し、今後の話し合いをした。ふたりは小学校6年生で、あと3ヶ月で卒業だ。「今ここで寮を追い出されたら、もう勉強する場所はない、今後は絶対にこのようなことがないように言い聞かせるので、どうかあと3ヶ月だけでも面倒をみてやってほしい」と保護者からは嘆願される。もちろんさくらとしても、そう簡単に義務教育を放棄させるわけにはいかないので、とにかく3ヶ月は寮で面倒をみて、小学校だけはなんとしてでも卒業させてやりたいと意向を伝えた。中学校に進学するどうかは休み中にじっくり考えればよいことだ。今の時代、どんな職場を探すにしても、小学校卒業の資格でも持っているのと持っていないのは雲泥の差である。まだ実社会を知らない本人たちにとってそういう実感は薄いのだろうが、子供に勉学を続けてほしいというご両親たちの切実な気持ちは話をしていてよく伝わってきた。

ところが当のふたりはもう気持ちが切れてしまっていて、もうさくら寮にはいたくないという。

じゃあ、退寮してどこへ行くのか、勉強を続けるのか、続けないのかと問うとAは「まだわからない」、Nは「友達の家から学校に通う」と言う。もちろんふたりの保護者は「そんな勝手なことができるはずがない。さくら寮にいれなかったら、どうやって生活し、誰が学費を払えるのか。いったいこの子は何を考えているのか」と怒り、嘆く。

寮内クリスマス会より
寮内クリスマス会より
AとNは今日にでも寮を出て行くといい、すでに荷物をまとめはじめていた。

困った。

実はNの里親のSさんご夫妻が、2日後にさくら寮を訪問されることになっていた。Sさんご夫妻は2年前にもさくら寮を訪問されていて、Nとの再会を本当に心待ちにされているのだ。

もちろん、Nにもそのことはつい1週間ほど前に知らせてあり、Nは「わあ、うれしい!」と飛び跳ねて喜んでいた。にもかかわらず、あんなふうにして規則を破り、今日限りで寮も出たいなどいい出すのは、まったくどういう思考の構造になっているのか。(たぶん思考などいうものはしていないのだろうが)

私はNに言った。「寮をやめるにしても、せめて里親の方がいらっしゃるのを待ってからにしたらどうだい。そして、日本のお父さん、お母さんの前で、なぜ寮をやめたいのか、これから何をしたいのかをちゃんと説明してから寮を出て行ったほうがいい。そうじゃないと、君と会えるのを楽しみにしていらっしゃった里親の方は、納得できないし、悲しむと思うよ」
当初は今すぐに出て行きたいと言い張っていたNだが、最後は「じゃあ、そうします」と言った。Aも少し落ち着いてきて、しばらくは寮に残って考えてみると言う。

2日後の夕方、Nの里親のSさん夫婦が来寮された。Nについての、これまでの経緯や、現在の状況を説明する。しばらくして学校から帰ったNが緊張した面持ちでやってきた。Nも交えて4人で、これからのことを話しあった。Nはさくら寮を出て、友達とアパートを借りるか、友達の家に寄宿しながら学校へ行くことに決めたことを硬い表情でポツリポツリと話した。

おふたりとも、小学6年の里子の思ってもいなかった決断に、大変驚かれていたが、一方で事態を冷静に受け止められていた。やはり13歳の子が友達とアパート暮らしをするのは現実的ではないし、ご両親の経済的負担を考えたら、そんなことを考えるべきではないだろうという意見を述べられた上で、「でも最終的に本人がどうしても寮を飛び出したいというのなら、しかたがないですね、子育てというのは本当に親の思い通りに行かないことは私たちも身をもって体験していますから」と話された。「でも、やっぱり、とてもとても残念です。なんとか気持ちを翻せないものか」

私のほうからいろいろとNに水を向けるが、彼女はもうあまりしゃべろうとはしない。

長い沈黙が続いたと、奥さんのほうが、抑えていた感情がこらえきれなくなったのか、嗚咽をもらされた。

彼女の涙をみて、Nも反対の方向を向き、腕で顔をおおってすすり泣き出した。奥様が涙を流し、Nがすすり泣いている横で、私とSさんのご主人はなすすべがなく、黙っていた。 重い時間が流れた。私は心の中で、里親のお二人にお会いしたこと、里親の方の涙をその目で見たことが、Nにとってなにか変化のきっかけにかってくれればよいと思った。

Sさんご夫妻は明日チェンマイに向かわねばならないので、Nとの面会はこれが最後の機会だった。これからチェンラーイ市内のホテルに戻られるという。

 別れ際、奥さんは二度、「きっと難しいとは思いますが、なんとかNちゃんに、寮に残るよう思い直すように、三輪さん、説得してあげられないでしょうか・・・」とおっしゃった。

寮内クリスマス会より
寮内クリスマス会より
「はい、がんばってみます」

Nはダンスが大好きな女の子である。学芸会のダンスやチアリーダーでは大ハッスルして、最前列の中央に陣取って抜群のリズム感で他の子達をリードしていた。「せめてあと1ヶ月、クリスマス会が終わるまでは寮に残ればいいじゃないか」と私はNに言った。Nは少し曖昧に頷いた。

ウィラットの運転でSさんたちをホテルまでお送りするのに、Nも自ら志願して同乗した。少し希望はあるかもしれないと思った。
翌朝、Nの姿は寮になかった。今日、母親がとりあえず面会に来るはずだったが、それさえも待たず、スタッフにも何も告げず、親戚の叔母さんと名乗る人と一緒にだまってどこかへ行ってしまったらしい。あわてて母親が追いかけた。

昨日のNの涙が嘘だったといいたいのではない。彼女の中で昨日と今日がまったくつながっていないだけなのだ。それは「時間=歴史」を欠いた人間の存在の(とても原初的な)あり方である。そして一定の価値観や倫理観を横糸にして記憶やイメージを時系列に沿って織り込んでいくことによって自己や世界を「歴史的存在」として意味づけていくという「ヒト」のみに可能な生き方の技術の習得もまた、教育という作業以外にはありえないことなのだろう。

寮内クリスマス会より
寮内クリスマス会より